表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/36

二十八話:眠れぬ夜に

 窓の外では、まだ雲が重く垂れこめていた。

 風がときおり木々を揺らし、遠くで鳥の声が微かに聞こえる。


 王城の離れにある静養室。その静けさの中で、ノア・ライトエースは横向きに身を横たえ、ゆっくりと息をついた。

 視線は窓の向こうに向けられている。けれど、その目に映っているのが空なのか、記憶の底なのかは、定かではなかった。


 竜として暴走したあの瞬間の記憶は、まだ曖昧なままだ。撃たれ、気を失い、人の姿へと戻った後も、背中には深い痛みが残っている。

 モコの癒しの唄でも癒しきれなかった傷は、今もじんわりと熱を帯びていた。


 ようやく思い出しかけているのは、翼の付け根に走った強烈な衝撃と、そこから先に広がる真っ白な空白。

 その瞬間、自分が何をしていたのか――その記憶だけが、どうしても思い出せなかった。


 ――コン。


 小さく、控えめなノックの音が響いた。


「……どうぞ」


 ノアの声に、扉が静かに開く。

 現れたのは、銀縁の眼鏡をかけた男――イスト・スタウト。王国騎士団の近衛隊長にして、レクサスの師であり、ノアの信頼する剣の指導者でもある。


「失礼します」


 イストは静かに頭を下げると、足音も立てずにベッドの傍まで歩を進めた。


「……お加減はいかがですか」


 ノアは小さく微笑み、わずかに身体を動かす。


「おかげさまで。痛みはまだありますが……でも、大丈夫です」


 イストは黙って頷いた。しかしその沈黙を、ノアが破る。


「……撃たれた瞬間のこと、実はよく覚えていないんです。怖いとも、痛いとも思えなくて……ただ、真っ白で。でも……今思い返すと、それが一番、怖いのかもしれません」


 ノアはそっと視線を落とす。


「……自分が、あの時、何をしようとしていたのかさえ……分からなくて」


 イストはしばし言葉を探すように、目を閉じていた。

 やがて静かに、だが確かに言った。


「……判断は、正しかったと考えています。あの場で、貴女を止める手段は、他になかった」


 ノアは頷こうとしたが、できなかった。

 沈黙が流れる中、イストは静かに頭を垂れた。


「それでも……撃たせたことを、悔いていないわけではありません。……申し訳ありません、ノア殿」


 その声には、言い訳の色はなかった。

 騎士としての決断を下しながらも、人としての責を受け止める声音だった。


 ノアは、そっと首を横に振った。


「……謝らないでください。あの一発で、私は目を覚ますことができた。暴走を止めてくれて……本当に、感謝しています」


 イストの顔に、わずかに柔らかな光が差した。

 けれどその背筋は、最後まで崩れることなく、まっすぐに伸びていた。


「……それでも、二度と同じことが起きないよう、私も備えます。あなたが再び剣を握れるようになるまで、王都の守りは我らに任せてください」


「……はい」


 ノアは静かに微笑んだ。

 痛みは残っている。でも、それ以上に、信じられる仲間がそばにいる――その事実が、胸に温かく染みていた。


「……ありがとうございます、イスト隊長。来てくださって」


「当然のことです。ご快癒を、心より願っております」


 そう言い残し、イストは軽く一礼すると、扉へと歩み去った。その背中は凛として、揺るぎなかった。

 扉が閉じられたあとも、ノアはしばらく、その余韻の中に身を委ねていた。


 イストが去ったあと、再び看護の者が静かに入ってきた。背中の包帯が巻き直され、温かな治癒魔法が痛みを和らげていく。

 夕食も、無理に勧められることなく差し出されたが、ほとんど喉を通らなかった。


「少しでも口にされただけでも、結構です」


 その声だけが、かすかに耳に残っていた。


 やがて、部屋はまたひとりきりになる。

 ノアはゆっくりと目を閉じたが、すぐにまた開く。


 視線を戻した窓の外は、先ほどと変わらず、厚い雲に覆われていた。

 夜の帳が降りても、眠りは遠い。長く横になり続けていた身体は休まっているはずなのに、心だけが宙に浮いたまま、地に足がつかない。


 再び目を閉じた。そんなときだった。


 かすかな気配と共に、扉がゆっくりと開いた。彼女はわずかに目を開ける。

 足音はほとんどなく、ただ廊下の灯りに照らされて、ひとつの影が静かに扉の内側へと入ってきた。


「……起きてる?」


 聞き慣れた声に、ノアは自然と口元をゆるめた。


「……こんばんは、レックス」


 微かな灯りに照らされたレクサス・アルファードの顔には、隠しきれない疲れの色がにじんでいた。

 

「遅くなって、ごめんね。……君の顔が見たくて」


「……お疲れだったのに、わざわざ」


「ううん。来たかったんだ。やっと一区切りついて……」


 レクサスはベッドの傍らに椅子を引きながら、ふと視線を落とす。


「……看護の人が、言ってた。あまり、食事が進まなかったって」


 ノアは一瞬、目を伏せた。


「……すみません。なんだか、食べる気がしなくて……」


「謝らないで。でも……君が元気ないと、僕は心配になる」


 ゆっくりと、レクサスはノアの手の上に、自分の手をそっと重ねる。


「何か、あった……?」


 ノアはそっと視線を外へ向ける。窓の向こうには、静かな夜の景色。けれど、彼女の心には、まったく違う情景が焼き付いていた。


「……レックス。少し……変な話、してもいいですか?」


「もちろん」


 その言葉に背中を押されるように、ノアはゆっくりと口を開いた。


「……あの時。暴走しかけたあの瞬間。私の中に、誰かの記憶が流れ込んできたんです」


「……誰かの?」


「ええ。……きっと、レガリアの」


 言いながら、ノアは目を伏せる。

 その声は静かで、けれどどこか震えていた。


「その国は、空が綺麗で……陽射しが温かくて……人と竜が並んで、笑っていたんです。 庭には花が咲き誇っていて……王様が、とても優しい目をしていました」


 記憶ではないはずの光景が、まるで昨日のことのように鮮明だった。

 陽光の温もり。王の声。隣に立つレガリアの心の揺らぎさえも、ノアには感じ取れた。


「王様は“竜と人間が共に生きる国を作る”って、そう言っていました。……レガリアも、同じ夢を見ていたんです。あの人は、本当に――人を信じてた」


 ふと、ノアの声が詰まる。

 思い出すのは、光ではない。焼け落ちる王宮、崩れた庭園、血に染まった王の鎧。


「……でも、その夢は裏切られた。王様は……同じ人間に、殺されて――」


 ノアは拳を握りしめた。ベッドの上で震えるその手を、レクサスがそっと包み込む。


「……見てしまったんです。王様の命が消えていく瞬間を。レガリアがその手を取ろうとして……届かなくて……そのとき、彼女の中で何かが……壊れていくのが分かりました。悲しみじゃない。怒りでもない。ただ、冷たくて、何もない虚無が……」


 しばらく沈黙が降りる。


「……でも、その静けさの奥に、何かがうごめいていたんです。空っぽになったはずの心に、どろどろとした感情が――気づけば、私は……憎しみで塗りつぶされてたんです。自分の感情なのか、レガリアのものなのか、もう分からなくて……」


 レクサスはその言葉を静かに受け止めた。

 ノアが見たもの、感じたもの――それは誰にも代わってやれない痛みだった。


「でも、君は戻ってきた。塗りつぶされずに、ここにいる」


 レクサスの手は温かく、静かな力を宿していた。


「それだけで、僕は救われる。君が、君のままでいてくれるなら、それだけで――」


「……私は、あの人みたいにはなりたくない」


 ノアの声はかすかに震えたが、その瞳には確かな意志が灯っていた。


「それでも、あの人の夢を……私は知ってしまったから。だから私は、きっと、もうあの人をただ“倒す”だけじゃ終われない。……そう、思ってしまったんです」


 レクサスは頷いた。


「なら、僕は君の隣にいるよ。どんな道でも、君が進むなら」


 ノアはようやく、少しだけ笑った。

 その笑みは弱々しくも、確かに未来を見ていた。


 言葉は尽くされぬまま、ふたりの間に静寂が戻る。


 だがその沈黙は、苦しみの果てに訪れたものではなかった。

 共有された痛みと、交わされた決意。胸の奥に、かすかでも確かな光が灯っている。


「ありがとう、レックス……来てくれて」


「……ううん。こちらこそ、話してくれて、ありがとう」


 その言葉がすべてを包み込むように響く。


 ふたりはしばし言葉を交わさず、ただ同じ夜を見つめていた。

 曇った空の向こう――そのさらに先に、いつか晴れる朝があることを、信じるように。


 やがて、レクサスがそっと立ち上がる。


「さて……そろそろ休もうか。無理はしないで、ね。――また明日。少しでも、穏やかに眠れますように」


 その言葉に、ノアはかすかに微笑んでうなずいた。


「……おやすみなさい、レックス」


 レクサスが扉を静かに閉じると、再び部屋は静けさに包まれる。

 雲の向こうにある星明かりを想像しながら、ノアはそっと目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ