四十七話:港に残る傷
城門を出ると、昼過ぎの陽光が石畳に白く落ちていた。
市場の売り声は聞こえる。通りを行き交う人もいる。けれど、どこかいつもより声が少なかった。立ち止まった者たちの視線が、ひとつの方角へ流れている。何があったかは分からない。ただ、何かあったのだとは感じている――そういう空気だった。
ノアは足を速めた。隣でレクサスが、静かについてくる。
確かめなければならなかった。
あれが本当にアルピーヌだったのか。そして、彼がどこへ去ったのかを。
港に近づくほど、空気が変わっていった。
最初に気づいたのは、足を止めた魚売りだった。台の向こうで手を止め、港の方角を眺めている。その隣では、買い物籠を抱えた女が連れの耳に何かを囁いた。
路地の角では、子どもが数人固まって港を指差している。
「なんかでかいのきてる」
「ホークだろ、あれ」
「でも壊れてない? 動いてないし」
「レクサス殿下、港で何か――」
人垣の中から、男が声をかけてきた。レクサスは足を止めず、しかし声だけは穏やかに返した。
「ああ、確認に向かっているところだよ。心配をかけたね」
ノアは前を向いたまま歩いた。
先に見えたのは、曳航されて戻った飛行艇団の旗艦ホーク級だった。船腹には深い裂け目が走り、応急の覆いが張られている。岸壁へ繋がれた綱は何重にも渡され、甲板では被害を免れた飛行艇団員たちが慌ただしく立ち働いていた。
水竜たちの助けで、ようやくここまで引いてきたのだろう。濡れた船腹が、鈍く光っていた。
係留された旗艦に近づき、ノアは損傷した船腹へ視線を向けた。背後ではモコが、水辺を覗き込むように首を伸ばしている。ときおり鼻をひくりと動かしては、沖の方角へ顔を向けた。
少し離れたところでは、レクサスが飛行艇団員から被害の経緯を聞き取っていた。短く指示を返しながらも、ときおりその視線はノアたちのいる水辺へ向く。目が合うわけでもない。ただ、確かめるように――それだけで十分だった。
損傷した旗艦の向こう、港外れの水面に青い影が浮かんでいた。こちらに気づいたのか、大きな水竜がゆるやかに水を分けて近づいてくる。
『お久しぶりですね、ノア』
低く澄んだ声は、海の底から届くように深い。けれど、その響きは波が寄せるようにやわらかかった。
「……今回も、力を貸してくださってありがとうございます。レガリアとの戦いのとき、王都を共に護ってくださったことも、父から聞きました」
アクアはそっと目を伏せた。
『せめて、届いた命だけでも取りこぼしたくありませんでした』
ひと呼吸の間があった。その静けさの奥に、間に合わなかったかもしれないものへの痛みが滲んでいるのをノアは感じた。
その背後で、小さな水音がいくつも重なる。
波間から子水竜たちが顔をのぞかせ、こちらをじっと見つめていた。
そのうちの一頭が、はっとしたように目を見開いた。
『あ……あのときの、おねえちゃん』
つられるように、ほかの子らもそろそろと水面を割って近づいてくる。
『ほんとだ……!』
『もこもこもいる!』
『ぼくたちも、みたよ! ひっぱったの!』
一頭が遠慮がちに鼻先を寄せてきた。ふわ、と水の匂い。まだ幼い体毛が、陽光にほわりと輝いている。
「……覚えていてくれたの?」
子水竜たちは誇らしげに首を上げた。場の重さを感じ取っているのか、それ以上はしゃぐことはない。それでも、明るんだ目だけは隠しようがなかった。ノアは思わず息をゆるめた。モコも、鼻先をほんの少しだけ子水竜たちの方へ傾けた。
『しろいの、あっちいった』
小さな鼻先が、北西の沖へ向く。
『しろいの、おっきいのといっしょだった』
言葉は拙い。けれど、見たものをそのまま伝えようとしているのは分かった。
アクアが静かに口を開く。
『この子たちも救助を手伝ってくれました。海に落ちた者たちを見つけ、岸へ導き、この艦をここまで引くのにも力を貸してくれたのです』
アクアの視線が、遠い沖へ流れる。
『海の上が、いつになく騒がしかったのです。気になって海面へ出たときには、大きな飛行艇が落ちかけ、若い氷竜がそこから離れていくのが見えました』
「アルピーヌ……」
その名を口にしたことで、曖昧だった輪郭がひとつ定まった。
あれは、やはり彼だったのだ。
『驚いてその先を見渡すと、さらに遠く――北西に霧に紛れて飛び去る、見慣れぬ金属の艇がありました。氷竜もまた、その消えた先へ向かっていったのです』
指先がこわばる。
「……北西」
沖を閉ざしていた霧は、もうほとんど消えかけていた。
それでも、その向こうまでは見通せない。どれほど目を凝らしても、氷竜の影も、見慣れぬ金属の艇影も見つけることはできなかった。
アクアは遠い水面へ目を向けた。
『あの竜は、苦しんでいるように見えました。己の意思だけで動いているようには、私には思えませんでした』
その声は、彼をただ敵と呼んでしまうにはあまりにも静かだった。
『追うことも考えました。けれど、あのときは海に落ちた者たちを助ける方が先でしたから』
ノアは何も返せなかった。それが正しいのだと分かる。分かるからこそ、胸に残るものがあった。
* * *
アクアがふたたびノアを見た。
『……自分を責めているのですね』
息が止まる。否定しようとして、できなかった。
『そう思うのは、あなたが彼を見捨てていなかったからでしょう。けれど、その痛みに呑まれてしまわないでください』
「……はい」
小さく、それだけ返した。波の音だけが、しばらく続いた。
アクアは沖の白い霧へ視線を向けた。
『私は、もう少しこの近海を見ます。彼が再び海へ追われることがあれば、今度も気づけるように。異変があれば、また力を貸しましょう』
顔を上げる。
「……お願いします」
アクアは一度、深く穏やかに頷いた。
『ええ。彼もまた、見捨ててよい命ではありませんから』
その一言が、ノアの胸に静かに落ちた。
『ノア』
『あなたは、彼の声を聞こうとしたのでしょう』
息を呑む。否定も、言い訳もなかった。
『……それでよかったのだと、私は思います』
唇を、そっと結んだ。
『どうか、お気をつけて。王国が動くほどの事であれば、敵もまた、次を考えているはずです』
「はい」
頷くと、アクアは静かに目を細めた。少し離れたところで報告を終えたレクサスもまた、黙って一礼する。
『では、私はこのまま近海を見ていましょう』
水面が静かに揺れた。深い青の身が波に溶けるように沈み、あとには細く長い波紋だけが残った。
見えなくなってもなお、この海のどこかで見守っているのだと分かる静けさがあった。
ノアは海の向こうを見た。
白く閉ざしていた霧は、もうすっかり消えていた。
ただ、何もなかったことにするには、港に残った傷が大きすぎた。
その静けさを破るように、ひとつ甲高い声が港に響いた。
「うわあああああ!? ホークが何でこんな有様になってんの!?」
振り返った飛行艇団員たちの間を、ひとりの女が駆け抜けていく。
「セラ機関士長……!」
「戻ったんですか、もう!?」
「戻るわよ! 妹の出産に付き添って、実家守って、やっと息つけると思ったらホークが沈みかけたって何!? じっとしてられるわけないでしょ!」
その声に、重く沈んでいた港の空気がわずかに揺れた。




