三章 その九
ふと時間を見ると、十一時半になっていた。
あれから、もう一時間半も経っていたのか。いや、まだ一時間半と言うべきか。
牧谷遊奈の写真を見た衝撃から、俺は未だに、立ち直れずにいた。
あの後、態度を急変させた俺に岸川先生はしきりに気遣ってくれた。だが、あまりの出来事に放心していたせいで、どんな言葉をかけられたかは記憶にない。
それから俺は先生に「急用を思い出しました」という見え見えの嘘をついて、逃げるように図書室を後にした。
いや、逃げるように、ではない。正真正銘、俺は逃げてきたのだ。
本当なら、もっと先生に当時のことを聞いたほうがよかったのかもしれない。牧谷遊奈がどんな性格だったのかとか、家族のこととか。聞くべきことは、沢山あった。だけど、無理だった。俺自身が、耐えられなかった。
事件の被害者だった、牧谷遊奈。そして、うちに転がり込んできた、アンジュ。
二人の人相が似ているのは、単なる偶然なのだろうか。それとも、何か理由が?
正直なところ、俺はアンジュを、それなりに信頼していた。
唐突に現れた謎の少女、それも人工知能の電脳天使と宣う彼女を信頼するというのも変な話かもしれない。だが、それでも、彼女は俺に本当のことを言ってくれていると、俺の力になってくれるのだと、漠然と信じていた。
だが、今まで俺の中に根付いていた信頼は、裏返したように彼女への不信へと様変わりしていた。
ショックの大きさに、冷静な判断ができていない。それは分かっている。自覚してはいるが、それでも一度芽生えた不安というのはそう簡単に拭えるものではなかった。
今回の裏サイト。そして、十年前の事件。
きっとその両方に、アンジュは深く関わっている。かつての被害者であった牧谷遊奈という少女を軸にして、やはりこの二つの事件は繋がっているのだと、俺は強く確信した。
そう考えると、やはりアンジュは怪しい。以前「知られたくない秘密はない」と断言していたが、果たしてどこまで信じられるのか。
仮に信じたとしても、アンジュなら牧谷遊奈の顔写真くらい、簡単に調べることができたはずだ。そして、自分と顔がそっくりなことに、すぐさま気付いただろう。そのことを言わなかった時点で、彼女を疑うには十分だった。
もはや自分の中でアンジュへの不信感は、揺るぎないものになっていた。
だけど、もしかしたら。
もしかしたら、全ては俺の考えすぎなのかもしれない。二人の顔が似通っているのは本当にたまたまで、案外アンジュに話したら「ワオ! これは驚きだ!」なんていつものようにオーバーリアクションで答えてくれるかもしれない。
そんな甘い考えを捨てきれない自分に、嫌気が差す。吐き気がする。だめだ、なんだか、どつぼにはまっている。
俺は自分の頬を強く叩いた。気持ちを切り替えるためには、きっかけが必要だ。
ぱしん、と乾いた音が響く。
気持ちは、全く切り替わらなかった。




