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カメラのセッティングを知らないのに、殆どぴったりのタイミングで扉が開いた。
「何?」
入ってきた女性が急停止し、驚きの声をあげた。驚くほど綺麗な漆黒の髪が、ふわりと揺れる。その動きで無機質な明かりが柔らかく反射した。
「おはよう、エネノア!」
一瞬の間の後、女性がため息混じりで呟いた。
「デニスでしょ?」
「正解! なんだすぐ分かっちゃった?」
腕を軽く組んだ女性が、おどけたデニスにため息をついて、じっとデニスを見つめ返している。これは怒っている時の態度だ。顔と相反する強い意志を持った漆黒の瞳に見つめられては、流石のデニスも何も言えないだろう。少なくともアーティスは言えない。
「こんな事をする人、他にいないもの」
「いないけどさ……」
だじたじになったデニスが、口の中で何やら呟くが、言葉になっていない。こんなに怒られるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
「これ、おろして」
「……ちょっとだけ、ちょっとだけだよエネノア」
「だ~め」
エネノア・ノイマン。十歳にして大学を修了し、十四歳で二つの博士号を取得した『聞く者』の頂点に立つとまで言われる、天才的な女性生命工学博士にして遺伝子工学博士だ。アーティスが彼女と初めて会ったとき、彼女はすでに博士と呼ばれていた。童顔と口調のせいかアーティス達と同じくらいか、下手すると一番年下に見えてしまう事もあるのだが、このメンバーの中では一番の年上だ。そしてこの『箱舟計画』の責任者でもある。
目で救助を求めてくるデニスに助け船を出すこともできずただ黙って見ていると、なおも畳みかけるようにエネノアが言葉を続けている。
「デニス。私、映像も立体写真も嫌いなの」
そういえば専門書に写真が載る時も、全員で写真を撮る時も、エネノアはいつも仏頂面で笑っているのを見たことがない。ともすればエネノアの写真だけが無かったりする。
「……分かってるけど、今日は記念だし」
エネノアには逆らえないくせに、デニスは結構頑張っている。カメラもきちんとエネノアに向けているようだ。やはり彼も今日という『約束の日』が重要なのだろう。その気持ちは痛いほど分かる。そんな中でケイファが、ポツリと呟くのが聞こえた。
「無様ね」
「酷いなぁ、ケイファ」
流石にそうフォローする。モニターから目を上げて成り行きを見ていたスヴェトラーナとマサラティも、堪えきれないように吹き出した。
「それでも、嫌なものは嫌」
子供のような口調でゆっくりと、だがきっぱりとエネノアはそう告げた。
「でもせめて感動の再会を映像に残させてよ」
なおもカメラを構えたまま食い下がるデニスに、エネノアが言い返そうとした時、エネノアの後ろから腕が伸びてきて、ふわりとエネノアを制した。そのまま後ろからエネノアを抱く。
「頑なだな、エネノア。いいんじゃないか、確かに今日は記念日だ」
低く落ち着いた声がそういった。エネノアの頭一つ以上も上に、彼らより少々年上に見える男の顔がある。
「でも……」
子供のように、エネノアは頭上にある男の顔を見上げた。エネノアと同じく黒髪で背が高い。彼女にこうして意見でき、そしてそれを受け入れさせることができるのは、エネノアの幼なじみであり、恋人である彼だけだ。
「いいじゃないか。レクリエーションは必要さ。こんな閉鎖空間じゃ、デニスくらいしか突拍子もないことを考えつかないからな。ここであんまりきつく言うと、今後デニスを叱る楽しみが無くなるぞ?」
彼の口調は、明るいが結構きつい。
「……褒めてないだろ、アサギ」
「褒めてるつもりだが、不満か?」
落ち着き払った微笑みと、冷静な分析力を持つ彼は、アサギ・トモナガ。出身地は知らないが、名前からも全滅したと言われる日本人の遺伝子が多く混じっている事だけは確かだ。だがそれにしては資料で見る日本人から、かけ離れている気がしてならない。たぶんどこか西側諸国の血が入っているのだろうとアーティスは勝手に想像している。かくいうアーティスは欧州連合所属だが、そんなに背が高いわけでもなく平凡な顔つきだ。パッと見ると、アーティスよりもアサギの方が欧州連合の人間として違和感がないかもしれない。
アサギは機械工学と宇宙物理学の専門家であり、この星間航行船『箱舟』の管理責任者である。エネノアは同い年のはずだが、どう見ても彼の方が年上だ。アーティスと同じように、生命工学博士の資格を持たない彼だが、アーティスとは違い仕事は山積みだろう。
「エネノア?」
笑顔で伺うように、アサギがエネノアを覗き込んだ。アサギが無条件で甘い顔をするのは、エネノアに対してだけだ。同等のレベルで話ができる唯一の存在が彼女だからかもしれない。実際の所、アーティスを含め、他のメンバーはこの二人の足元にも及ばない。しばらくの間、じっとアサギを睨みつけた後、アサギの意見の有用性を認めたのか、エネノアはため息を付いた。
「今だけだからね、会議が始まったら禁止。分かったデニス?」
諦めたように……というより不承不承といった体でエネノアは力を抜いた。
「やったぜ。これで感動の再会は全部カメラにおさめられるぞ! サンキュー、アサギ」
「どういたしまして」
小躍りするデニスに目もくれず、エネノアはアサギを睨んだ。
「貸しにしておくからね」
「……やれやれ、多大な借りになりそうだ」
目だけに怒りを湛えながらアサギの腕を振りほどき、エネノアが踵を返して歩いてきた。
「おはようエネノア。ご機嫌いかが?」
真っ先にマサラティが尋ねる。さすがドクターだ。
「おはよう。元気よ。寝過ぎて頭が重いくらい」
「まあ、ここにも冷凍睡眠にはあり得ない症状を口にする人がいたわ。ねぇ、アーティー」
先ほどの冗談を振られて、アーティスは微笑してまだ立ったままのエネノアを見上げた。小柄なのに彼女の醸し出す存在感は圧倒的で、畏怖の念すら覚える。
「おはようエネノア」
「おはよう、アーティー」
エネノアは眠りにつく前のアーティスが覚えているのと全く同じ笑顔で、アーティスを見た。強い意志と、どこか危うい情熱を秘めたその瞳は、出会った頃から今まで、全く変わらない。
彼女はアーティスの尊敬する人で、憧れの人物で……そして初恋の人でもあった。まあ初恋といってもそれは瞬時のもので、淡い恋心を抱いた瞬間、アサギが現れてあっさりとその恋は終わった。久し振りに見たエネノアの顔で、そんな昔のことを思い出しこっそり苦笑する。
エネノアとアサギは、個人個人と挨拶を交わすと、空いていた中央の席に座った。
一三〇年ぶりの……見慣れた光景。
既視感のような不思議な現実感が、ふつりと浮かんでは消える。何だか夢を見ているようだが、これが現実だ。一三〇年経った今が現実なのだ。
「さあ、始めましょう」
凛と澄んだ決して大きくないその声で、場の空気が一転した。ざわめきが一瞬にして会議室から打ち払われた感じがする。
「みんなの御陰で『箱舟計画』も大詰めよ。ここまで来ればもう計画は、七十パーセントは完成したと言っていいかもしれない」
そういってエネノアは、ゆっくりと全員を見渡した。責任者として語られるその言葉には、現実感を伴った重みがある。彼女は本当にこの計画全てを、その目で確認しているのだ。一つのミスも見逃さない彼女は、まさに全ての分野におけるスペシャリストだ。だから彼女の言うことに間違いは無い。
「エデンを見れば、みんなが頑張ってくれたことがよく分かるもの。本当にご苦労様。エデンはとっても素敵な星ね」
エネノアの笑顔に、思わず顔がほころぶ。彼女と出会った時から、役に立ちたいと思い続けてきた。それが多少は叶ったのだろうか。そんなアーティスの心など知るよしもなく、エネノアは一瞬のまばたきのあと、表情を引き締めた。
「でも気を抜いちゃ駄目。ここからは地球人類から託された生命の再生という重要事項なんだもの。これからもみんなで頑張ろうね」
全員が無意識のうちに頷いていた。
「結果は見たけど、みんなの報告を直接聞きたいの。まずは目覚めた順番に聞いていくね。アーティーからお願い」
笑顔で促されて、アーティスは手元の端末から資料を呼び出し、今から八十年前におこなった仕事の事後報告をした。形通りだが、質問が細かいことに及ぶと微妙な緊張感がみなぎった。驚くほど細かくエネノアは見ている。
アーティスの報告の後に、スヴェトラーナが続く。彼女はアーティスが眠りについた後、十年後……今から六十八年前に目覚めた。彼女は土地と海洋それぞれの気候調査をして、細かな植物分布図を作成する。それをコンピューターと共に分析し、その場所に適した植物を選定して種を蒔いた。森林と草原の再生と、海洋植物たちの再生が彼女の仕事だった。
次に目覚めたのは、デニスとケイファのコンビだ。この二人が目覚めたのは、スヴェトラーナが二年間の任務を終えて眠りについてから三十年後だった。この頃には遺伝子改変により一世代のみ最大速度で成長した森がエデンを覆い、大気はすでに呼吸可能レベルに十分達していたはずである。
そこでデニスはスヴェトラーナの作った気候図とそれを元に散布した植物分布図を元に、より正確な気候図と食料分布図を作成する。そして地域に適応しうる生物を選定した後、一地域ずつの生物分布図を作成し『箱舟』のメインコンピューターにインプットしていくのだ。
そのデータを元に、『箱舟』は生物を一地域ずつ再生し地上に降ろす。再生された十数匹単位の群れは、生物分布図通りの地域に定着していく。大陸全ての生物分布図作成が終わり、『箱舟』にインプットした時点で、この仕事は終了だ。この間、五年はかかる。当然インプットと同時進行で行われていた生物の再生作業は五年足らずで終わるわけもなく、その後の惑星への投下定着作業は『箱舟』が行う。
ケイファの作業もそれと殆ど変わらない。唯一違うのは、彼女が扱う生き物が海洋生物と水生生物であるということだ。だがその種の多さは、陸上生物と何ら変わることはない。
この際、人類に必要不可欠である家畜類は、原種を除いて再生されない。その代わり『箱舟』の中にある巨大な農場プラントと、森林や湖、海に至るまでが再現された巨大な生活プラントに家畜たちは放され、時期が来るまでコンピューターによって管理されて増やされる。
人間を再生することは、人間の生活レベルを原始時代まで退行させることではない。今後再生される人間達は、酪農と農業の知識を生活・農場プラントで教わるのだ。『箱舟』は巨大な星間航行船であり、巨大な実験プラントなのである。全長五キロという船の大きさは、中に世界を一つ作ることを考えれば小さい。
「ありがとう。よく分かったわ」
報告が終わるとエネノアが微笑んだ。彼女とアサギは、デニスとケイファが眠りについてから二十二年後に目覚めて、惑星の状態を調査し、二年かけて予定通りに進んでいないところを直す作業を行う。
こうして現在の惑星エデンは存在しているのだ。ちなみにマサラティは、この間一度も起きていない。コンピューターが他の乗組員全員の健康状態をモニターしており、ドクター、もしくはカウンセラーが必要だと判断した場合にのみ起こされることになっていたのだ。幸いなことにそういう事態は一度も起こらなかったようだった。
「以上で終わりだな。とりあえず今日は休日、作業は明日からだ。今のうちに言い足りないことや質問があったら、遠慮無く言ってくれ」
全員の報告が終わったところで、エネノアに変わってアサギが尋ねた。エネノアの方を伺うと、何やら端末で作業をしている。すでにこちらのことは眼中になさそうだった。おそらく何か今後のことについて新しい案を思いついたのだろう。思いついたことは、すぐに実行しなければ気が済まないエネノアらしい。
「もう地上の映像は見られる?」
デニスがそう尋ねた。普段からふざけている彼だが、やはり自分の手がけた動物たちがどうなっているのか知りたいのだろう。
「あたしも見たいね。新しい森なんて地球じゃお目にかかれなかったから」
長い銀の髪をかき上げながら、スヴェトラーナもデニスに同意する。あのモニターから見た全体像でも分かるような、緑の大森林に惹かれないわけがない。地球で見た森は、立ち枯れたものが殆どだったのだから。アーティスも森の印象はそんなものだ。
「みんな見たいんじゃない?」
そういってスヴェトラーナは、アサギとエネノア以外の面々をぐるりと眺めた。
「見たいわ。ええ、是非にね」
同意したマサラティの隣で、ケイファが顔を上げ真っ直ぐにアサギを見た。
「……水中も見られる?」
海洋生物学者なのだから当然の問いに、アサギは笑った。
「勿論。全ての環境に適応していないとカメラの意味がない。そのへんはぬかりないさ」
ただ……とアサギは言葉を濁らせた。全員の視線が自分に集まると、アサギはおどけたように肩をすくめて見せた。
「ちょっとカメラの調子が悪いんだ。地場の影響で見られない地域もあるしな。俺もたまにはミスもする」
冗談めかした言葉に、思わず笑みが漏れる。完璧主義のアサギがミスだ、などと口にするのは珍しい。それに地場の影響で見られない地域があるのは、アサギのせいではない。単なる偶然のいたずらだ。それなのに自分のミスだというところに、完璧主義者の意地がかいま見えておかしい。
「それでよければ好きに見てくれ。モニタールームでカメラの操作ができる」
「じゃあ後で見せて貰うよ」
スヴェトラーナが頷くと、デニスがむくれた。
「俺が先に言いだしたんだぞスヴェータ」
子供のようなデニスの言い分に、スヴェトラーナは苦笑しながら頬杖を付いた。
「はいはい、お先にどうぞ」
ケイファが呆れたように小声で何かを呟いた。聞こえないが見当は付く。おそらくデニスに向かって『ガキ』とでも言ったのだろう。そんなやりとりに場が和んだ。
そんな中アーティスは一人、先ほど見た緑の惑星を思い出していた。あの惑星に生命が宿っている。みんなのように自分が宿した生き物はいなくても、この惑星を作る喜びは同じだ。最初に見た死の星から見ると、ここは本当に言葉の通り神が作りし楽園『エデン』だ。
だが……この惑星には神はいない。
神話と違うのは自分たちが未知の偉大な力を持つ神ではなく、科学という力を持った人間だということだ。
「他に質問が無けりゃこれで解散だ。誰か何かあるか?」
それぞれが好きに自分たちの話をし出して、場が半ば解散状態になったところでアサギが全員を見渡した。これが終われば、全員が休暇にはいることになっている。休暇だけどおそらくケイファとデニスは先を争ってカメラを操作しに行くのだろう。場の雰囲気と同じく和んだアサギの声に、アーティスは聞きたいことがあったのを思い出した。
「アサギ、アンジェラはどこ?」
各々の会話に移っていた全員の視線が、一斉にアーティスに注がれたのを感じた。
「まさかもう機能停止しちゃった?」
「……アンジェラ?」
「すっごく可愛いし、びっくりするほど人間っぽくて、感動したよ。さすがアサギだね」
褒めたというのに、不審そうにアサギは眉を寄せた。そういえばアンジェラと名前を付けたのは自分だった。アサギはあのアンドロイドを、アンジェラという名前で認識していないのかもしれない。思わず自分の言葉を自分でフォローする。
「ほら、あのアンドロイドだよ。金髪で緑の瞳の。僕が目を覚ました時に僕の部屋へ来るよう、セッティングしておいてくれたんでしょ? 御陰で退屈しないですんだよ。遅くなったけど、ありがとう」
笑顔でそういいきってから、アサギの表情を見て固まった。アサギは全く笑っていない。それどころか、奇異なものを見るかのような目でアーティスを見ているのだ。いつの間にか回りも、水を打ったように静かになっている。全員の視線が痛い。考え込んだままのアサギを見ると、深く眉を寄せたままだ。
「……アサギ?」
不安になって呼びかけると、アサギは目を見返してきてゆっくりと尋ねた。
「アーティー、お前きちんと起きているな?」
あまりにも真剣な言葉に、今度はこちらが困惑する。
「僕が寝ぼけているとでもいうの? だとしたら『箱舟』がドクターに何か言うだろ?」
「……そうだな」
アサギは黙ったまま頭を掻いた。アサギが何か困った時にする癖だ。
「なぁアーティー、言いにくいことだが……そんなアンドロイドは知らないぞ?」
「またまた、何の冗談だよ」
笑い飛ばそうとしたが、アサギのあまりに真剣な顔を見て途中で笑いが凍り付いた。アサギが知らないアンドロイド……。そんなもの『箱舟』に存在しない。それはこの場にいる全員が分かっている。
「俺は人間への奉仕系アンドロイドは、一体もこの船に置いていない。お前も分かっているだろう?」
そう言われてハッとした。そうだ、アサギはアンドロイドを作業用機械としてしか必要としない人なのだ。機械は機械、生き物は生き物。その違いを厳しく区別している。いくら仲間のためとはいえ、あのような年格好の少女型アンドロイドなど作る人間ではない。
「そんな……だってアンジェラは……」
そうだ、アサギが作るはずがない。どうして気が付かなかったのだろう。ならばあれは誰だ? いやあの子は何なのだ。
「お前……何を見たんだ?」
「何って……」
「幻覚ではないとしたら、俺の知らないアンドロイドが『箱舟』にいるって事か?」
不信感も露わにアサギが低くそう呟き、アーティスを見据えた。アーティスにはアサギの言葉の意味が分かった。その目つきの鋭さに、背筋が冷たくなる。疑われている……アーティスの精神状態を。自分は正常だ。だがそう主張するとしたら、アサギの管理能力を疑うことになってしまう。アサギほどの完璧主義者はいない。そんなことは分かっている。分かっているが、それを認めてしまえば、アンジェラの存在が幻覚になってしまう。
「アーティー、冗談なら謝っちまえよ」
デニスが隣から小声で、忠告するようにそういった。
「僕はデニスじゃないんだ。こんなたちの悪い冗談は言わないよ。本当にいたんだ」
頭が混乱する。アンジェラの笑顔と、声が昨日のことのように思い出せるのに、あれが幻だとでも言うのだろうか。二年だ。二年も一緒にいたのに。
「ねぇアーティー、よければカウンセリングを受けない?」
いつものように暖かいマサラティの言葉だったが、変に心がざわついた。
「僕は正常だ。幻覚なんて見てない」
「そうね、ごめんなさい」
柔らかくそういったマサラティの言葉に、数パーセントの不安要素が混じっていることが分かる。どうしたら信じて貰えるのか、どういえばいいのか分からない。重苦しい沈黙の中で、隣にいたスヴェトラーナが大きくため息を付くと顔を上げた。
「アーティーが見たのは幻覚じゃない。あたしも会ったんだ。アンジェラに」
「……なんだって?」
全員の視線がスヴェトラーナに向いた。ようやく束縛から逃れたように、アーティスは椅子に座り込む。
「アーティーが見たのが幻覚なら、あたしも幻覚を見たって事になる。そんなことってありえるかい?」
よかった、もう一人彼女を見た人がいる。それだけで、自分が孤独のあまり幻覚を見た『箱舟計画』不適格者だと思われずにすむ。
「詳しく話してくれるか、スヴェータ」
わけの分からない事態に揺れ動く他のメンバーに気を止めるでもなく、アサギはスヴェトラーナに続きを促した。
「オッケー、アサギ。確かにアーティーが言うように、金髪で緑の瞳をしていたよ。歳は十四、五歳かな。陶器みたいに白い肌をしてた。それにアーティーと会う以前の記憶が無くて、彼女が知っていることは、アーティーの事ばかりだったよ」
そうだ、初めて会ったアンジェラは何も知らなかった。ここが航宙船であることさえも。アーティスの感覚では、彼女と別れたのは昨日のことなのだ。何かの手がかりにならないかとアンジェラのことを思い出していると、アサギの声が耳に入った。
「アーティーは機械工学もおさめている。アーティーの実力で作れると思うか?」
問われたスヴェトラーナを見ると、こちらを見る視線とかちあった。一瞬視線が和む。だが次の瞬間にはスヴェトラーナは小さく息をつき、真っ直ぐにアサギを見返していた。
「思わないね。私の知る限りでは、あれほど優秀なアンドロイドなんて、余程の天才じゃないと作れない。アサギくらいのね」
「……そうか」
誰も何も言い出すことができない。アサギの管理能力を疑うものは誰もいないが、二人の人物が見たという少女の存在を完全に否定することはできないからだろう。
「ねぇ、私思うんだけど……」
いつの間にかエネノアが端末から顔を上げている。思いついた事が終わってから、ずっとこちらの話を聞いていたようだ。
「アンドロイドじゃないとしたら、生き物じゃないの?」
「……生き物?」
突飛な思いつきだが、今までその可能性を考えても見なかった。アサギもそうだったらしく、ハッとしたように、何やら手元の端末に打ち込み始めた。
「例えば動物として管理されていた受精卵のポッドに、間違えて人間の受精卵が保管されていて『箱舟』が再生しちゃったとか?」
「そんなことあり得る?」
今まで黙ったままだったケイファが、じっとエネノアを見ている。ケイファの視線を柔らかく受け止めながら、エネノアは微笑んだ。
「あり得るんじゃない? 受精卵のポッドを管理しているのは『箱舟』だけど、受精卵の詰め込みは、私たち以外の他の部署も総出でやったわ。覚えてる? あの混乱っぷり」
おかしそうにエネノアがくすりと笑った。確かにあの状況は混乱していた。積み込むものがあまりに多すぎて、借り出されてきた他部署の人間達が、みな荷物を手に右往左往していたのを昨日のことのように思い出す。
「アサギが完璧でも『箱舟』が優秀でも、元が間違っていたなら事故は起こるものよ。そうじゃないかな、ケイファ」
「エネノアが言うならそうかもね」
射抜かれるような視線と、柔らかな口調でそういわれると、誰もそれに逆らえない。このケイファでさえも。小さく笑うとエネノアは言葉を続けた。
「もしかしたら、誰かがいたずらでそんなことをしたかもしれない。『箱舟計画』に反対の部署も結構あったから。研究者同士の足の引っ張り合いは意外と怖いんだから」
もしそうだとしたらとんでもないことだけど、とエネノアは笑った。確かにとんでもない事だ。だがもう一つ分からないことがある。
「でもどうして僕の起きる時にいたんだろう?」
動物の再生はデニスとケイファが行う。それなのにあまりに早すぎる生物の再生だ。だがそれに対するエネノアの答えは簡単だった。
「食糧確保と、農場プラントの正常化のために家畜を数頭最初に再生するでしょ? それってアーティーが目覚めるのに合わせるじゃない。あなたの食料のためにね」
何となく釈然としないエネノアの案に、アーティスは唸った。偶然の事故もしくは、他の部署の妬みや嫌がらせで人間が再生された……アーティスの目覚めに合わせて。そんなことが起こりえるのか?
そしてもう一つの可能性を思い出した。エネノアの考えが正しければ……アンジェラはもうこの世にいない。あれから八十年という月日が流れているのだ。たった一人で何も知らないままこの船で生きていけるわけがない。アンドロイドだから、もう一度会えると思っていた自分の浅はかさに胸が痛い。もし本当に人間だとしたら、冷凍睡眠ポッドの非常用を作動させて、入れてやることもできたのに。
「ちょっと待ってエネノア。それ無理がある」
全員がエネノアの説を信じそうになった時に、スヴェトラーナが声をあげた。
「何?」
小首を傾げるエネノアに、スヴェトラーナは大きく頷いた。
「あるよ、大問題が。アーティーが出会った時、アンジェラは幾つくらいに見えた?」
「え? 十四、五歳くらいだけど」
咄嗟に答えたが、次のスヴェトラーナの台詞で青ざめた。
「あたしが会ったときも、アンジェラはそのくらいの歳だったよ。アーティーとアンジェラが出会ってから十二年も経っているのに、アンジェラは年をとってない」
全員が呼吸さえすることを忘れて押し黙った。アンドロイドである可能性は、限りなくゼロに近い。だとしたら歳をとらない少女が、この船に存在したことになる……。
「あり得ないよ、そんなこと……」
声が喉に張り付いたように、小さく掠れた。アンドロイドではないのに年をとらない……。そんな生き物はいない。少なくとも地球上には、存在しなかった。
「……これを見てくれ」
端末を操作していたアサギが全員の端末に、船内酸素消費量の予測と実測のグラフを送った。見るとアーティスが起きる十数年前から、予測と実測に差がでていることが示されていた。
「……消費酸素量が、予定よりほんのちょっと増加してる。これなら誤差の範囲内だけど……人間一人分くらいなら、この誤差の中に入るね」
頬杖を付きながらエネノアがそう呟いた。
「ああ。だが見て欲しいのはそこだけじゃない。この誤差は今も続いてるんだ」
再び混乱がアーティスを揺さぶる。年をとらない少女、今も続く酸素消費量の誤差。導き出される一つの可能性がある。
「アーティー、お前の天使は生きているかもな。何者かは全く想像がつかないけど」
「……そんな……」
呆然と呟いたアーティスの耳に、冷静なエネノアの声が聞こえた。
「じゃあ、この中の誰かがきっと、天使を冷凍睡眠に入れたのね」
誰かが……彼女をかくまった。誰が嘘をついている? エネノアの瞳が、微かに鋭くアーティスを見たような気がしてアーティスは立ち尽くした。
疑われているのはきっと……アーティスだ。
静かなエネノアの声に、アーティスは指先が徐々に冷たくなっていく感覚を覚えた。