五十七話:時を越えて届く言葉
取り出されたのは、一冊の古びた本だった。
「子どもの頃、何度も読み返した本です」
革表紙の角は擦り切れ、幾度も補修された跡が残っている。ミストラ・ウィングロードは慣れた手つきで頁をめくると、ある一節を指で示した。
「『竜と語ることは、支配ではない。理解しようとする姿勢そのものである』」
その言葉に、ノアが顔を上げる。
「アヴァンシア・ウィングロードが残した言葉です。昔の私は、ずっと遠い時代の理想だと思っていました」
そこには、アヴァンシアが各地で出会った竜たちの記録が綴られていた。会話を交わした日もあれば、何日待っても姿を見せてもらえなかった日もある。それでも彼女は訪問を重ね、竜たちの言葉を書き留めていた。
「……こんなに何度も読んでいたのに」
ミストラの指先が、先ほどの一節へと戻る。
その時、扉が軽く叩かれた。
「入るよ。こっちはどうだい?」
顔を覗かせた神官長イスズ・エルガは、机の上の本を見るなり足をとめた。
「……ウィングロード? アンタ、アヴァンシアの?」
「はい。彼女の弟の家系にあたります」
「へえ……ちょっと見せてもらえるかい?」
イスズは差し出された本を数頁めくり、懐かしそうに目を細めた。
「ああ、あの子らしいねえ。山奥まで入り込んできて、会うなり翼の長さを測らせろって言うんだから」
「……アヴァンシアをご存じなのですか?」
「知ってるとも。断っても諦めないから、根負けして測らせてやったよ」
ミストラは返された本を手に、イスズを見つめた。何世代も前に生きた先祖のことを、目の前の神官長は昨日会った友人のように話している。
「失礼ですが、あなたはいったい……」
「その辺りは長い話になるから、また今度ねぇ」
イスズは笑って椅子を引き寄せた。あまりにあっさりした態度に、レクサスがかすかに笑い、ノアは困ったように眉を下げる。ミストラはなおも何か尋ねたそうにしていたが、やがて本へ目を落とした。
「……本当に、竜たちと向き合っていたんですね。何を考えているのか知ろうとして、何度でも会いに行って……」
「まあ、ちょっと強引な子だったけどね」
ミストラも口元を緩めたが、やがて本を閉じた。膝の上に置いた表紙をしばらく見つめ、静かに口を開く。
「……アルピーヌの記憶を見てから、何度も研究をやめようと思いました」
革表紙の端を押さえる指に、わずかに力がこもる。
「ですが、反抗すれば私も拘束されるでしょう。そうなれば、あの竜たちを助ける方法も探せなくなる。だから、何も気づいていないふりをして、解除方法を調べ続けたんです」
「その間にも、開発は進んでいたのですね」
イストの問いに、ミストラは頷いた。
「捕獲される竜が増え、複数を同時に動かす試験まで始まりました。私が止める方法を探している間にも、次々と軍へ引き渡されて……」
膝の上の本を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「他国への攻撃に使われると知って、もう時間がないと思いました。だから、資料を持ち出して侯国を離れたんです」
ミストラは本を脇へ置き、鞄から図面を取り出した。
「軍用型の詳細までは手に入りませんでしたが、初期型と共通する構造があります」
イストが図面を確かめる傍らで、ノアは机へ一歩近づいた。
「……アルピーヌを助けられますか」
「可能性はあります。軍用型では安全機構の多くが省かれていますが、初期型にあった停止系の痕跡は残っているはずです。そこを利用できれば……」
「外から止められる?」
レクサスの問いに、ミストラは図面の一箇所を指した。
「普段は難しいんです。ただ、装置の命令と竜自身の意思が衝突すると、制御が乱れることがあります。その隙に介入できれば……」
「意図的にその状態を作り出せますか?」
イストに問われ、ミストラはノアへ目を向けた。
「これまでに、アルピーヌが誰かの呼びかけで動きを止めたことはありますか?」
「……あります。私が名前を呼んだときに。それから、マレアさんの声にも反応しました」
ミストラは図面へ視線を戻した。
「でしたら、アルピーヌ自身の意思が命令に逆らおうとしたのかもしれません。同じ反応が起きれば、おそらく停止系へ介入する機会が生まれます」
「……そうすれば、元に戻れるんですね」
「まずは、命令を止めることからです。装置を安全に取り外す方法も、これから調べなければなりません」
昨日の王都上空で名前を呼んだとき、アルピーヌはわずかに動きを鈍らせ、こちらを振り返った。黒い仮面の奥にある瞳が、確かに自分を捉えていた。
「……なら、もう一度呼びます。今度は、戻ってこられるように」
顔を上げたノアに、ミストラも視線を合わせる。
「……はい。そのための方法を、必ず探します」
ミストラは設計図を机の中央へ引き寄せた。
「もう一つ。竜部隊の指揮艇には、制御装置へ命令を送る通信設備があります」
「では、その指揮艇を墜とせば、竜たちも止まるのでしょうか?」
レクサスが尋ねると、ミストラは首を横に振った。
「一度受けた命令は、達成するか上書きされるまで残ります。細かな行動は竜自身の判断に任せる仕組みなので、指揮艇を失っても動き続けるんです」
ノアは昨日の空を思い返した。命令に合わせて旋回する竜たち。その先頭には、黒い仮面を着けたアルピーヌがいた。
「……指揮艇を墜としても、戦いは終わらないんですね」
「ええ。だから、装置そのものを止める方法が必要なんです」
レクサスは図面を見つめ、やがて口を開いた。
「飛行艇団にも協力してもらいましょう。墜落した脱出艇に、使える機器が残っているかもしれません」
ミストラが顔を上げた。
「通信装置が無事なら、調べてみたいです。侯国の機器を利用できれば、停止系へ信号を送る方法も見つかるかもしれません」
「では、飛行艇団に確認を依頼しましょう」
レクサスの言葉に、イストが頷いた。
「承知しました。ラクティス団長へ連絡いたします」
脱出艇の回収と機器の保全は飛行艇団に任せ、ミストラの協力を得ながら解析を進めることになった。
「ありがとうございます。私にできることなら、何でも」
「まずは傷を治してください。調査はそれからでも大丈夫です」
レクサスが包帯の巻かれた腕を見ると、ミストラは小さく頷いた。
「そうそう。せっかく命拾いしたんだ、身体は大事にしなよ」
イスズが椅子から立ち上がり、本へちらりと目をやる。
「アヴァンシアも研究に夢中になると食事を忘れる子だったけど、そこまで真似しなくていいんだからさ」
「……彼女も、そうだったんですか?」
「そりゃあもう。何度言っても聞かなくてねぇ」
イスズは呆れたように笑った。
ミストラの口元がわずかに緩む。
「……もっと、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん。今度ゆっくりね」
ノアは窓の外へ目を向けた。
北西の空には薄い雲が広がっている。昨日、アルピーヌたちが姿を消した方角だった。
あの編隊には、ほかにも多くの竜がいた。彼らにも名前があり、帰る場所があるのだろう。アルピーヌと同じように、誰かの声を覚えているのかもしれない。
ノアは窓枠に添えた指先に、そっと力を込めた。
「……必ず、連れ戻します」
レクサスが隣に並び、同じ空を見上げる。
机の上では、ミストラが閉じた本の表紙に、アヴァンシア・ウィングロードの名が静かに刻まれていた。




