三章 その八
翌日。十月二十五日。時間は朝の七時といったところだろうか。
学校は今日、臨時休校になった。昨日あれだけ派手な騒ぎがあったのだから、当然といえば当然だ。
普段の俺ならば、この降って湧いた休日に喜ぶところなのだが、あいにく今日は予定がある。
「……本当に大丈夫なんだろうな?」
俺が不安を口にしても、アンジュはどこ吹く風といった様子で「平気へーき。オーライだー」と呑気にあくびをしていた。本当だろうか。一抹の不安を抱えながら、俺はこっそりと、静まりかえった校舎へ足を踏み入れた。
そう、校舎だ。休みの日にまでなぜわざわざ校舎に来るのかといえば、もちろん調査のためだった。
昨日アンジュと話し合った俺の役割は、当時の文集などの確認と、聞き込み調査だ。
しかし困ったことに、俺には十年前に高校生だった知り合いなんて、皆無。いるはずもない。
そこで俺は学校の図書室に過去の文集や卒業アルバムがあることを思い出し、こうして潜入を試みているのだった。
「これ、先生に見つかったら絶対怒られるよなぁ……」俺は今日何度目かのぼやきを口にする。
アンジュは呆れたようにため息をついた。「初、ユーは案外小心者だな。ここの生徒なんだから、忘れ物を取りに来たとか、適当なことを言えばいいじゃないか」
「悪かったな、小心者で」
アンジュと小声で呟き合いながら、俺は忍び足で校内を移動していく。どうか誰とも会いませんように。
そんな俺の祈りが通じたのか、なんとか誰にも遭遇せずに図書室へたどり着いた。運良く、扉に鍵もかかっていなかった。俺は極力音を立てないように、そっと戸を開ける。
「なぁ、アンジュ。文集がどの棚にあるのか、分からないか?」俺は声をひそめて尋ねた。
「分かんない」彼女の返事は素っ気なかった。「蔵書の整理情報はデータ化されていないようだからな。まぁ、地道に探してくれたまえ」
「地道に、って言ったって……」
図書室の大きさは大体、町の図書館と同じくらいだ。特別広くはないが、決して狭いとも言い難い。時間をかければ、いずれ目的の本を見つけることも可能だろう。
あくまで時間をかければ、だけれど。
「こっちは学校に忍び込んでいるんだぞ。あまり時間はかけられないだろう」
「大丈夫だろう」他人事のようにアンジュは平然としていた。「教師は昨日の首吊り騒動の事後処理や、今後の対応を話し合っている最中だろう。わざわざ何の関係もない場所に来るとは思えない」
本当だろうか。アンジュの言うことも一理あるが、それでも可能性はゼロではないだろう。鍵も開いていたし、誰かが施錠に来る可能性だって否めない。
「……そんなに気になるなら、誰か手伝いを呼ぶと良い。そうすれば、効率良く探せるだろう」
アンジュは面倒くさそうに頬杖をついた。手伝いか。順当に考えて、海法あたりか。確かに、部長を追い詰めた犯人を捜していると正直に言えば、喜んで協力してくれそうではあるが。
「何なら私から呼んでおこうか? どうせ友人の少ない初のことだ。呼ぶとしたら、新聞部の海法総一か神達禮のどちらかだろう?」
「……別に友達が少ないわけじゃない」
「いや少ないし」アンジュは真顔で断言した。「携帯電話のアドレス帳、十五件しかないじゃないか」
こいつ、勝手に人のアドレス帳を見たのか。本当にプライベートも何もあったものではない。
「しょ、少数精鋭でいくスタイルなんだよ」
苦し紛れの弁明を馬鹿にしたように、アンジュは吹き出した。
「やっぱり少数じゃないか」ニヤニヤと腹の立つ笑みだった。
しまった。語るに落ちた。
なおも言いわけを重ねようとした俺を、アンジュは片手で制した。
「いや、いいんだ初。友人の数で優劣がつくなんてことはないからなププッ!」
プルプルと震えたかと思うと、アンジュは最後まで言い切る前に威勢良く笑いを吹き出した。
友達が少ないのがそんなに可笑しいかよ……。なんだか怒りを通り越して、無性に悲しくなってきた。
俺が落ち込み出したのを察したのか、アンジュはさっきとは違う、爽やかな笑顔を浮かべた。
「まーまー、いいじゃないか。少ないながらも良い友人たちで。海法聡一はアドレス帳に千件以上登録している顔の広い男だし、懐っこいから人の輪にもすぐ溶け込む。絶えず人と接しているから話題も豊富だ。もしかしたら、私以上の情報通かもしれないぞ」
あまりにも当然のように言うので、思わず聞き流すところだった。
携帯電話のアドレス帳に千人以上? どうやったらそんな魔術じみたことができるんだ。嘘みたいな人数だ。しかしアンジュが言うのなら、本当なのだろう。きっとあいつの携帯電話に侵入して盗み見たに違いない。
俺の動揺に気付く様子もなく、アンジュは話を続けた。
「それに、神達禮。彼女もすごいな。幼少の頃から格闘技漬けで、腕前はもちろん折り紙付き。今は辞めてしまったようだが、初のような一般ピープルなら間違いなく瞬殺だな。続けていれば、最強の女子高生になれただろうに。いやいや、もったいない」
これまた初耳だった。神達が格闘技? そんなの、聞いたこともない。
彼女はお世辞にも体格に恵まれているとは言い難いし、手足は小枝のように細っこい。あのひょろりとした腕で、本当に男子をなぎ倒せるというのだろうか。それは本当に俺の知っている神達禮と同一人物なのか、激しく疑問だった。
「これだけ素晴らしい人たちに囲まれているんだ。だから初、友人が少ないことを嘆く必要なんて全然ないんだププーッ!」
アンジュはまたもや笑いを漏らした。
「わかったよ」うんざりした気持ちで、おざなりな返事をする。俺は過去の文集がしまってある棚を探して、図書室内をうろつき始めた。
……そういえば、忍び込んだ緊張感は、いつのまにか随分和らいでいた。
これって、気を使ってくれたってことだよな。硬くなった気持ちをほぐすために。
なんだか、アンジュには気を使われてばっかりだ。かと言って、お礼を言うのも変だ。ここは少しでも早く目的の物を見つけることで、調査に貢献することにしよう。
俺がひそかに決意するのとほぼ同時、アンジュは思い出したように両手を打った。
「あ、それと私は私で別の調べ物があるんで、初に何かあってもフォローできないから」
「えっ?」
ちょっと待った。今こいつ、さらりと重大なこと言ったよな、と携帯電話を取り出す。アンジュは「ファイトー」とやる気の出ない掛け声を残して、画面から影も形もなく消えていった。
「ちょ、おい!」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて自分の口を手で塞ぐ。辺りの気配を探ってみるが、幸いなことに、周囲に自分以外の人間はいないようだった。
しかし、アンジュのやつ、こんな状況でいなくなるとは。それでなくても、侵入行為に緊張しているというのに。心細くなるじゃないか。
ひとしきり心の中で文句を言ったあと、あまり時間をかけられなかったことを思い出す。そうだ、今はこんなことを考えている場合じゃない。女々しい文句は、後でまとめてアンジュにぶつけよう。
俺は音がしない程度に、自分の両頬を叩き、気合を入れた。
大丈夫。俺ならできる。
そう自分に言い聞かせて、俺は図書室での調査を開始した。
それからしばらくの間、俺は目的の本を探し続けた。目的の、十年前の文集――次の卒業式が六十二回だから、第五十二回の卒業文集だ――は、一向に見つかる気配が感じられなかった。
乱雑な図書室は蔵書管理もいい加減らしく、文集がしまってある棚に目的の文集はなかった。というより、文集自体があちこちの棚に散乱しているようだった。なので結局、俺は図書室全体をくまなく探す羽目になってしまった。
作業に没頭しすぎたせいか、ふと時計を見ると、午前十時を示していた。なんてこった。もう三時間近くここにいるのか。どうりで足が疲れてきたと思った。
窓の外を覗くと、日差しがいい具合に眩しい。絶好の小春日和だった。
こんなにいい天気だっていうのに、カビ臭い図書館にこもって、一体全体、俺は何をやっているんだろう。虚しさに目を細めたくなる。
別に裏サイトの真実がどうでも良くなったわけではない。そうではないが、こうも成果が上がらないと、どうしてもモチベーションは低下するものだ。
少し、休憩するか。あまり根を詰めすぎても仕方がないし。
そんな風に思い、俺は目の前にある棚の、最後の一列に目をやった。この列をチェックしたら、キリがいい。そこまでやったら、一回、休もう。
一列に並んだ本の背表紙に指を這わせ、目的の文集を探す。もはやルーチンワークとなりかけていたせいで、俺は最初、思わずその本を素通りしそうになった。
「ん?」
不意に訪れた違和感に、おれはぴたり、と手を止めた。そして素通りしていった本を二、三冊戻り、そこにあった分厚くて背の高い一冊の本を手にとった。
第五十二回 卒業生文集・アルバム。
背表紙には金色の彫り文字で、しっかりとそう書かれていた。
「み……見つけたぁー」
思わず、自分の声に安堵が混じる。やっとだ、やっと見つけた。目的の本をとうとう探し出し、俺はその場で踊りだしたくなるような達成感に包まれた。
これに、載っているのか。十年前の事件に関係している生徒が、全員。
これを開けば、きっと謎の究明に大きく近づくだろう。そう考えると、興奮で高まる胸の鼓動を抑えきれない。
俺は喉を鳴らしてつばを飲み、震える手付きで、文集を一ページ、開こうとした。
その時だった。
「……三田村? 何をやっているんだ?」
背後から急に、しわがれた声で呼び止められた。瞬時に、自分の体が緊張でこわばるのを感じる。
やばい、見つかった。そう思ったが、完全に後の祭りだった。相手は俺の名前を言った。面が割れている以上、ここで逃げても仕方がない。油断した。最後の最後でしくじったか。
しばらくこの場を切り抜ける方法を考えたが、妙案はひとつも浮かばなかった。俺は観念して、恐る恐る、声の方へと振り返った。
「岸川、先生……」
背後にいたのは、岸川先生だった。怪訝な表情で、不審の目を向けている。
「やっぱり三田村じゃないか。どうした? 今日は学校、休みだぞ?」
「あ、いえっ」
弱った。予想していたとはいえ、本当に見つかってしまうとは。しどろもどろになりながら、何とか弁明を試みる。
「その、忘れ物を取りに……」
「忘れ物? 何を忘れたんだ?」
咄嗟に、手に持っていた文集を岸川先生に見せた。「こ、この文集です。昨日借りたのに、持って帰り忘れちゃって」
「……卒業文集は、原則的に貸し出し禁止だぞ」
背筋が凍りつく思いだった。やってしまった。なんとか話を逸らさなければ。
「そ、そんなことより!」俺は先生との距離を一歩詰めた。「先生はこの学校に勤めて何年くらいになるんですか?」
あまりにも唐突な話題転換だと我ながら思ったが、それでも岸川先生は律儀に答えてくれた。
「私か? そうだな……。かれこれ十五年くらいになるかな」
「ということは当然、十年前に起きた事件もご存じですよね?」
先生は少しだけ驚いた顔を見せた。そして目に見えてに渋い顔になり「……あぁ」と口をへの字にして答えた。
よし。俺は心の中でガッツポーズをした。
一時はどうなることかと思ったが、校舎侵入の件はなんとかうやむやにできそうだ。ついでにここで先生への聞き込み調査をしてしまえば、一石二鳥。ピンチをチャンスに変えることもできて、万々歳だ。
「先生。十年前に起きた女子生徒飛び降り事件について、できるだけ詳細に教えていただけませんか。もちろん倫理的、職業的に言えないことは話さなくて結構ですので」
俺はここぞとばかりに勢いよく質問した。
先生は眉尻を下げて、あからさまに困った表情になった。分かりやすい人だ。
そして案の定、手を横に振りながら拒否してきた。
「それはダメだ。プライバシーに関することだし、知っていると思うが、被害者は既に亡くなられている。死者を冒涜するような真似はできないよ」
「そこをなんとか」なおも俺は食い下がる。
「……そもそも、なぜ三田村は十年前の事件のことを知りたいんだ?」
「昨日、教室で起きた事件や椎野部長の件に関係があるからです」先生の直球な質問に、俺は真正面から答えた。
「何?」ぴくり、と先生は眉を動かした。「それは、本当か?」
俺はゆっくりと頷いた。「まだ確証はありません。でも、可能性はあります。だから、先生。どうかお願いです。教えてください」
しばらく先生は逡巡するように目を伏せていたが、やがて根負けしたように息を吐いた。
「……わかった。だが、くれぐれも私が教えたと、ほかの人には言って回るなよ?」
「約束します」俺は即答した。
やれやれ、と先生はため息をついて「貸しなさい」と俺が持っていた文集に手を伸ばした。
文集を手渡すと、先生はパラパラと無造作にページをめくった。
「詳細に教えて欲しい、と言われても、私もそれほど詳しく知っているわけじゃない。当時二年生だった男子生徒三人が、同じクラスの女子を自殺に追い込んだ。それくらいだよ」
「その生徒たちについて、詳しくお願いします」
俺がお願いするのとほぼ同時に、先生はページをめくる手を止めた。
「ここに写っている男子。これが、事件の加害者三人だ」
文集を覗き込むと、そこは普段の様子などの写真を収めたスナップページだった。
先生が指さした写真には、ちょうど三人の男子が写っていた。そのうち一人は見覚えがあった。神作湊。昨日裏サイトで見た顔だ。ということは、残りの二人が須田と宮地か。
「こいつらは入学当初から素行が悪くてな。暴力団とも関わりがあったんじゃないかと言われていたよ」
「そうなんですか……」
たしかに三人とも、シャーペンの芯みたいに細い眉に脱色しすぎの金髪、そして改造した制服を着崩していて、いかにもヤンキーといった雰囲気を醸していた。
「被害者の写真はないんですか?」俺は岸川先生に訊いた。
先生は「少し待ってくれ」と言ってまたページをめくりだした。
「三田村は、被害者の生徒についてどれくらい知っているんだ?」文集に目を落としたまま、先生は聞いてきた。
「何も知りません」
正直に答えると、先生は「そうか」と短く答えた。一瞬、なぜか先生の影が濃くなったような気がした。
「……彼女の名前は牧谷遊奈。成績優秀で、授業態度も良かったらしい。私は直接受け持ってはいなかったが、品のいい清楚な子だったと聞いているよ」
やがて先生は手を止め「この子が、牧谷くんだ」と、一枚の写真を指さした。
俺は再び文集を覗き込む。
そして、先生が示す女子生徒を見て。
瞬間、ゾクリと。
寒さにも似た衝撃が、俺の体中を駆け抜けた。
友達と談笑中の写真なのだろう。その女子は一点の曇りもない笑顔で、楽しげに両手でピースをしていた。
髪はセミロングくらいの長さを低い位置で二つに結んで、小動物のしっぽみたいに垂らしている。少し厚みのある唇は柔らかそうで、触れていなくても感触が伝わってきそうなくらい、つやつやと輝いていた。
それでいて、それぞれの顔のパーツが絶妙なバランスで配置されていて、美少女をモチーフにした肖像画のような、圧倒的な美しさと、絶対的な存在感をもたらしている。
「中々可愛い子だろう? それだけに、可哀想な目にあって、誰もが彼女の死を惜しんでいたよ。……どうした三田村? 青い顔をして」
岸川先生がかけてくれる声に、俺はとてもじゃないが、答えることはできなかった。完全に、俺の思考は停止してしまっていた。
だって、写真で笑顔を振りまいている、その女の子。
髪の色こそ優等生らしく黒々としているが、少女の、牧谷遊奈の、その顔は。
アンジュ――俺のもとに舞い降りた電脳天使と、まるで双子のように、瓜二つだった。




