二十七話:傍に在らずとも
空を裂いた咆哮が、静けさの中へと溶けていく。
ハリアーを回収し、応急処置を済ませたベルタが、息を切らしながら瓦礫を踏み越え、その場に辿りついた時には、戦いは終わっていた。
「レガリア様――!」
ベルタの叫びに、黒き竜は振り返らない。
返る言葉も、うめきもない。
ただその視線だけが、虚空に向けて釘のように打ち込まれていた。
廃墟に横たわる黒き竜の影。その巨大な翼は片方が折れ、全身に傷を負いながらも――なお、彼女は天を見上げていた。
抗う者たちが去っていった空。
憎悪に染まった眼差しが、去りゆく飛行艇の軌跡を、黙って追い続けている。
ベルタはその大きな身体に手を伸ばす。
恐れはなかった。
――この身を灼かれても、構わないとすら思っていた。
だが、触れようとしたその瞬間――
黒い毛並みが、音もなく崩れはじめた。
溶けるように、ほどけるように――
その巨体は、ひとりの少女へと変わっていく。
血に染まった髪。掠れた息。
それでも、睨みつけていた空から視線を外そうとしない。
「……ふふ、失敗……したわね……」
レガリアの唇がかすかに動き、笑みとも呻きともつかぬ声が漏れる。
その瞳には、悔しさと怒り、そして――なお消えぬ憎悪が灯っていた。
「でも……あれは……“唄”を……引きずり出せる。間違いない……あの神竜なら……」
「……レガリア様……」
ベルタは、その言葉の意味をすべては理解できなかった。
けれど、感じ取るには十分すぎた。
――この人は、自分の命すら道具にしている。
滅ぼすこと、人を終わらせることに、その身を差し出そうとしている。
彼女の胸を締めつける感情は、哀れみでも、恐れでもなかった。
それは、言葉にならない――悲しみだった。
「……あなたを、こんなふうにした世界が、憎い」
ベルタはそっと抱きしめる。
その腕の中で、レガリアはもはや抵抗もしなかった。
ただ、唇をかすかに動かし、ひとつだけ呟く。
「……“今度こそ”……壊すの……」
その言葉が、ベルタの耳に届いたかは分からない。
彼女は静かに目を閉じ、レガリアを強く抱いたまま、唇を噛みしめていた。
* * *
――蒼穹を越え、王都へと帰還した飛行艇が、静かに城の塔の影に姿を消してゆく。
その頃、王城の離れにある静養室で、少女は深い眠りについていた。
長く伸びた銀の髪が、白い寝具にふわりと広がっている。呼吸は穏やかだが、身体にはまだ微かに魔力の残滓が揺れていた。
そっと扉が開く。
足音は音もなく近づき、ベッドの傍に立つ。
右目に刻まれた古傷が、静かな光の中に浮かび上がる。
隻眼のその男は、黙して少女を見つめていた。
その眼差しには、戦場に立つ者の硬さと、かすかな悔いが滲んでいる。
無骨な右手が、そっと銀の髪に触れた。
「……強くなったな」
その声は誰にも聞かれず、彼女の意識にも届かないまま、静かに空気に溶けていった。
やがて男は身を翻し、何も言わずに去っていく。
扉が静かに閉じられる音だけが、薄明の部屋に残された。
──それから、少しの時間が経った。
再び扉が開き、今度は銀髪の青年が現れる。
レクサス・アルファード。
どこか緊張した様子で、そっとベッドへ近づく。
「ノア……」
呼びかけに応えるように、少女の睫毛がかすかに揺れた。
「……ん……レクス……?」
彼の名を呟く声は弱々しく、それでも確かに意識が戻っていることを示していた。
レクサスは安堵の息を漏らし、そっと彼女の手を握る。
「よかった……目が覚めたんだね。すぐ人を呼――」
「……今、誰か……ここに……?」
言葉を遮るように、ノアがぽつりと呟いた。
「……え?」
レクサスは首を傾げたが、部屋には彼とノアの二人だけしかいない。
けれど、ノアはどこか名残惜しげに、閉じた扉を見つめていた。
――なぜだか分からないけれど、そこには、あたたかい気配だけが残っていた気がした。
* * *
――静養室を後にしたセルシオは、足音も立てずに城の通用門へと向かっていた。
このまま誰にも会わずに立ち去るつもりだった。それが彼にとって、最も都合のいい終わり方だった。
だが、門の手前──そこに、ひとりの男が立っていた。
「……立ち去るには、少し早いのではないか?」
低く落ち着いた声。その響きには威圧ではなく、確かな意志が込められていた。
ユーノス・ライトエース。
ストーリア王国近衛騎士団長。そして、ノアの育ての父。
セルシオは足を止め、横目に男を見やる。
ユーノスはまっすぐにセルシオを見返す。その瞳には、かつての“知人の息子”を見る眼差しと、娘を思う父の静かな警戒が宿っていた。
「お前の両親には、王も私も借りがある。……あの方々は、誰にも知られぬまま、この国を“守り続けていた”。だがそれとは別に、私は“あの子”の父だ。……だからこそ、問う」
ユーノスは一歩踏み出した。
「お前は、ノアの傍に立つ気があるのか?」
その問いに、セルシオの表情はわずかに揺れた。
だがすぐに目を逸らし、静かに息を吐く。
「……俺に、それを望む資格はない」
「資格の有無ではない。“いるか、いないか”だ」
短く、しかし重い言葉だった。
セルシオはしばらく答えず、低く目を伏せたまま言葉を探していた。
やがて、絞り出すように呟く。
「……兄なんて、名乗れる立場じゃない。だが……」
彼は扉の向こうに目をやり、静かに言葉を継いだ。
「……戦いになるなら、その時は……必ず戻る」
ユーノスの瞳に、一瞬だけわずかな光が宿る。
それが安堵か、それとも覚悟かは誰にも分からない。
そして、静かに言葉を継いだ。
「お前の両親は、王と王妃にとって……深い恩人だった。あの方々は、お前のことをずっと気にかけていた。姿を見せずとも……心から案じていた」
セルシオはわずかに視線を伏せたが、答えはなかった。
ユーノスはただ一歩下がり、淡々と、それでもあたたかく言った。
「……王は、お前が帰ってくる日を信じている。シルビア様も、同じだ」
セルシオは応えなかった。
けれどその背に、確かに何かが――わずかに、揺れていた。




