五十三話:正午の鐘は戦端を告げる
王城の謁見室に、細い光が落ちていた。
磨かれた床を白く切り分けるその先、玉座には国王アリスト・アルファードと王妃シルヴィア。右手にレクサス、少し離れてユーノス・ライトエースと騎士団幹部が控える。
ノアはレクサスの後方に立っていた。
本来、聖騎士が他国使節との謁見へ列席することは多くない。
だが、今日の使節が求めているものを思えば、外す理由はなかった。
謁見室中央には、濃灰の礼装をまとった男が立つ。
武器は預け、随員が黒い書状筒を抱えていた。
「エリシオン侯国を代表し、ストーリア国王陛下へ、我が国主の親書をお届けいたします」
――エリシオン。
その名に、ノアの指先がわずかに強張った。
竜との盟約を違え、滅んだと伝えられる国。
けれどノアは、レガリアの内側で、それとは違う景色を見ている。
陽射しの庭。人と竜が並ぶ国。優しい目をした王。そして、血に濡れた鎧へ伸び、届かなかった手。
あれが記憶か幻か、今も証明はできない。
書記官が封を切る。
乾いた音のあと、アリストが告げた。
「読み上げよ」
使節は一礼し、親書へ目を落とした。
「ストーリア王国は、周辺諸国の安寧を脅かし得る神竜を秘匿し、その力を王家および聖騎士の権限下へ置いている。当該個体は、ノア・ライトエースを名乗る者と同一である。我が国はすでにこれを確認している」
室内の空気が硬くなる。
「また先般、北西海域において、貴国飛行艇団旗艦ホークは我が国所属艇へ一方的な停止を要求し、追跡行動に及んだ。これに対し、我が国管理下の竜が防衛行動を取ったことは、所属艇と乗員を守るための正当な措置である」
管理下の竜。
ノアの脳裏に、霧の中のアルピーヌが浮かんだ。
仮面の赤い光。命じられるまま動く身体。それでもマレアに名を呼ばれた瞬間、確かに戻った眼差し。
「……アルピーヌを」
声が漏れる。
使節が視線を上げた。
「あなたたちが、ホークを襲わせたのですか」
「管理個体に付された私的な呼称について、当方から申し上げることはございません」
ノアの眉がわずかに寄る。
「アルピーヌには意思があります。名前があって、大切に思う人もいる。それを知った上で――」
「ノア」
レクサスの声が入る。
咎める響きはなく、ただ隣にいることを知らせるようだった。
ノアは言葉を止める。
使節は姿勢を崩さぬまま、穏やかに続けた。
「竜に意思があるとのお考えは、承知いたしました。ですが、個人の情緒と国家の安全保障は、分けて論じていただかなければなりません」
レクサスが静かに顔を向けた。
「意思を奪って従わせる行為を、管理とは呼びません」
「殿下は、竜という存在にいささか情を寄せておられるようですね」
声には、変わらぬ礼節があった。
「制御されぬ力は、いずれ民へ牙を剥きます。それを未然に防ぐこともまた、国家の責務にございます」
「起こるかもしれない危険を理由に、先に意思を奪うのですか」
「危険が現実となってからでは遅いのです」
使節はわずかに頭を下げる。
「貴国ほどの国家であれば、その程度はご理解いただけるものと存じます」
レクサスの目が細くなる。
「あなたたちは危機に備えたのではない。その力を、自分たちのものにした」
「評価については、貴国にお任せいたしましょう」
使節の口元には、薄い微笑が残っていた。
アリストが片手を上げる。
「続きを」
使節は再び親書へ目を落とした。
「エリシオン侯国は、地域の安定と人類の安全を確保するため、ストーリア王国へ以下を要求する」
ノア・ライトエースの即時引き渡し。
竜および竜と意思疎通を行う者の記録の開示。
飛行艇団の武装解除と査察団の受け入れ。
竜に関する研究、接触、保護活動の停止。
読み上げられるたび、言葉が石床へ冷たく落ちていく。
「本日正午までに受諾の回答を。なお、我が国としては、貴国が賢明なる判断を下されるものと期待しております」
使節はそこで一度、親書から目を上げた。
「受諾なき場合、我が国はストーリア王国が周辺諸国の安全を脅かす意思を有すると判断いたします」
アリストはしばらく使節を見つめた。
「ひとつ確認しよう。そなたらは、竜を国家の武力として所有することが正しいと考えているのだな」
「力は、秩序のもとに置かれてこそ民を守ります」
「その秩序を定めるのは」
「国家です」
「竜自身の意思は、そこに含まれぬのだな」
使節は一礼した。
「国家の安寧に優先される意思があるとは、我々は考えておりません」
アリストは目を伏せ、やがて顔を上げる。
「要求は、すべて拒絶する」
使節の目がわずかに動いた。
「……左様でございますか」
声色は変わらない。
「陛下ほどの御方であれば、より賢明なご決断をいただけるものと期待しておりました」
「余計な言葉はよい」
アリストの声が、低く落ちた。
「続きを申せ」
使節は深く一礼した。
「承知いたしました」
親書が閉じられ、代わって取り出されたのは、別の書状だった。
黒い封。暗赤色の紐。
初めから用意されていたものだった。
「我が国としても、このような結論は望むところではございませんでした」
ユーノスが半歩前へ出る。
「では、エリシオン侯国主の名において、第二の通告を申し上げます」
黒い封が切られる。
「ストーリア王国が神竜の引き渡しおよび武装解除を拒否したことを受け、エリシオン侯国は、本日正午をもってストーリア王国に対し宣戦を布告する」
直後、正午を告げる鐘の音が、重く王城の石壁を渡っていく。
使節は変わらぬ姿勢で書状を閉じた。
拒絶されることも、この書状を開くことも、初めから決められていたのだ。
最後通牒は選択肢ではなく、戦争に名目を与えるための手順だった。
「使節の退出を許す」
アリストが告げる。
「帰国までの安全は保障する。ただし正午以降、そなたらの軍用艇が我が国領空、領海へ侵入した場合、敵性行動と判断する」
「寛大なるご配慮、感謝いたします」
使節は胸へ手を添え、一礼した。
「この先、貴国が下されたご決断の意味を、改めてお考えになる機会が訪れぬことを願っております」
アリストは答えなかった。
一団が退出し、重い扉が閉じた。
鐘だけが遠く続いている。
「エリシオンの所在は」
アリストの問いに、ユーノスが静かに首を振った。
「依然、特定できておりません」
アリストの指が、玉座の肘掛けを一度だけ叩いた。
ノアの指が、胸元で固く重なる。
「……私がいるから」
声が落ちた。
「私が神竜だから、ストーリアが――」
「君一人が背負うことじゃない」
ノアが顔を上げる。
「アルピーヌを見ただろう。君を渡したところで、彼らが竜を手放すとは思えない」
――仮面の奥で、一瞬だけ戻ったアルピーヌの眼差しが浮かぶ。
「……助けたいです。アルピーヌを。それから、あの国に捕らえられている竜たちを」
レクサスが頷く。
アリストは室内を見渡した。
「王国騎士団は国境、主要港、王都の防衛態勢へ移行。民の避難路と物資輸送を最優先とせよ」
「はっ」
「飛行艇団には出動準備と哨戒範囲の拡大を命じる。敵性艇を確認した場合、その航路を記録し、帰還を優先させよ」
書記官が立ち上がり、伝令が走る。
閉じていた扉が次々に開き、王城へ新しい足音が広がっていった。
ノアはゆっくりと手を下ろした。
その指先に、レクサスの手がそっと触れる。
強く握らない。ただ、そこにいると伝えるだけの触れ方だった。
正午の鐘が鳴り止んでも、王城を駆ける足音は絶えなかった。




