五十六話:記憶の中の呼び声
夜が明けても、王城の緊張は続いていた。
西の城壁では損傷の確認が進められ、飛行艇団は上空の警戒を維持している。縮小された障壁も王都を覆ったままで、城内では騎士や伝令が慌ただしく行き交っていた。
その王城の一室で、レクサス、イスト、ノアの三人は、エリシオン侯国から亡命してきた男と向かい合っていた。
ミストラ・ウィングロード。
額には包帯が巻かれ、負傷した肩も固定されている。墜落からまだ幾らも経っていないが、事情聴取を申し出たのは本人だった。
イストは手元の書類に目を落とした。
「確認します。エリシオン侯国技術局所属、ミストラ・ウィングロード技師。侯国からの亡命を希望し、竜の制御装置について情報提供の意思がある。相違ありませんか」
「ありません」
掠れた声ながら、返答は明瞭だった。
イストが次の項目へ移ろうとしたところで、レクサスが口を開いた。
「……ウィングロード?」
その姓を確かめるような呟きに、ミストラが顔を上げる。
「はい。何か?」
「創世神話を編纂した、アヴァンシア・ウィングロードと同じ一族ですか」
ミストラの目がわずかに見開かれた。
「……ご存じなのですね」
「ストーリアでは有名な名前ですから」
ノアもその名を知っていた。創世神イースと、金の竜セレナ、銀の竜セレス。幼い頃から親しんできた創世神話には、編纂者としてアヴァンシア・ウィングロードの名が記されている。
「家に残る系図によれば、私はアヴァンシアの弟の子孫にあたります。彼女の著作も、代々受け継がれてきました」
「そうでしたか。それは興味深いですね」
「ですが、その話は後でも構いません。今は、あの竜たちのことを」
「……アルピーヌのことを教えてください」
ノアの言葉に頷くと、ミストラは鞄から数枚の紙を取り出して机に広げた。
その一枚を見た瞬間、ノアの視線が止まった。アルピーヌの顔を覆っていたものと、よく似た黒い仮面だった。
「これは?」
「初期型の設計図です。私は、この制御装置の開発に関わりました」
「最初から、竜を兵器として使うために?」
「少なくとも、私たちはそう説明されていませんでした」
ミストラは図面に視線を落とした。
「エリシオンでは、竜は危険な生物だと教えられます。制御されていない竜は、いずれ人へ牙を剥く。その根拠として語られるのが、レガリアの存在でした」
「……レガリア?」
「かつてエリシオンを守護しながら、最後には王国を焼き滅ぼした竜。侯国では、そう教えられています」
「その後、レガリアは封印されたはずですね」
レクサスの言葉に、ミストラは頷いた。
「はい。ただ、誰がどのように封じたのか、詳しい記録は残されていません。いずれ封印が解け、旧エリシオンに連なる者たちへ再び牙を剥くと伝えられてきました」
「それが、侯国を障壁で閉ざした理由ですか?」
「はい。外の世界も竜によって荒廃していると教えられていました。障壁の外へ出ることは原則として禁じられ、無許可で越えれば重罪です」
ミストラは窓の外へ目を向けた。
朝日を受けた王都には家々の屋根が連なり、通りには荷馬車が行き交っている。
「……こんなふうに街が続いているとは、思っていませんでした」
「アヴァンシアの記録が家に残っていても?」
「何度も読みました。ですが、あれは遠い昔の記録です。今の竜は当時とは違うのだと教えられていましたから」
ミストラは膝の上で手を組み直した。
「疑おうとも思いませんでした。外の世界を知る手段も、ありませんでしたから」
イストが記録用紙に筆を走らせる中、ミストラは少し間を置いて言葉を継いだ。
「状況が変わったのは、レガリアが死んだという報告が入ってからです」
その名に、ノアの肩がわずかに動いた。
「その情報は、エリシオンにも届いていたんですね」
「はい。それを機に障壁外への調査が再開され、調査隊が竜を連れ帰りました」
「……アルピーヌ」
「私が初めて見た外の竜でした。広い格納区画の奥で拘束され、白い毛並みは汚れ、首には床へ固定された拘束具がつけられていました」
「暴れていましたか?」
「いいえ。それが最初の違和感でした。資料には『捕獲された危険生物』とありましたが、あの竜は周囲を見渡しているだけでした。誰かが区画へ入るたびに顔を上げていたんです」
ノアは昨日のアルピーヌを思い出した。黒い仮面の下に隠されていた瞳が、脳裏によみがえる。
「……誰かを探していたのかもしれませんね」
「今なら、そう思います」
ミストラは図面を引き寄せた。
「その後、暴走を防ぐという名目で装着試験が始まりました。ですが、任務に出るたび、アルピーヌは何度制御しても同じ方角へ向かおうとしたんです」
「帰ろうとしていたんでしょうか」
「それを確かめたくて、無断で記憶の解析記録を閲覧しました」
「記憶……?」
「装置には、竜の視覚や聴覚、それに記憶の一部を読み取る機能があります。行動予測のためですが、閲覧には厳しい制限が設けられていました」
「そこで、何を見たんですか?」
イストの問いに、ミストラは窓の外へ目を向けた。
「森や山々、川の流れる街……そして、そこで暮らす人々です。水辺では水竜が人と共に過ごし、空には飛竜が舞っていました」
窓の向こうでは、朝日を受けた街が普段どおりの営みを続けている。
「最初はストーリアだけが特殊なのだと思い、閲覧できる記録を片端から調べました。ですが、調べるほど、私がこれまで信じてきたものが分からなくなっていったんです」
ミストラは図面の端を指で押さえた。
「そして、ある記録に行き着きました。その中で、アルピーヌが名前を呼ばれていたんです」
ノアが顔を上げた。
「女の人の声でしたか?」
「はい。『アルピーヌ』と。女性がそう呼びかけると、あの竜は振り返り、その方へ歩いていったんです」
「……マレアさんだ」
「お知り合いですか?」
「アルピーヌを探している方です。ずっと、帰りを待っているんです」
ミストラはしばらくノアを見つめていたが、やがて静かに目を伏せた。
「……そうでしたか」
彼の視線が、自ら開発に携わった黒い仮面の設計図へ戻る。
「記録を見たとき、あれが名前だと気づくまで時間がかかりました」
ミストラは一度唇を結んだ。
「……私たちは、ずっと管理番号で呼んでいたんです」
ノアは何も言わなかった。
マレアがどれほどアルピーヌの帰りを待ち望んでいるか、彼女は知っている。たった一度名前を呼ばれただけで振り返った竜が、どれほど長くその声を聞いていなかったのかと思うと、膝の上に置いた指が自然と握られた。
その手に、隣からレクサスの指先がそっと触れた。
「その記録を見てから、どうされたんですか?」
レクサスの問いに、ミストラは鞄へ手を伸ばした。
「その夜、家へ帰ってから、アヴァンシアの記録を開きました」
取り出されたのは、一冊の古びた本だった。




