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やはりここではないかと思ったその時、高速の映像の影に、ちらりと何かが見えた気がした。
「アサギ、今の……」
続きをいう前に、アサギが端末をアーティスの手から奪い、映像を巻き戻す。アサギも気が付いたのだ。ならばあれはアーティスの幻覚でも気のせいでもない。
「今の……」
「冷静になれ。今確認する」
落ち着き払った静かな声で、アサギはアーティスにそう命じた。想定していたとはいえ、自分はアサギではない。冷静でなんていられない。信じたくない思いが頭を駆けめぐり、血の気が徐々に引いていくのを感じた。指先が冷たく震える。
一瞬の映像が、アーティスの目の前でフラッシュバックした。ゆっくりとした速度で再生されるそれには、明らかに森林地帯には存在しないものが映っている。
「アーティー、落ち着いて確認してくれ」
アサギが端末の映像をスローで再生した。見たくないが見るしかないだろう。ゆっくりとした映像の中で、一瞬見えたそれははっきりとした映像としてアーティスに現実を突きつけた。そこには力無く地面に降ろされた、手が映っていた。
「ああ……」
ため息とも苦痛とも言えない声が漏れた。無情にも映像はその先を写していた。ゆっくりと映像はその手の主を映してゆく。緩やかにうねる豊かな髪と、華奢な体。そして、すでに動かないのが確実なことを思い知らされる、見開いたままの瞳……。
一瞬、その瞳にどこからか漏れたらしい光が、冷たく反射する。瞳はその外部刺激にも瞬きすらしていない。
「アンジェラ……」
自分でははっきりと口にしたつもりだったが、カラカラに渇いた喉からは、ささやきほどの声しか出なかった。
「間違いないな?」
確認するアサギの声がやけに遠く感じる。突然強く肩を掴んで揺さぶられた。その痛みに顔を上げるとそこにアサギの真剣な眼差しがあった。
「アーティー!」
「……うん。間違いないよ」
声が小さく掠れてしまった。それでもアサギは言葉の内容を確認できたらしく、端末に向かって声をかけた。
「『箱舟』、この映像の正確な位置を特定、データを送れ」
『了解、送ります』
アサギと『箱舟』のやりとりがどこか遠くの出来事のように聞こえる。頭の中に霞がかかったかのように、まったく現実感が沸かない。それでも『箱舟』は冷静にデータを送信してくる。死体の位置、向き、方角、サーモグラフによる熱量チェック、その総てが彼女は死んでいると、アーティスに伝えてきているのだ。
八十年前に別れたアンジェラが、こんなところで死んでいる。時間的には八十年だが、アーティスの感覚では昨日別れたアンジェラが、今日ここで死んでいるのだ。動揺しない方がおかしい。
あのアンジェラが、輝くばかりの生命力に満ちていたアンジェラが……。自分が見捨てたから……? 自分がアンジェラを生命体だと気付かず、八十年前に見捨てたから、彼女は死んだ? あのキラキラ輝いていた瞳がもう動くことすらないのは、自分のせいかもしれない。いや、自分のせいだ。
無意識のうちに、幾度も幾度も首を横に振っていた。信じない、信じたくない。自分のせいではない。いや、自分のせいだ……それだけが頭の中で何度も繰り返される。
何かの冗談ではないだろうか。やはりアンジェラはアサギが作ったアンドロイドで、自分は大がかりな冗談につき合わされているのではないか。あそこにいるアンジェラは、整備不良に陥っただけで、アサギが修理すれば完璧に元に戻るのだ、きっとそうだ。
そうならいいのに。
「行くぞ」
乱暴に腕を掴んで立たされる。焦点の合わない目で見つめると、冷静さを全く失わない、アサギのダークブラウンの瞳があった。
「冷静になれといったはずだ。しっかりしろ、お前は科学者だ。理性を一番に保て」
「……無理だ」
「無理という前に努力しろ。行くぞ」
「無理だって言ってるだろ!」
まだきつく捕まれたままの手を振りほどいてアサギに向かって怒鳴ると、とたんに頬に熱い痛みを感じた。すぐに叩かれたのだと分かる。
「ここにいたいのならそれでいい。俺は知らん」
「アサギ……」
痛む頬を押さえながら見上げると、腕を組んだアサギが静かにアーティスを見下ろしている。続ける言葉も持たずに黙っていると、アサギはアーティスを諭すように話し始めた。
「お前が動揺するのは分かる。俺にとっては見ず知らずの、しかも予定外に紛れ込んだ処分対象の厄介者だが、お前にとっては大事な友だったんだろうからな」
「うん」
「だが今はあれがお前の天使だということは忘れろ。感情を抜いて考えるしかないんだ。『箱舟計画』登録外の人間が一人、原因不明で死んでいるという状況をな」
そんなふうに簡単には割り切れない。でも動揺しているだけでは先に進めない事は理解している。揺れ続ける自らの感情に言葉が付いていかない。そんな様子を分かっているのか、アサギは静かにアーティスを見つめる。
「『箱舟計画』の一員たる俺たちが、今すべき事は何だ?」
言葉を選んでくれてはいるが、甘えや逃げを許さないその言葉に俯く。黙っていることが許される雰囲気ではないことも分かった。自らどうするべきかの決断を下さなければならない。
「……現場を確認し、状況の調査。登録外の対象者の正体を調査すること……」
緊急事態に際してのマニュアルが、無意識に口をついてでた。その御陰で少し落ち着く。大丈夫だ、まだきちんと考えることができる。大きくため息を付くと、アサギが肩に手を置いた。
「そうだ。それがすんだら悲しんでやれ。いいな」
「了解」
大きく深呼吸をすると、ようやく思考回路がぎこちなくではあるが正常に動き始めた。
「ごめんアサギ、ちょっと動揺した」
まだ動揺が収まったわけではないが、一応考えることができるくらいには落ち着いた。とにかく早くアンジェラの元に行かねばならない。アンジェラをこれ以上一人にしておくのは可哀相だ。それに何故アンジェラが死んだのか調べなくてはならない。彼女にしてあげられることは、今はそれだけだ。どういう状況で死んでいるのか、自然死か自殺か……それとも他殺か……それすらもまだ分かっていないのだから。
まだ震えの残る足でよろめきながら歩き出すと、前を行くアサギがアーティスの端末を手に呼びかけているのが背中越しに分かった。
「見つかったぞ。いい結果じゃないがな。生活プラント・エリア16だ。正確な場所は『箱舟』に伝えてある。各自データを取り寄せてくれ。俺とアーティはそこで待っている」
連絡をし終えてアサギが振り返った。
「行こう」
「うん」
早く行かねばならない、でも行きたくない。相反する感情を抱えたまま、アーティスは重い足取りで歩き出した。エリア16は森のまっただ中にあり、アンジェラはその最も奥まった所にいた。鳥のさえずりと、人工的に発生させられている風が揺らす木々の音だけが、その空間に満ちていた。
大陸と同じ時間に設定されているこのプラントの天井は、早くも夕闇に染まり始めていた。ただでさえ薄暗い森の中は、もう完全に暗闇へと変わっている。アンジェラ発見の知らせを受けてほんの数十分で全員がこの場に集まっていた。
本来なら生活プラントで灯すことのない人工的な光が、スポットライトのようにアンジェラのいるその空間のみを光で満たしている。何だか妙にその光景は芝居がかっていて、現実感に乏しい。
先に着いたアーティスとアサギによって、アンジェラは仰向けに寝かされていた。半ば草に埋もれている姿があまりに可哀相だから、アサギに頼んで一緒に動かして貰ったのだ。彼女は年をとっていた。アーティスが出会った時からほんの十歳足らずだが、確実に年を重ねている。それでも彼女はアンジェラだった。
助けを求めるように伸ばされていた片方の手も、今は胸の上に載せられている。そうしたのはデニスだった。宗教が崩壊した今の時代なのに、デニスは歴史の深いカトリックを信仰しているのである。本人は元は神の国であったアメリカ合衆国を含む北米連邦出身のせいで、真剣に信仰しているわけではないというが、毎日神に祈りを捧げるデニスの姿をアーティスは幾度も見ている。検死を前にデニスは、死体に向かって一通りの祈りを捧げてくれた。祈りの声は普段のデニスと比べると柔らかく優しい。
今はそのアンジェラのそばにマサラティが座り、持ってきた医療機器で様々な確認作業をしている。アンジェラを挟んだ向かいに座ってアーティスはその作業を見つめていた。手際の良さにマサラティが医者だということを改めて思い出した。いつもの格好はカウンセラーの雰囲気が強く、本当の専門は何だか忘れてしまいそうなのに。
「どうだ、ドクター」
全員が言葉も出ず押し黙る中、アサギが全員を代表するように静かに尋ねた。
「そうね。詳しい死因は今のところ不明ね。見たところ外傷はないから何かの疾患が考えられるけど……ここでは無理よ」
ちらりと伺うようにマサラティに見られて、その視線の意味を理解した。ここでは無理ということは、ちゃんとした設備がないと分からないということ。つまり『箱舟』による簡易MRIのスキャニングだけでなく解剖が必要だということだ。直接的にそれをいわないのは、かろうじて持ち直してはいたが、落ち込んでいるアーティスを気遣ってのことだろう。
「分かった。結果が出次第、報告してくれ」
「アサギに報告すればいいのね?」
「いや、全員が見られるよう『箱舟』のメインコンピューターに登録しておいてくれ」
「了解。『箱舟』、作業用アンドロイドを廻して。アンジェラを医療室へ運んで頂戴」
明らかにアーティスを意識して、マサラティは正体の分からない遺体をアンジェラと言った。ありがたい心遣いだが、あの生命力に溢れたアンジェラとこの遺体が、分かっていても結びつかない。
アーティスはマサラティの作業から解放されたアンジェラの頬に触れた。滑らかな肌は陶器のように冷たくなっている。それがあまりに悲しい。年を重ねていたとしても、別れた時と同じ綺麗な姿なのに。
「ドクター、アンジェラはいつまで生きてたの?」
いつまで彼女は一人で生きていて、そしていつからここにいるのかが知りたかった。一人きりでどれだけの時間をどう過ごしていたのか、それを知るだけでも彼女を知ることになりそうな……そんな気がする。
「……いいにくいことだけど、いい?」
ためらいがちにマサラティは、尋ねたアーティスを見つめた。
「うん、いいよ聞きたい」
「このプラントの環境が、遺体にどう作用しているか分からないし正確ではないけど……死後十六から七時間というところよ。丁度時計が今日になってからね」
予想外の答えに言葉が出ない。そんなのあまりに偶然すぎないだろうか。八十年という長い時間がありながら、よりにもよって『約束の日』になった瞬間に死ぬなんて。
今まで離れてみていたスヴェトラーナが、静かに歩み寄ってアンジェラの傍らに膝をついた。フワフワと軽やかに舞っていたのに、もう動くことのない金の髪にそっと手を触れる。その手は母親のように優しい。だが言葉はそれに反して厳しいものだった。
「偶然にしては出来過ぎだね」
「僕もそう思う……」
スヴェトラーナもアンジェラを知っているから、躊躇うことなく彼女に触れ、しみじみとその動かない顔に語りかけた。
「あんなに楽しそうだったのに。妹みたいだなって思ってたのに切ないね……」
アンジェラと二年を過ごした彼女の言葉には、何とも言えない重苦しさと、苦々しさがあった。それなのにこの落ち着いた態度は立派だ。それに比べて自分はどうしようもないほどみっともなく狼狽えてしまった。小さくため息を付き、アーティスはアンジェラの手に触れた。混乱よりも今は、申し訳なさでいっぱいだ。
「スヴェータ、アンジェラどうして死んじゃったんだろう。こんなに綺麗なのにね……」
呟くとアンジェラの髪を撫でていたスヴェトラーナの手がピタリと止まった。
「アーティー、分かってる?」
「何が?」
「その綺麗なのにって言葉、おかしいんだよ?」
「どういうこと?」
言葉の意味を掴みかねて、思わずスヴェトラーナを見つめた。まだアンジェラに触れたまま俯いているのスヴェトラーナの頬に、銀の髪がさらりと流れる。
「アンジェラが綺麗ままなのが異常だって分かってる?」
胸に載っていたアンジェラの手を優しく組むと、スヴェトラーナが顔を上げた。不機嫌そうなしかめ面をしている。
「……何のこと?」
「この子、あたしが最後に会った日から、殆ど歳をとってない。冷凍睡眠に入ってなかったのなら、これってどういう事だよ?」
「……そうだ……そうだね」
ようやくスヴェトラーナが言おうとしてることを理解した。どうしてこう自分は冷凍睡眠と、自分の感覚を巧く処理し切れていないのだろう。その事に苛立つ。
「しっかりしな。あたしもあんたと同じで、アンジェラと別れた日から感覚的に一日しか経っていない。だけどきちんとこの異常事態を理解しているよ」
「大丈夫、理解した」
アンジェラは本来、生きていないか老婆になっているかしないとおかしい。なのにここにいるアンジェラはさっきまで生きていたというのに、十年と歳をとっていない。
「冷凍睡眠の予備装置のチェックはした?」
二人の会話を聞いていたエネノアが、アサギに尋ねた。思わず見上げると、エネノアはじっとアンジェラを見つめている。正確には見つめていると言うより、アンジェラという興味深い対象を観察しているという状況が正しい。これからアンジェラの詳しい状況は、マサラティとエネノアによって分析されていくのだろう。それを待つことしか、自分にはできないようだ。
スヴェトラーナに目を遣ると、同じくこちらを見つめる視線にぶつかった。スヴェトラーナはひょいと肩をすくめて苦笑する。アーティスと同じような感覚を抱いたのだろう。
「後はエネノアに任せるってことだね」
「……そうだね」
研究畑一筋のエネノアらしいが、アンジェラ個人を悼んで貰えないことが少々寂しかった。短時間で状況をチェックし終えたアサギは、端末から顔を上げることなく呟く。
「一つとして使われた形跡なし、だな」
「誰かが秘密で持ち込んだ可能性は?」
エネノアの一言にどきりとする。恐る恐るエネノアを伺ったが、彼女の視線は真っ直ぐ検体であるアンジェラに向けられているだけでこちらに向いていない。
「全員の持ち物は乗り込み時にチェックしたろう?」
「船内で組み立てられた可能性もあるわ」
「……まあ、予備部品を使えば可能かも知れないな」
アサギが小さく息をつきながら答えた。アサギはエネノアが次に口にする言葉を理解しているのだろう。そしてそれはアーティスも理解していた。
「それを作れるのは誰?」
「俺とアーティとドクターかな。ドクターは確か医療機器の専門資格も持っているな?」
「ええ。持っているわ」
あっさりとマサラティは頷く。アーティスは俯いたままいることしかできなかった。アンジェラを大切に思っていて冷凍睡眠装置を作れる人間なんて、言われるまでもなくアーティスしかいないのだ。追求されるのかと思ったが、何故かエネノアは小さく頷くとまたアンジェラに視線を移した。いつものエネノアなら納得するまで追求するのに、妙にあっさりと話を終えたエネノアに違和感を覚える。もしかしたら彼女は本当にアーティスを疑っていて口に出さないのではないかと不安になった。
「エネノア」
意を決してアーティスはエネノアに声をかけた。
「なあに?」
「僕を疑っているんだよね? 僕はアンジェラを可愛がっていたし、僕なら冷凍睡眠装置を作れる」
「……ええ。そうね」
「じゃあ何で追求しないの? いつものエネノアなら納得するまで追求するじゃないか」
全員に緊張感が走るのを肌で感じた。全員が全員アーティスを疑っていたのかも知れない。大好きな仲間なのに、それが恐ろしい。だがエネノアは穏やかに微笑んだ。
「だってアーティーじゃないんでしょ?」
「え……?」
「アサギに聞いたわ。強固に自分じゃないって言ってたって。アーティーがそう言い張るときは絶対に嘘をついていない時」
「エネノア」
「私はドクターみたいにカウンセラーの資格はないわ。でもこのプロジェクトの責任者としてクルーを信用する事は出来る。あなたのことは子供の頃からずっと知ってるじゃない」
穏やかにエネノアは微笑んだ。それだけで膝が崩れそうになるほど安心した。アンジェラの横でアンジェラの顔を見ながら、肩を落とすアーティスの耳には、冷静沈着なエネノアの声が聞こえている。
「ドクター、その子絶対に機械じゃないんだよね?」
エネノアがマサラティの横に膝をつき、マサラティの持っている医療用装置を覗き込む。先ほど撮った簡易MRIの結果を、確認しているのだろう。それ以外に体の内部を調べるものはないはずだ。
「ええ。それだけは確実よ。この子は生物だわ。機械なんかじゃない」
「どういう事かな。冷凍睡眠装置が働かなかったのなら、年をとらない子なの? それともどうしようもなく若く見える子? 冬眠したりできる子?」
静かに立ち上がり唇に軽く握った手の指を当てて、エネノアは首を傾げた。この仕草をしているときのエネノアは無防備で幼く見えるが、見た目とは反対に頭が高速で働いていることはよく知っている。やがて顔を上げたエネノアは、『箱舟』に研究用資料を求める指示を出した。
「『箱舟』この子の遺伝情報はストックして『箱舟』に積み込まれている人類の遺伝子情報と比較して。同じ遺伝情報の受精卵を発見したらそれも知らせてね」
『了解しました』
答えた『箱舟』の言葉のすぐ後に、作業用アンドロイドと医療用ワゴンがその無機質な姿を現した。エネノアはすでにいつものように自らの考えの中にいて、回りのことなど一切見えていない。そんな癖を分かっているマサラティは立ちつくすエネノアをそのままに、ワゴンに荷物を載せてアンドロイドに指示し始めた。
「医務室へ運んでくれる? 私が行くまでに、検体の医療データを収集しておいて」
「了解しました、ドクター」
「データ収集後、低温にて検体を保持。低体温治療用の装置を使って。いいわね?」
「はい」
人間とそれほど変わらない音声でそう答えて、アンドロイドはアンジェラをゆっくりと持ち上げ、医療用ワゴンに丁寧に乗せた。その手つきは滑らかで、機械的なたどたどしさは感じられない。そのくせのっぺりとした頭部に顔はなく、センサーが幾つも埋め込まれている。アサギは他のアンドロイド作成者とは全く反対を行く技術者だ。アンドロイドに顔かたちを付けて、個別の名称で呼ぶことに興味がない。だから彼が作る便宜上人間型をとっているというだけの作業用アンドロイドは、アンジェラと対照的に生命感をいうものを全く感じることができない存在だった。
こうして並べてみれば、アンジェラがアンドロイドではない事くらい分かっただろうにと、苦々しくそう思う。そもそもアサギが作るアンドロイドは、皆こういう系統だと分かっていたくせに、どうしてそう思い込んだのか、それが分からない。
自らの思考に沈んでいるうちに、アンドロイドは作業を終え、ワゴンの上で白い布に包まれたアンジェラを運んでいく。そばに付いていてあげたいと一瞬思ったが、感情的になりやすい今の自分が一緒にいたら、原因究明の妨げになることが分かっているから踏みとどまった。
去っていくアンドロイドとワゴンを見送りながら黙って立っていると、アサギが肩を叩いた。
「お前はとりあえず部屋で休め。ここから先は結果待ちだからな。今できることはない」
「でも……」
反論しようとしたが、自分でも他にどうすべきなのか分かっていないから、言葉が先細りになってしまう。そんなアーティスから目を離し、アサギは全員を見渡した。
「気持ちのいい結論ではないが、とりあえず謎の人物は見つかった。予定通り今日は休日にしよう。明日以降の予定は、エネノアが自分の世界に入ってるから、後でエネノアと相談して今後の予定を端末に送る。それでいいか?」
「俺はオッケー。すっかり疲れちまったから、これから仕事なんてできそうにないし」
ようやく人心地付いたという口調で、デニスが明るくそういった。
「今日はのんびりと、持ってきた映画でも見るかな」
いつも通りの気楽な口調なのに、何となく心がざわつく。いつもならデニスに何か一言いう所なのに、何も言葉が出てこない。だが他の面々はいつも通りに反応しているようだ。
「映画か。お前さんは本当に懐古趣味な男だな」
呆れたような口調でアサギが笑う。
「アサギも見る? 普通の映画だけじゃないんだ、女の趣味の色とりどりに取りそろえてるぜ」
「遠慮しとくよ。女はエネノアだけで十分満足してるしな」
人の悪そうな笑みで、今だ自分の世界に入ったきり戻ってこないエネノアを後ろから抱きしめ、アサギはデニスを見返している。思考に沈むとエネノアは全く外部の光景が目に入らなくなってしまう。アサギはそれをよく冗談にしていた。男二人のやりとりにマサラティは小さく笑い、ケイファは嫌そうに不潔、と呟く。スヴェトラーナは苦笑しているだけだ。いつもの光景なのに、ガラス一枚隔てたように遠く感じる。
「なぁアーティー、俺の部屋で映画見ようぜ。嫌なことなんか忘れちまうような奴をさ」
笑顔を浮かべて肩に回されたデニスの腕を、無意識に振り払っていた。驚いたようにデニスがアーティスを見つめる。
「アーティー?」
「悪いけど、放っておいてくれ」
心がざわつく、これは苛立ちだ。アンジェラの死という自分の中であってはいけない非日常と、みんなの日常のギャップに、どうしようもなく苛立っているのだ。アーティスのこの船の中の日常は、アンジェラと共にあった。毎日機械やデータとだけ向き合う無機質な生活の中で、共に笑い、共に泣いてくれたのは彼女だった。
この船に乗ってから、アーティスの感覚ではたった二年しかたっていない。その総てを共に過ごしたアンジェラを失ったというのに、アンジェラと出会う前の日常に戻る事なんて出来ない。アーティスはもうアンジェラと出会ってしまった日常無くしてはいられない。
「……どうして笑っていられるんだよ。人が一人死んでるのに……」
「何だよお前、大丈夫か?」
眉を顰めながらアーティスを伺う、そのデニスの心配そうな顔から目をそらした。今まで押し隠してきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。理性的に理性的にと思っていたのに、いつもと変わらないみんなの笑顔に堪えきれなくなった。アンジェラは死んでしまったのだ。それが実感を伴ってじわじわと心の中に染み出してくる。あの子にもう触れることも、話すことも叶わないなんて、あり得ない。少なくとも自分の中ではあり得ない現実だ。感覚的には昨日までずっと一緒にいたのに、アンジェラはもうどこにもいない。
「嫌なことなんか忘れて……だって? そんなに簡単に言うなよ」
知らず知らずのうちに声が低くなる自分を自覚しつつ、どうすることもできない。デニスの顔から微かな笑みの欠片さえもが消え失せた。
「簡単になんて言ってない。お前思い詰めてるみたいだから……」
「アンジェラのこと、何も知らないくせに。アンジェラがどんなにいい子だったか、知らないだろ! 彼女の思い出が嫌なわけないだろ! 僕には素晴らしい時間だった!」
こんな事を言うつもりはないのに、どうしても止まらない。そのくせデニスの顔が見られないのは、デニスが本当はアーティスを気遣っていると分かっているからだ。もしかしたら心のどこかでアンジェラを死なせたのは自分だという、罪悪感があるからだろうか。
「……仕方ねぇだろ、会ったことない、他人なんだからさ」
苦々しくそういったデニスの言葉は正しい。もし自分がアンジェラを知らなかったら、何の感慨も無いかもしれない。だが頭で分かっていることと、抑えきれない感情は別物だ。自分の顔が引きつっているのを感じる、どうやら自分は笑っているらしい。しかも嫌な笑いを浮かべているに違いない。それと比例して、皮肉な言葉が漏れる。
「勝手に何でも見ろよ。一人で存分に楽しめばいいさ」
「何だと?」
デニスの口調が変わった。
「僕に構うな」
吐き捨てるようにそういうと、不意に襟首を掴まれた。のろのろと顔を上げ、その腕の主を見るとデニスだった。
「自分だけが苦痛だと思うなよ。俺らだってこの状況がいいとは思っちゃいねえよ」
久し振りに触れる友の怒りに、何の感慨もわかない。頭のどこかがどこかが麻痺しているのかもしれない。そのくせ言葉だけは出てくる。
「……だけど所詮他人事だと思ってるんだろ?」
「ああ他人事だね」
「だったら、放っておいてっ……」
言葉の途中で襟首をきつく閉められ、呼吸が止まる。
「天使は他人だけど、お前は親友だ。心配して言ってるってのに、その態度は何だよ!」
息が苦しい。デニスの腕を振り払おうとするが、思いの外その力が強くてふりほどけない。思わず握りしめた拳でデニスを殴りつけていた。不意をつかれたのか、デニスの手が緩んだ。その隙にデニスの手を振り払って、もう一発殴っていた。
「こいつっ!」
「やめて、二人とも!」
凛としたその声に思わず動きが止まる。視線を向けるとそこには、自分の思考回路から抜け出したらしいエネノアの顔があった。怒っているというより、不本意そうな顔をしている。
「私、喧嘩は嫌いなの。分かっているでしょう?」
論理的でも何でもなく、自らの好悪感でエネノアはそういいきった。エネノアの目がゆっくりとデニスを見て、そしてアーティスの上で止まった。
「アーティー、自分で思っているよりずっとあなたは混乱してるの。今後二十四時間、部屋から出ないこと。これは命令よ」
「……了解しました」
アーティスにとってエネノアは上司だ。普段なら仲間として反論も許されるが、命令とあらば従うしかない。
「デニス、のんびり映画を見て。アーティーにしばらく突っかからないこと。これも命令」
「了解。デニス・クリフォードは部屋に戻ります」
渋々といった口調で返事をすると、デニスはアーティスを一瞬痛ましいものでも見るような目で見てからおもむろに踵を返した。そのまま後ろも振り向かずに早足で歩いていく。部屋に戻るのだろう。それにつられるように、ケイファが小さく息をつくと出口に向かって歩き出した。立ちつくしたままそれを見送る。
「アーティー」
声を掛けられて振り向くと、スヴェトラーナがいた。静かにアーティスを見つめている。その冷静な目には、ひとかけらの悲しみと寂しさが浮かんでいる。
「何かあったらあたしにいいな。アンジェラのことはあたしとしか話せないだろ?」
「……うん。ありがとう」
「いいんだ。あたしもアンジェラのことが話したくなったらアーティーに言うよ」
そういってスヴェトラーナはアーティスの肩を叩き、アーティスに背を向けた。彼女は決して他人の前で涙を見せたりしない。おそらく部屋に戻ってから、一人でアンジェラを偲ぶのだろう。それに比べて、人に当たるしかない自分は、なんて子供なのだろうと思う。
医療用具を全て機械に託したマサラティはすでに歩き出し、ケイファの後を追っている。
「アーティー、しばらくお休みでもいいからね。ここからは私たちのお仕事だから」
いつの間にか隣にいたエネノアはそういって柔らかく微笑んだ。無意識に力が入っていた肩から力が抜ける。
「ごめん、エネノア」
「いいの。仕方ないわ。こういうことって誰にでもあるもの。ね、アサギ?」
微笑みを浮かべたままエネノアは傍らに立つアサギを見上げた。
「そうだね」
どことなく寂しそうに、アサギはエネノアを抱き寄せて微笑む。その回された腕を胸の上で抱きしめて、エネノアが愛おしさを込めた微笑みを返している。初めて会った日のことが、不意にフラッシュバックするように目蓋の上で瞬いた。
そこは人工的な風に吹かれてざわめく木々から燦然と降り注ぐ木漏れ日と、色鮮やかに咲き誇る花々の中……研究所の惑星地球化事業研究用のガラス張りの自然の中だった。やはりこの二人はこうしてお互いを大事な宝物のように抱きしめていたのだ。
まだ十歳にもなっていなかったアーティスは、何も言えずに二人をじっと見たまま立ちつくしていた。そんな幼いアーティスに気が付くと、エネノアはまるで花が綻んでいくような優しい笑みを浮かべてアーティスに言った。
初めましてアーティ。ここがこれからあなたの家になるのよ……と。
幸せそうなのにどこか切なく、悲しそうなその光景が、一枚の絵画のように忘れられない美しい風景になって、アーティスの心には焼き付けられている。
「夜のエリアに入るから、寒くなる前に自室に帰りましょ?」
エネノアに促されて、アーティスは生活プラントを後にした。出る寸前、扉越しにもう一度見た生活プラントは、すっかり夜の帳が降りて静まりかえっていた。無意識に言葉が漏れる。
「お休み、アンジェラ」
ごめんね……アンジェラ。