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地球を出立してから一三〇年後、二四六四年一月一日。ついに念願だった『約束の日』がやって来た。この計画に関わった、アーティスを含む七人全員が一斉に目覚める日だ。
再び目覚めたアーティスは今、レクリエーションルームへと続く長い廊下を歩いていた。前に目覚めたのは八十年も前のことになる。感覚では自らの仕事を終えて眠りについてから、たった一日しか経っていない。目覚めた時に、一緒に二年近くを過ごしたアンジェラがいなくて少々がっかりしたが、それ以外は全く異常はなくいつも通りだ。いや、いつも通り過ぎて驚いた。アーティスはもう、百歳をとうに超えてしまったのだ。だが鏡に映る姿は今まで通り二十代も半ばにすぎない。
出がけにモニターで見た惑星エデンは、美しい星になっていた。約束の日が予定通り訪れたということは、当然エデンの惑星地球化が成功したと言うことなのだが、モニターを見て始めて実感できた。
「これがあの赤茶けた星か……」
画面を撫でながらそう呟いた。作業に取りかかった時には、本当に何にもなかったのに、これは本当に聖書に書かれていたエデンそのものじゃないか。何しろこの惑星には兵器をため込んだ大国もいなければ、利害でにらみ合う民族もいない。降り注ぐ光は暖かな生命の光で、降り注ぐ雨は大地を潤す恵の雨だ。そこには大気中で恐るべき性質に変貌し、生命総てをのろい続けた毒は存在しない。
そもそも人類が存在していないのだ。
一人の『聞く者』が中心となった、ある計画が発表された当初、それは夢物語だと陰で笑われていたと聞いたことがある。安全を確認できない航宙船に人類の希望を託すなんて間違っていると、せせら笑われたものだという。だが笑った奴はこの光景を見て悔しがっているだろうと、アーティスは微かに微笑んでいた。
悔しかったらここに来てみればいい。これが答えだと。人々はいつも希望を語る人間を不可能だとせせら笑う。だが不可能が可能であると信じる者だけが、未来を拓くことが出来るのだ。
その計画とは『希望の弓矢』以前に作られていた地球生命全ての遺伝子プラントと、人類の受精卵をまだ見ぬ外惑星へと運び、そこで第二の地球を作るというものだった。当初は専門家たちによって否定的な見方をされていたこの計画が実現に至ったのは、一人の女性の存在に負うところが多い。
エネノア・ノイマン。『聞く者』たちの頂点に立つ若く美しい女性天才工学博士である。
彼女はこの計画を専門家たちではなく、未だ消えることのない放射能の恐怖に怯える一般の人々に向けて公表したのである。希望を失い、日々の暮らしで精一杯になりつつもすさんだ心を抱えていた人類にとって、この夢物語のような計画は魅力的だった。遙か昔、人類が外惑星探査機ボイジャーに異星人への夢を託した時のように、多くの人類が外惑星における地球生命の保存を願い、夢見た。
かくしてこの計画は研究者や政治家の思惑とは異なり、世論の推すところとなり圧倒的少数にして見識ある人々を置き去りにする形で、多くの人類の支持の元、実行されることになった。美しい世界が作られた後、地球に残った人々の元に、新たなる楽園から迎えがあると信じて。
最高の技術と完全なる機械制御の航宙船に乗ることになったのは、計画の中心であるエネノア・ノイマンを含めてたった七人の若者たちだった。人手の必要な部署の全ては、コンピューター制御で補った。それもまた、最高の頭脳を持つ『聞く者』の中でも最も上位に位置する者たちであるから出来ることだったのだ。
なにしろ航宙船によるワームホール航法で惑星地球化可能な惑星を選び出すまでに片道三十年、惑星地球化が終わりそこに新たな人類を入植させるまでに約百年強かかる。より少ない人員でより多い利益をもたらす必要があったため、乗組員を厳選しこの人数になった。なによりもエネノアはそれ以上の人員を必要としなかったのである。
完全なる片道の旅路はこうしてエネノア・ノイマンにより選抜された最上位のグループが占めることとなったのであるが、これに関して異存はでなかった。冷凍睡眠を利用したとしても、旅立つ彼らは二度と母星を見ることは出来ない。滅び行く地球であったとしても、人々はみな母星に戻れぬ事を怖れたからだった。
この理想と夢だけを乗せた無謀ともいえる計画の名は『箱舟計画』と呼ばれ、宇宙望遠鏡で観測された電磁波によって幾つかの候補が選び出された。惑星地球化の可能性の高い幾つかの星は、地球上の人々が最も信仰したカトリックの教典にちなんで『エデン』と名付けられた。名前の元となった宗教が、現在は『聞く者』たちにより瓦解してしまっていたのは皮肉だが、やはり人々は人類の可能性を神に祈りたい気持ちだったのだろう。
『箱舟』が目的地に着いた段階で、『箱舟』自身の推進力の源であった巨大反射鏡が自動操作によって本体部分から切り離され、この星系の恒星の光を集めて照射する。その光は惑星を暖め、両極に大量に蓄えられていた氷を溶かして海を作る。同時進行で、少しずつ惑星の軌道をずらし、地球と同じ気温に保たれるように軌道を修正するのだ。
その後、自己増殖型ナノマシンを大量に投下。地表で自己増殖を繰り返しながらナノマシンは地面に潜っていき、地下に眠る二酸化炭素を分解して大気に還元、二酸化炭素濃度を高めて惑星を温暖化させる。温暖化速度を上げるために、方舟から無数の小型機材を惑星に向けて投下し、地球で言うなら成層圏の高度に固定。大気の成分を分析しつつ、温度、電気刺激による大気組成の組み替えを行うのだ。その後ナノマシンは地中深くに潜り、磁力を発生させて惑星の自転をコントロールし、一日の長さをできるだけ地球に近づける。地球尾動植物をこの地に根付かさせるためには重要なプロセスだ。
惑星環境工学の専門家であるアーティスが目覚めて行った仕事は、惑星エデンの大気組成の組み替えと、植物の種子の地表散布だ。それはこの惑星に到着前にすでに決定していた事を実行するだけのことに過ぎない。全ての準備は、地球で整えてきている。
全ての環境が原始地球に近づいた状態でアーティスは小型機材を使って大気の組成を微調整していくのだ。気温、磁場、軌道、総てをチェックし直し、必要ならばナノマシンのプログラムを変更する。そして大気が整った時点で、遺伝子改変により様々な環境への適応力が高くなった苔類と二酸化炭素に強い適応力を持った草木を、成層圏にある小型機材からカプセルで投下、惑星の地表全てに散布する。
この段階でアーティスの仕事は、ほぼ終了だ。あとは次の作業を引き継ぐ仲間に、コンピューターの記憶装置を使って、メッセージを残しておけばいい。次の仲間が目覚めた時には、促成栽培用に改良された苔と草、若木が覆い茂る地表を目にするはずだ。計画の全貌を理解しているが、まだそれは図面上のことに過ぎず、現実感を伴っていない。だからついにこの日が来たことが嬉しくて仕方ないのだ。
『約束の日』がやってきたこと……それは惑星エデンが人の住める環境に適応し、人類の再生が始まる事を意味する。それがこの『箱舟計画』の一番の重要任務であり、彼ら七人に託された至上の命題なのだ。この星に人類を入植させなければ、託された任務は終了しない。その為には全員が顔を合わせてのミーティングが必要だった。
だが今のアーティスにとって、そんなミーティングなど建前でしかなかった。とにかく仲間達に会いたい、会って話がしたくて仕方なかった。だから今日は、今後のための必要不可欠な打ち合わせの日ではなく、待ちに待った他の仲間との再会の日なのだ。
自身の仕事で起きていた間は、話し相手にアンジェラがいた。天使のようなアンジェラは、相当変わったアンドロイドだった。感情豊かで、言葉も完全に理解しているのに、何の知識も持ち合わせていなかったのだ。飲み込みが早く一度聞いたことは忘れない彼女は、アーティスにとって最適な聞き役だったから、色々な事を教えることは思いの外楽しかった。アーティスの性格を知っているから、そういうアンドロイドを用意してくれていたのだろう。
とはいえ、やはり仲間と話ができないのは辛かった。何しろ最後に会った日から、百年以上過ぎてしまっている。感覚的には二年だが、それまで十年以上も顔をつきあわせ、同じ研究施設で暮らしてきた仲間とこんなに離れているのは、今までではあり得ないことだった。
ようやく長い廊下を歩ききり、無機質な扉の前に立った。ここがミーティングルームだ。出発前には何度かみんなで集まったが、出発後にここを訪れたのは初めてだから、妙に緊張する。
大きく息を吸い呼吸を整えた。みんなは変わっていないだろうか?
そんなことを思ったのは、やはり長すぎる百年以上の時間のせいだろう。もし自分だけ年をとっていなかったらどうしようか。似たり寄ったりの年齢のはずの面々が、とてつもなく歳をとっていて、自分だけが若造のままだったりして……。
そんなあり得ないことを考えて、一瞬足が止まった。もう一歩で部屋の中だ。一歩踏み出せばメインコンピューター『箱舟』が自動的にアーティスを認識して扉を開く。
だがアーティスの迷いを読み取ったかのように『箱舟』の声が響いた。
『認識しました』
「あ、あれ?」
どうやら立つ位置を読み違えていたようで、扉が音もなく開いた。行くしかないだろう。一歩踏み出そうとして、目の前数センチに突きつけられた円形の物体に、度肝を抜かれた。直径四~五センチのそれは丁度アーティスの顔の位置にある。
「お寝坊だな、アーティー」
筒の向こうから明るい声がした。同時に赤みがかった褐色の髪が目に入る。ようやくアーティスはその筒の正体を理解した。これは映像を記録するロムカメラだ。こんな懐古趣味のものを持ち出してくる奴は、一人しかいない。
「おはようデニス。久し振り」
「よう、お前がいなくて寂しかったぜ~」
ロムカメラ越しにデニスが答えて手を挙げた。顔を出す代わりの挨拶らしい。
デニス・クリフォード。生物学者兼生命工学博士。北米連邦出身。アーティスの親友だ。同じ歳で、地球を発つ時は二十二だった。ということは……一五二歳ということになる。
ロムカメラを通常の位置へと構え直すと、ようやく顔が見えた。アーティスの記憶より、数年歳をとっている。アーティスは二年、デニスは五年起きていた。その差だろうか、自分より年上に見えるのが微妙に悔しい。
「そんなにお寝坊だと、ケイファみたいに細目になっちまうぞ」
ニヤニヤ笑いながらカメラから目を離し、デニスはミーティングルームの椅子へと目を向けた。その視線の先に目を遣ると、そこにはこちらを睨みつける女性の姿がある。その目の鋭さに慌てて、デニスを諫めると、何事もなかったように女性は呟いた。
「馬鹿は何年経っても馬鹿。友を選ぶべきね、アーティー」
再会早々あまりに冷たいその口調に、怯みながらも懐かしさがこみ上げてくる。この口調も、妙にデニスと仲が悪いのもいつも通りだ。
「……おはようケイファ。肝に銘じとく」
リー・ケイファ。海洋生物学者兼生命工学博士。東アジア共和国出身だ。とことんデニスと気が合わない。そもそも性格が正反対なのだ。なのにこの二人が組むと、妙に作業能率が上がるという、特殊なコンビなのである。
「何だよ、連れないな。五年も二人きりで過ごした仲だろ? ちょっとは仲良くしようぜ」
今まで隣にいるとばかり思っていたデニスが、もはやケイファの正面にまわっている。しかも嫌味なまでにカメラを近づけて。この態度がいつもケイファの逆鱗に触れる。
「……好きで過ごしたわけじゃないわ。カメラを向けないで、肖像権侵害よ!」
カメラを叩き落とされそうになったデニスが、ひょいっと軽いフットワークで一歩下がる。
「俺を訴える? どこに? この宇宙のどこに裁判所があるのかな?」
デニスがカメラを持たない方の手でおどけて肩をすくめてみせると、あからさまにムッとした顔でケイファは横を向いた。確かに今の自分たちには、訴えるべき機関は存在しない。警察も裁判所も、遙か彼方にある。それが分かっているから反論のしようがないのだろう。今回はケイファの負けだ。ここでやめておけばいいものを、デニスは調子に乗って混ぜっ返す。
「お前俺のやることなすことが、全部気に入らないだけだろ? 肖像権の侵害なんて難しいこといわなくてもいいじゃん」
「そうね、はっきりいうべきだったわ」
ショートボブの髪を軽くかき上げながら、ケイファは切れ長の目でちらりとデニスの軽口を止めないアーティスを見てから、デニスを見据えた。その迫力に思わず一歩下がる。
「存在自体が目障りなの、って」
「ケイファ……」
「止めないあなたも、同罪」
そう吐き捨ててから、ケイファはすぐに目を他の方へと向ける。何故デニスとの喧嘩のとばっちりを自分まで受けなければいけないのか、多少釈然としないが、これまたいつものことだ。
「あなた達は本当に仲良しね。三人とも同期だからかしら?」
穏やかな声が、こちらへ投げかけられた。視線を向けるとそこにいた女性が微笑む。
「仲良くない」
文句をいいながらケイファが、その女性の隣に腰を降ろした。
「ふふ、ケイファは意地っ張りね」
女性の言葉にケイファは応えず、手元の端末を乱暴にいじった。ケイファが噛み付くのは同い年のデニスとアーティスの二人だけで、それ以外の仲間には一応の敬意を払っているのだ。その上何かと気遣いをしてくれる彼女には、頭が上がらない。
ケイファの隣にいるのは、髪を結い上げた褐色の肌の女性だった。穏やかな笑みを浮かべ、民族衣装を身に纏っている。彼女は地球にいた頃からいつも、民族衣装に白衣を着ているのだ。
「おはようアーティー、ご機嫌いかが?」
目があった瞬間に、彼女は微笑んだ。人に安心感を与える穏やかな微笑みだ。ケイファとは百八十度違う。見た目のままの柔らかな口調で、彼女はアーティスを気遣う。これが彼女の性格であり、職業だ。
「おはようドクター。寝過ぎたけど元気だよ」
「そう。それはよかったわ」
「ちょっとお腹が空いたかな?」
おどけてそういってみると、彼女はおかしそうに吹き出した。
「冷凍睡眠してたのに?」
「うん。気分的に……かな?」
気が付くと何気ない二人の会話を、デニスがカメラで撮っている。アーティスと同じで、こんな日常が懐かしく、たまらなく楽しいのだろうと簡単に推測できた。
「元気そうで何よりだわ」
マサラティ・ダマン。医者兼カウンセラー兼遺伝学博士。西アジア・アフリカ連合出身。アーティス達よりいくつか年上である。彼女の怒った顔を見たものは、未だかつて一人としていない。彼女の着ている民族衣装は、西アジア・アフリカ連合が成立する前にあった国の普段着だと言うが、アーティスにはよく分からない。前に聞いた時、サリーというものだと教わった。
マサラティは手元に置かれた彼女専用の端末に、何かを登録した。おそらく冷凍睡眠から目覚める時にとったデータに、体調や心理状態を書き足したのだろう。
「何か気になることがあったらすぐ報告して。体調だけじゃなくて、精神的なものもよ」
「分かってますよ、ドクター」
わざと丁寧に答えると、マサラティはにっこりと微笑んだ。
「今のところ私の仕事はなし。みんな元気で何よりだわ」
マサラティが見渡した視線を追うと、もう一人の仲間の姿があった。少し離れたミーティングテーブルの端で、銀髪の女性が頬杖を付いている。何事か考え事をしているらしい。その憂いを帯びた美しい横顔には、恋愛感情などはなくても、いつもドキッとさせられる。彫りが深くあまりに整いすぎているのだ。この部屋にいる女性陣の仲では最も顔とスタイルがよく、魅惑的でケイファとは正反対……とはデニスが常日頃から口にする意見だ。
久し振りの彼女に、思わず見とれるアーティスに気が付いたのか、デニスは後ろからアーティスの肩を抱いて、彼女の前に連れて行った。
「スヴェータ、アーティーが起きてきたんだぜ?」
カメラを向けながらそういったデニスに、彼女はゆっくりと顔を上げた。そして形のいい唇から、ハスキーな声で言葉を紡ぐ。
「悪い、気が付かなかった。おはよう」
容姿とは反対に、彼女の口調はぞんざいだ。
「おはよう、スヴェータ」
スヴェトラーナ・リュボフ。植物学者兼生命工学博士。ロシア連邦共和国出身。
アーティスの後に目覚め、植物が繁茂する惑星エデンを最初に目にしたのは、植物学者であるスヴェトラーナだ。デニスが再びケイファとマサラティの元に嫌がらせ……いや、話に向かったのを確認してから、スヴェトラーナはアーティスに椅子ごと体を向けた。
「メッセージありがとう」
一瞬何のことか分からなかったが、すぐにアーティスが作業の引き継ぎの際にコンピューターに記録したものだと分かった。
「どういたしまして。何も面白くなくてごめん」
今考えると、形式張ったメッセージすぎた気がして思わず謝る。スヴェトラーナしか見ないのだから、もっと気楽なものを残せばよかった。自分とスヴェトラーナだけが、一人で数年の任務に当たるのだから。
「そう? あたしは面白かったけど」
「……どの辺が?」
面白がられる記憶がない。改めて聞くと、スヴェトラーナは微笑んだ。
「『僕は今、天使といます。とっても可愛いですよ。アサギに感謝』って。あんたがすっごく照れてたのがおかしくてね」
「あ、そうだっけ?」
「そ。あんなあんたを見たこと無かったから、面白かった」
「うわぁ……忘れてくれる?」
そういえばアンジェラの話をしたんだった。多分スヴェトラーナも会うだろうと思って、先に名前と容姿を告げておいたのだ。気を取り直して一つ咳払いをする。
「アンジェラに会った?」
「会ったよ。確かに天使だね、あの子は。本当にアサギには驚くよ。どうしたらあんな天才が出来上がるのかね」
ため息を付きつつそう言ったスヴェトラーナだって『聞く者』であり、天才なのだ。この船に乗る七人は全て『聞く者』で、専門的分野において天才的な頭脳を持っている。だがその天才にすら羨まれる人物が、この船には二人もいるのだ。
「それにしてもおかしかったよ、アンジェラ。持っている知識が、殆どあんたの知識だったからね。まるでアーティーが二人いるみたいなもんさ」
色素の薄いグレイの瞳に、スヴェトラーナは楽しくて堪らないという表情を浮かべた。アンジェラに一体何を教えたのか思い出せない。あまりにもアンジェラと話すことが日常的すぎで、特別なことを教えた記憶がないのだ。だからとんでもないことを教えているかもと思うと無性に恥ずかしい。
「仕方ないよ、アンジェラは何も知らなくて、何でも知りたがったんだから」
長くなりそうだから、隣の席に腰を降ろす。デスクと一体化したモニターに触れ、自分の席として登録した。これで自分個人で管理するデータが呼び出せるようになる。
「ふ~ん。だからあんたの服の好みやら、食べ物の好みやら、好きな本、好きな歌まで教えたんだね」
何だかアンジェラを通して、プライベートまで全て筒抜けになってしまった気がして恥ずかしい。なのであえてはぐらかすことにした。
「そんなことも教えたかなぁ……」
独り言のようになってしまった呟きに、スヴェータは小さく笑って、アーティスを見ずに自分の端末をつついた。
「ま、一番詳しかったのが私たちのことだっていうのがあんたらしかったけど」
「うん。やっぱりみんながいないとね。一緒に育ったようなもんだからさ」
「まあ、そうだね」
スヴェータはそのまま黙り込み、呼び出した資料を読み始めた。ちらりと横目で見ると、それは今後の予定が書き込まれた『箱舟計画』の計画書だった。口調のわりに真面目なスヴェトラーナに触発され、アーティスも資料を呼び出す。地球にいる頃は暗記するほど見た資料だが、目覚めてからは浮かれてばかりで、まだ一度も確認していない。
「何だよ、もう勉強か?」
いつまでもカメラを構え続けているデニスは、ちゃっかりアーティスの横に陣取り、そこのモニターに自分の登録を行った。
「仕事を終えてから、八十年も寝ちゃったからさ」
「八十年? 脳みそ腐りそうだな。俺なんか四十年近く寝ただけで、もう難しいこと考えられなくなっちまった」
「ご愁傷様。その脳みそ、完全に腐りきらないうちに役に立つようにしておいてくれよ、生命工学博士様」
そう答えてから資料を読み始める。小さくデニスが舌打ちしてカメラの電源を切った。カメラを横に置くと、面倒くさそうにむくれながらモニターを操作し始めた。
「いいよな、気楽な惑星環境工学博士様はさ」
「ありがとう。その通りだよ」
ここからの仕事の場合、一番手が空くのはアーティスなのだ。人間の受精卵からの再生や、遺伝子レベルでの再生ということは必要に迫られて覚えている。だが専門家が五人と優秀なコンピューターがあるのだから、アーティスが必要なことはない。だから今後の仕事は、手が足りず頼まれたところに手伝いに行くことだ。もう一人の生命工学博士ではない人間も、同じような役割にまわる予定だが、アーティスとその人物では、手伝えるレベルが違いすぎて話にならない。
ため息混じりに息をつくと、再び書類を読む体勢へと頭を切り換えた。隣のデニスがつまらなそうに頬杖を付いていたが、しばらくして自分の端末に向かって声をかけた。
「『箱舟』あとの二人が近くに来たら教えてくれ」
『了解しました』
『箱舟』が律儀に答えた。さっきアーティスが入ってきた時、デニスがタイミングよくカメラを構え、あそこに立っていた理由が分かった。アーティスの時もこの手を使っていたに違いない。
「本当に好きだね、そういうことがさ」
呆れてそういうと、デニスは嬉しそうに鼻を親指でこすりあげた。
「ああ、大好きだね」
子供の頃から変わらない彼の癖だ。このそばかすの残る顔を見ると、もう文句をいう気もしなくなる。デニスは七人のムードメーカーなのだ。陽気な人間がそもそも少ない『聞く者』の中で彼は特殊な部類なのかもしれない。憎めない奴……アーティスを含むメンバーは皆そう思っている……ただ一人、ケイファを除いて。彼女だけはデニスの言動がどうも許せないようだった。子供の頃からこれなのだから、もうこの二人の関係は変えようがない。
「まだかなぁ……」
デニスの声に、全員が顔を上げた。先ほどからアーティスも、この場にまだ来ない二人のことを考えていたのだ。
「そうね、遅いわね」
ゆっくりと付いていた手を下ろしながら、マサラティも呟いた。
「俺、みんなを脅かそうとして一番に『方舟』に起こして貰ったんだぜ。もう、退屈だよ」
ということは、ここにいる全員があのカメラ攻撃をされたということだ。見るとマサラティも苦笑している。デニスという男は、研究以外のことは子供の域を出ていない。物心着く前から、研究所という温室のような閉鎖環境で育っていれば無理もないのかもしれないが、それにしたって親友としてはなんとも情けない限りだ。
「……くだらない」
アーティスの内面を代弁するようにそう呟いたケイファが、いつも通り冷たい目線をデニスに送った。その視線を嬉しそうにデニスは受けて立った。
「くだらないっていうなよ。レクリエーションだろ? 少しくらい楽しめ」
「楽しめるレベルに達してないの」
「なにを?」
二人のいつものやりとりに、残った三人で何となく視線を合わせる。いつものことだ、止める気はない。
本気で腹を立てるケイファと、ケイファをからかいたいだけのデニス。ケイファさえ無視していれば喧嘩にはならないものを、彼女はそれができない。言われたら言い返せずにはいられないのだ。おそらくケイファは何かとんでもないことが起こらない限り、デニスの少々歪んだ彼女への想いに気付かないだろう。アーティスから見ればそれはもどかしい限りなのだが、当の本人であるデニスは全く気にしていないらしい。
『デニス、二人が来ました』
「よっしゃ!」
箱舟の言葉にデニスは嬉々として、デスクに置かれていたカメラを手に立ち上がった。不意に置き去りになったケイファは、腹立たしげに横を向く。
「サンキュー『箱舟』。俺が立っても扉開けんなよ」
『了解しました』
デニスはいそいそとカメラを持って扉ギリギリの所に立った。なるほど、自分の時もこういう風にスタンバイされていたわけか。
「どっちちが先かな?」
声だけでそう尋ねたデニスに、アーティスは投げやりに答えた。
「エネノア。性格的に」
「やっぱ? 俺もそう思うんだよね」
それじゃあこの辺かなと一人呟きながら、デニスはカメラの位置を調節する。二人は結構な身長差があるのだ。
「オッケー。いつでもどうぞ」