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真田公記外伝   作者: 織田敦
2/2

三国志の時代へ

ifストーリー


三国志の時代に、タイムスリップをした真田敦達。

謎の声の持ち主の力により、強引に後漢時代へ飛ばされる。

邪悪な者の、正体とは?

謎の声の、持ち主とは?

謎の声の、持ち主の目的とは?


天下泰平になり、真田敦は、退屈な日々を過ごしていた。

信長様による天下布武の完成も終わり、残すは琉球を始めとする、南蛮遠征だけとなっていた。

ある日、真田敦は不思議な声を聞いた。

正確には、真田敦が見ていた夢の中であるが。


「真田殿、真田殿。

貴方に、願い事を頼みます。

邪悪な者より、ある人を助けて欲しいのです。

私の力では、その人を助ける事は出来ません。

しかし、戦国の鳳凰と呼ばれている貴方であれば、その邪悪な者を滅ぼす事が出来るのです。

何卒、この願いを聞き届けて貰えませぬか?」

その不思議な声は、どうやら男性の声らしい。

真田敦は、その声のする方に、言葉をかける。

「私が邪悪な者を、滅ぼすですと?

その邪悪な者とはいったい?

それに、私がそこに行こうとも、私個人の力では到底無理な相談かと。」

再び、不思議な声は、真田敦に返答をする。

「貴方の持つ力をすべて、邪悪な者を滅ぼす為に、転送致します。

妹の夕夏を筆頭に、家臣達や、小飼の兵達や、戦国時代の武器もです。

何卒、邪悪な者より、平和な時代を取り戻して下さい。

平和な時代を取り戻した時に、貴方達は元の時代に帰ってこれるのですから。」

不思議な声は、そう言うと、2度とその声は聞こえなくなる。

そして、真田敦が目覚めるとそこは、建安24年(西暦219年)11月上旬。

後漢時代の交州であった。

真田敦は、目を擦りながら辺りを見回すと、妹の真田夕夏を筆頭に、真田家に仕える者達の姿があった。

「ようやくお目覚めですか。

ずいぶん、眠られておられましたので、そのまま天に召されたかと思いましたわ。」

真田敦に対してそんな口を聞けるのは、そう多くはいない。

そう言葉を述べたのは、夕夏の幼馴染みである、西原詩織である。

「はいはい、兄上が目覚めたなら、今後の動きを決めないとね。

何しろ、10日も寝てたのだから。」

最後に口を開いたのは、妹の夕夏である。

この2人は、真田敦ですら、頭の上がらない存在である。

「それで、現在の状況を説明して貰えないか?

起きたばかりで、さっぱりだからな。」

敦がそう言うと、夕夏は1枚の書状を敦に手渡す。

手渡された書状を開き、最後まで読むと、敦は天を仰ぎため息を出す。

書状の内容は、敦が見た夢と同じであるからだ。

この時代に生まれた邪悪な者を殺し、この国の平和を取り戻す事で、元の時代に戻れる。

簡潔にまとめれば、そんな感じである。

「夕夏、詩織。

この書状の内容を信じて、やるしかないのか?

皆の意見はどうなのだ?」

敦は、夕夏、詩織に意見を求める。

最初に意見を述べたのは、妹の夕夏である。

「ここに至っては、じたばたしても仕方ありません。

その書状に従い、邪悪な者を倒して元の時代に帰るだけです。

ただ、邪悪な者の正体が分からない以上、最悪の場合、この世界を平和にするまで、あの時代に戻れない覚悟は持つべきです。

ならばこそ、関羽殿を助け、歴史を変えるべきです。」

次に発言をしたのは、元の時代では敦の側室である詩織である。

「夕夏の言い分は、まさしく正論です。

なぜこの時代にタイムスリップしたのかは分かりませんが、この時代に私達が必要とされたのであれば、元の時代に戻るべく最善を尽くすべきです。

その第一歩が、呉に対する宣戦布告です。

夕夏が申された事は、私も賛同致します。

それだけではなく、騙し討ち同然に、領地を奪い取ろうとするのは、まさしく邪悪な者のやり方です。

正義の名の元、天罰を与えるべきです。

兵は神速を尊ぶ

この言葉の通り、直ちに南荊州に北伐を開始し、この時代の軍神を救うべきです。

卑怯な策を用いる外道は、成敗するべきです。」

夕夏、詩織の2人が、北伐に賛成をしている。

おそらく、他の者達に同じ質問をしても、答えは同じであろう。

真田敦は、心の中で決断を下すと、他の家臣達を政庁に集めるように命令を下す。

この時代にタイムスリップをした家臣達は、この世界に来た事に対して、動揺は隠せずにいた。

しかし、主君である真田敦が目覚めたと聞き、政庁に全員を集めるとなれば、話は別になる。

大内勝雄、南条勝成らを筆頭に、真田敦の存在を神のように崇めているからである。

真田敦様がいれば、何も問題はない。

必ず、元の世界に戻れる。

そんな期待を、真田敦に抱いているからである。

元の世界での天下布武の完成は、真田敦を絶対的なカリスマを持つ人間に、変貌をさせていたのである。

もちろん、本人にはそんな事を知るよしも無かったのであるが。



真田敦が北伐を開始した頃、その関羽は、樊城攻略戦の最中に、同盟を結んでいたい呉の裏切りを知る。

本拠地である、江陵、公安は呉の呂蒙の、汚い策略により落城。

更には、樊城の援軍に来た徐晃の軍勢にも、敗北をしてしまいやむなく江陵奪還の為に撤退を開始するも、更に呂蒙の悪逆無道の策略により、配下の兵士達の逃亡を止める事に失敗する。

残された500あまりの兵を率いて、荊州西方にある麦城に撤退をするしかなかったのである。

江陵、公安を落城させた呂蒙は、建業にいる主君である孫権に、荊州奪還の報告をすると共に、孫権自らに出馬を願い出る。

関羽討伐の絶好の機会と考えた孫権は、約10万の軍勢を率い江陵に到着。

もちろん、秘密裏に同盟を結んだ魏に対して、5万の守備兵力を残した上での出陣である。

同じ頃、樊城を守りきった曹仁は、被害の大きさと、呉蜀の共倒れを狙い、樊城と、奪還したばかりの襄陽城の守備を固める事に専念をする事になる。

孫権本隊が麦城を取り囲んだ頃、歴史が変わり始めたのである。

そう、交州より北伐を開始した真田敦が、荊州南郡にある、長沙、零陵、桂陽、武陵の4郡をわずか10日足らずで、落としたのである。

もちろん、兵力の差もあるが、鉄砲や大砲を所持している真田敦に対して、弓矢程度の武器しか持たない呉など、ごみくそみたいな存在である。

真田敦は、降伏した呉の兵士を皆殺しにすると、妹の真田夕夏に5万の兵力を与え、長江を下るように命じ、荊州東方にある江夏、夏口の制圧を命じる。

そして、真田敦自らは、孫権討伐の為に麦城に向かい、関羽救援の軍勢を向けるのであった。

そして、西原詩織に、4万の軍勢を与え、公安、江陵の奪還を命じる。

そして、荊州4郡の陥落の報告が、孫権に知らされてから、物語は再開をする。



「今、なんと申した?

荊州南郡が全て、謎の軍勢に落とされただと?

馬鹿な事を申すな!

いったい、どこからか現れたと言うのだ!」

大声を出しているのは、呉の主君である孫権である。

「その報告に、間違いは無いのだな?」

冷静に使者の言葉を聞き直すのは、呂蒙の参謀である、陸遜である。

実は、今回の呉による荊州強奪の真犯人は、呂蒙ではなく、この陸遜である。

北伐に向かう前の関羽に対して、必要以上の低姿勢をしただけではなく、多大な贈り物を関羽に渡す事で、呉に対する警戒心を弱くしただけではなく、関羽の意識を荊州北部に仕向けた張本人である。

「突如、南方から現れた軍勢は、我々が見たこともない武器を用いて、城の門はあっとゆうまに破壊をされ、多くの兵が城内になだれ込み、多勢に無勢の言葉の通り、多少の小競り合いの後に守備兵は降伏を致しました。

私は、武陵から使わされましたが、既に3郡は落城をしておりました。

おそらく敵のつぎの狙いは、江陵、公安を狙うはずです。」

使者はそこまで言葉をはくと、力尽きたのかその場にて倒れてしまう。

「孫権様、こうなれば早く撤退をするべきです。

いつまでも関羽にとらわれていて、江陵、公安を奪われてしまえば、我々の退路を断たれてしまいます。」

そう、進言をするのは、文官の張昭である。

かつて、孫策が臨終のおり、国内は張昭に任せ、国外の事は周瑜に任せよと、孫権に遺言を残した時にその名が出ている。

この張昭は、かの赤壁の戦いの時には、降伏を言い出していた筆頭であり、その頃から孫権に信用をされなくなっている人物でもある。

同じく、陸遜も撤退を孫権に進言をする。

「こうなりましては、関羽征伐どころではありませぬ。

もしこの状況を曹操が知れば、我々の留守の間に南征を仕掛けてくる可能性もあります。」

呂蒙や、呉軍最強の将軍である甘寧ですら、続けて撤退を進言する有り様である。

孫権は、天を仰ぎ見てから、やむなく撤退を命じるのであるが、既に時遅しであった。

兵は神速を尊ぶの言葉の通り、わずか数里離れた地点に真田敦の軍勢が近付いていたのである。

真田敦自らは、約10万の軍勢を率いており、兵力の上では呉とそれほど変わりはない。

しかし、所有している武器の質では、天と地の差がある。

孫権の方は弓矢、真田敦の方は鉄砲や大砲。

最初から、勝負にならないのである。

謎の軍勢が数里先に展開をしているとの報告を受けた孫権は、3つの選択肢の中から、戦いに勝利をする方法を取ったのである。



建安24年12月23日、麦城東部において、呉と、真田の軍勢がぶつかる。

初戦においては、呉の方は砦の中から防御を固めながら、真田の軍勢を待ち受ける作戦を取る。

それに対して真田敦は、最初から大砲をぶっぱなし、呉の砦の防御力を奪い取ると同時に、呉兵の戦意喪失を狙う。

「敵は何者かは知らぬが、守りを固め、敵を撃退すれば良いのである!

敵がこちらを攻めきれず、撤退を開始した時に追撃を行い、敵を討ち取ればいいのである!」

呉の甘寧は、兵の士気を高める為に、豪腕を奮い一時的には士気高揚には成功をする。

しかし、真田敦が大砲を使用すると、せっかく高めた士気が、最低レベルにまで低下をするのに、それほど時間は掛からなかったのである。

「ふん!

あの程度の砦に立て籠り、我々を迎え撃つなぞ、無能な証である!

かお、砲撃による攻撃の後に、騎兵隊を率いて、呉の砦を陥落させよ。

余も、後詰めとして鉄砲隊と弓矢隊を率いて、援護をする。」

「了解致しました。

今の呉には、呉軍最強を自負する甘寧がいるとか。

猪武者を討ち取るのは、俺に任せてください!」

あの、関羽ですら呉の甘寧に対して、守りを固める事に専念をさせる程の人物に対して、は猪武者と言い捨てる。

さすが、真田家の筆頭家臣である、南条勝成である。

事実、真田家の人材で、甘寧に勝てる人物がいるとしたら、真田敦、南条勝成ぐらいであろう。

もっとも、武力しか取り柄のない甘寧と、知勇兼備のこいつらでは、最初から総合レベルが違うのである。

この、2人に本気で武力対抗出来る人物は、この時代て言えば、関羽、張飛、馬超、趙雲クラスの連中であろう。

知略で拮抗出来るとすれば、司馬懿ぐらいであるが、司馬懿もそこまで驚異を感じてはいない。

真田敦、真田夕夏、西原詩織の3人は、司馬仲達の慎重な戦略戦術を知っている。

真田敦にしてみれば、司馬仲達の考える事なぞ、全て見通しているからである。

ちなみに、呉の陸遜に関しては、下の下程度に見ている。

これが、周瑜であれば、かなり警戒心を持ったであろう。

しかし、その周瑜も10年近く前に死去。

後を継いだ、穏健派の魯粛も病死している。

その魯粛の後を継いだ呂蒙も、病に臥せっており、かなり無理をしてこの戦いに参戦をしている。

つまり、呉の人材程度では、真田敦に勝てないのは最初から、分かるのである。


さて、話を戻そう。

実は孫権には、この戦いの前に選択肢があった。

最初の選択肢は、この状況である。

謎の軍団を蹴散らし、荊州の奪還を行う。

そこから、関羽を討ち取る選択肢。

現実問題で言えば、これが正しい選択肢であろう。

2つ目は、仕切り直しの意味を込めて、全軍撤退の選択肢である。

しかし、この選択肢は最初から取れない。

なぜなら、呉の国は、絶対主君の国ではなく、有力な豪族の連合政権だからである。

なので、荊州の支配に失敗をしただけではなく、関羽を討ち取る事も出来ず、そのまま撤退をしたのであれば、有力な豪族の離反を招き、国内の反乱を呼び起こす可能性もあるからである。

3つ目の選択肢は、戦いに突入する前に、真田敦に使者を送り和睦を申し出る事である。

しかし、これも選択肢を選べない。

真田敦は、最初から孫権をぶっ殺す(孫呉を滅亡においやる目的)、北伐を開始しており、和睦などとゆうふざけた話に乗るわけもない。

それどころか、使者を招き入れて交渉をする振りをして、全軍に総攻撃を仕掛ける事もやりかねない。

つまり、目先の利益を優先して、蜀の劉備との同盟を破った呉の孫権には、天罰が下るのが天命だったのであろう。

開戦からわずか半刻あまりで、呉の前線は全滅をする。

呉の陣形に対して大砲をぶっぱなし、更に鉄砲による遠距離攻撃を続ける真田敦に対して、弓矢、槍隊などで、守りを固めるしか戦術を用いれない呉では、差がありすぎたのである。

後方の本陣にいる孫権は、早期撤退を命令。

本陣に残っている軍勢から、長江に停泊している船に次々と兵を乗せ始め、中陣を守っている軍勢も、徐々に長江の船の元に退却を始めさせる。

しかし、最前線の将軍及び兵士達は、数人を残して皆殺しにされていた。

名を上げれば、馬忠、朱然、韓当などである。

甘寧は、中軍の総大将であることから、殿をやることになる。

真田軍に武器を捨てて降伏を申し出ても許させれず、怪我をして逃げられない状況でも、無惨に殺される。

それだけ、真田敦の孫権に対する殺意が高かったのである。

その真田敦達が、中軍を率いている甘寧の元にたどり着いたときには、呉の軍勢は船に乗り込みを完了しており、夏口に向けて撤退をしていた。

つまり、甘寧は最初から捨て駒にされたのである。

いや、船は数隻残されていたから、甘寧も撤退をしようと思えば出来たのである。

しかし、戦わずに逃げる事をするのは、甘寧のプライドが許さなかったのである。

そして、残された退却用の船の総大将をしていたのは、病を押して出陣をしていた呂蒙である。

だが、この2人が命を懸けて孫権を逃がしても、夏口方面には、真田夕夏の軍勢が待ち構えている。

たしかに、呉の水軍の強さは分かっている。

しかし、普通の船で呉の水軍に対抗するとは、最初から考えているわけではない。

なんと、8隻の鉄甲船も、この時代にタイムフリップをしていたのである。

真田水軍を率いるのは、あの大内勝雄であり、スペイン無敵艦隊にひけを取らない、有能な人材である。

もうこうなると、孫権は本拠地まで撤退をするしかないのであるが、その話は後でする事になる。

その甘寧は、大声を出して真田軍に喧嘩を売る。

「おうおう!

見たこともない武器を用いて、戦いをするなんて、卑怯じゃねえか?

男なら、一騎討ちで、勝負をしようじゃねえか!」

その言葉を聞いた真田敦の軍勢は、一斉に大声を出して笑い始める。

「ごみくずが、何か吠えてるぞ!」

「関羽将軍を騙し討ちにしようとした、あのごみくずがか!」

「はえのような、呉の連中が一騎討ちだってよ!」

「身の程を弁えぬ、野蛮人の言いそうな事だよな!」

「弱い犬ほど、よく吠えるんだよな!」

「さっさと、命乞いしてみろよ!」

「いや、火事場泥棒をしようとした事を、今すぐ詫びてみろよ!」

「いや、違うだろ。

皆殺しにするのが、こいつらに対する天罰だろ!」

「そうだそうだ!

こいつらをバラバラにして、長江の魚の餌にしてやろうぜ!」

真田敦の兵士達は、甘寧に向かって、ありとあらゆる罵詈雑言を言い続ける。

元々、短気な性格の甘寧は、この罵詈雑言を前にして、冷静を保てる人間ではない。

むしろ、短気な性格を知っていたから、真田敦の兵士達は、罵詈雑言を並べ立てたのであろう。

「てめえら!

皆殺しにしてやるから、そこを動くなよ!」

馬鹿で短気な甘寧は、回りの兵士達が止めるのを聞かずに、単騎で真田敦の軍に突撃を開始する。

それを見ていた南条勝成は、真田敦より預かった火縄銃を手に持ち、陣の前に進み甘寧と対峙をする。

「無能で暗愚な孫権に仕えた、大馬鹿な甘寧とは、お前の事か?

今からでも遅くはない、速やかに降伏をせよ!

今、降伏をすれば命だけは助けてやる。

悪い条件ではないであろう。

それとも、無様な犬死にを選ぶか?」

南条勝成の言い方に、更に頭に来た甘寧は、大声で返答をする。

「降伏だーーーー?

なんで、敵に命乞いをする必要がある?

てめえらを殺しまくれば、問題ないだろうが!

ごたくはいいから。」

そこまで言葉を吐いた甘寧は、それ以上の言葉を吐けずにいた。

なぜなら、南条勝成が手に持っていた火縄銃が、甘寧の眉間を撃ち抜いたからである。

呉の最強武将と言われた甘寧の、無様な最後である。

同じ頃、呂蒙の追撃をしていた真田敦も、真田水軍を使い呂蒙の退路を封鎖する事に成功。

そのまま、呂蒙が乗る旗艦に突撃を開始。

呂蒙を守るべく、他の船が突撃を防ごうとするも、真田水軍からの大砲による砲撃により、呉の水軍は瞬く間に全滅。

最後に残されたのは、呂蒙が乗る旗艦だけとなる。

「おーおー。

呉の水軍なんて、くそ弱いじゃねえか!

これなら、毛利水軍や、村上海賊の方が手強かったな!」

そう、大声を出して、呂蒙の乗る旗艦に白兵戦を仕掛けるのは、総大将の真田敦である。

真田水軍の兵力は、全軍で約2万。

呂蒙の率いる呉の水軍は、わずか500人足らず。

最初から、勝負にならない戦いである。

呂蒙を守ろうと呉の兵士達は、必死で戦いを続けるも、真田敦の率いる兵力の前に、無様な屍を増やすだけである。

そしてとうとう、呂蒙1人になり、真田敦と呂蒙の会話が始まる。

「呉の大都督の、呂蒙とお見受けする。

我は、天より使わされし、真田敦である。

この国の戦乱を終わらせるべく、この時代に現れた者である。」

ここまでは、丁寧な口調で、呂蒙に話しかけるが、次の言葉は辛辣な言葉を吐き捨てる事になる。

「ところで、てめえは、さっさと死んでくれない?

どうせ、病持ちで数日後には死ぬんだからよ!

俺の手を煩わせるぐらいなら、自らの手で自決してくれね?

どうせ、てめえの仕えている勢力なんて、来年には亡びるんだからよ!

なんでかって?

無能で暗愚な孫権は、夏口あたりでくたばるからだよ!

長男の孫登辺りが後を継いでも、国内の豪族を抑えられるか?

抑える前には、俺が大軍を率いて、攻め込むからな。

呉の水軍は、ここと夏口で全滅。

本拠地に残してある兵力なんて、数万程度だろ?

そんな兵力なんて、この武器で簡単に終わるしな。

だから、自決するか、俺に殺されるか、いい加減好きな方を選べよ!」

まさに、孫呉を嫌い抜いている真田敦の、本心からの言葉である。

その真田敦に対して、呂蒙も悔しさを滲ませながら反論をする。

「そなたが何者かは知らぬが、わが主を無能で暗愚な君主と言われる筋合いなどない。

この乱世を終わらせるだと?

馬鹿も休み休み言え!

ここで余が死んでも、心は呉に帰り、呉の守護神として呉を守るわ!

それに、孫呉には、多くの逸材が残っている。

そんなに簡単には、孫呉を滅ぼせると思うな!」

呂蒙の返答に、呆れた顔をしながら、真田敦は返答をする。

「こいつ、正真正銘の馬鹿であるな。

心は呉に帰り、守護神として呉を守る?

意味不明な事を、言われても困るわ!

それに、意気揚々と関羽討伐に来ていながら、俺様の軍勢に対して、ろくすっぽ抵抗も出来ずに一方的に負けている孫呉が強いとでも?

無知はここまで極まると、大局を見れない者か。

もう飽きたから、ここで死んでくれや!

てめえの死体は、長江の魚の餌にしてやるからよ!

あの、甘寧と同じようにな!」

そう、呂蒙に返答をすると、真田敦は腰の刀を抜き、呂蒙に素早く近付くと、横一直線に刀を振り抜き、呂蒙の首を空に飛ばす。

病に侵され、立ているのがようやくの呂蒙には、真田敦の攻撃を防ぐ力は、最初から無かったのである。

甘寧、呂蒙の呉の重要人物をぶっ殺した真田敦は、麦城に立て籠っていた関羽の元に使者を送る。

そこで、益州に関羽将軍及び、生き残り配下の者達を、益州に送り届ける事で話し合いを終わらせる。

関羽にしてみれば、荊州南郡を失った事で、大きく失望をする事になるが、益州を支配している劉備の元に帰れるとの気持ちを持ち、真田敦の軍勢に守られながら、白帝城に辿り着く。

関羽将軍達を、白帝城に送る手配を終えた真田敦は、1度江陵城に入城をし、荊州南郡の守備を固めてから、さらなる北伐を開始。

北の襄陽と、樊城を魏から奪い取るべく、進軍を開始する。

それと同時に、許都の漢の帝である劉協に、ある一文を奏上をする。

内容を簡潔に書けば、交州、荊州、揚州牧を要求する見返りに、漢王朝の復興に力を尽くす、漢王朝に対する叛逆者(曹操と、江東の蝙蝠野郎の討伐許可)を、求めたのである。

劉協は、この奏上書を読むなり、さすがに悩み込んだのである。

(漢王朝の復興に力を尽くすのであれば、忠義の士であるが、名も知らぬ者からの奏上を真に受けても良いのであろうか?

しかし、朝廷が正式に太守や州牧として任命をした劉ヨウや、王朗達を追放して江東を不法占拠している孫家は、確かに叛逆者である。

更に言えば、荊州牧任命をした漢中王劉備に対しても、卑怯な事をして荊州に攻め入る蛮行を行なったのも事実でる。

今は、曹操を倒せる勢力を味方にするべきであろう。)

劉協は、深い溜息を吐くも、真田敦から奏上された件をすべて容認する。

そして、曹操に知られないように勅使を真田敦の元に出すのである。



その頃、夏口、江夏を攻めていた真田夕夏は、戦闘開始から僅か一刻あまりで、夏口、江夏を落城させていた。

鉄鋼船に搭載をしていた、大砲を使用し、南門の扉を破壊したのち、場内の混乱に乗じて突撃を開始。

江夏の守備を任されていた、孫権の一族である孫郎は、降伏も許されず即座に打ち首。

夏口の守備を任されていた、徐盛も、有無を言わさず打ち首にする。

夏口、江夏の守備を固めた真田夕夏は、長江を下ってくる孫権を迎え撃つべく、長江に鉄鋼船を並べて水路を完全封鎖する。

真田夕夏による長江の完全封鎖が完了した頃、ようやく麦城攻めから命がらがら逃げ出してきた、孫権率いる呉の水軍が目の前に現れる。

水軍大将軍に任命をされていた大内勝雄は、呉の水軍を発見すると、総大将である真田夕夏の元に近寄り、発言をする。

「夕夏様、どうやら前方に見える水軍は、呉の水軍のようです。

こちらから先制攻撃を仕掛け、呉の水軍殲滅をしたいのですが、宜しいでしょうか?」

勝雄からの進言を聞いた真田夕夏は、短く返答をする。

「呉の水軍、すべて殲滅いたせ!」

夕夏より、先制攻撃の許可を得た勝雄は、すべての真田海軍に、先制攻撃を命じる。

「野郎共!

目の前に敵が見えるだろう!

すべての船を沈め、乗組員を殲滅しろ!

誰一人、捕虜にするな!

降伏も許さぬ覚悟で殲滅しろ!」

水軍総大将である、大内勝雄からの命令に、真田水軍の兵達は、短く返事をすると、左舷に取り付けてある、約500門のカルバリン砲を勢いよく放つ。

カルバリン砲の射程距離と、呉の水軍の距離を十分に考慮し、命中すれば大破、それたとしても、呉の水軍の動きを鈍くできると読んでの事である。

孫権の方は、麦城攻めから、無様な撤退を強いられただけではなく、退却経路にも大型船が長江を封鎖しているだけではなく、常識では考えられない距離からの攻撃に慌てていた。

「ちょ、長江を封鎖する程の水軍に、あんな距離からの攻撃だと!

なんとしてでも、長江を抜けて建業に撤退をする!」

孫権の言葉を聞いた陸遜は、冷静に戦場を見渡し、敵中突破は事実上無理は判断。

対岸の陸口に上陸をし、陸路から建業に撤退をするしかないと判断。

敵の動きを見るに、攻撃力は高いが、船の大きさ故に、旋回能力と機動力に欠けると見ていた。

風を上手く使い、敵が追撃をする前に、陸口に即座に撤退をするのが上策である。

しかし、そんなに簡単には退却を出来るとは思ってはいない。

ここに、周瑜か、魯粛、呂蒙の誰かでもいれば、状況を変えられたかもしれない。

しかし、周瑜、魯粛、呂蒙は、既に故人である。

陸遜程度の人物では、真田夕夏の敵ではない。

そして、呉の水軍がわずか数刻で壊滅。

孫権は、命からがら、建業に退却をするも、その建業は元の姿を想像出来ないほど破壊をされていたのである。

交州より出撃をした、大内勝雄率いる真田水軍が、江夏、夏口を攻撃する前に建業に進撃を開始。

100門を越える大砲の集中砲火により、建業の守備兵力は全滅。

宮殿は炎上し、蓄えてあった銭、兵糧や宝物などは、すべて略奪をされ、住民は呉郡や会稽方面に逃げるか、捕虜となり江夏や夏口等に連れていかれたのである。

それでも、いつまでも嘆いている孫権ではなく、勢力の建て直しを計画するも、それも叶わぬ夢であった。

夏口、江夏を攻略した真田夕夏と、襄陽、樊城を攻め落とした真田敦は、襄陽にて漢帝からの勅使を迎えていた。

劉協からは、奏上文が全て容認されたと知り、真田敦は大喜びである。

荊州、交州、江東の三州の牧となっただけではなく、叛逆者討伐の勅命も受けたからである。

大義名分を手に入れた真田敦は、心の中で悪魔の顔になっていた。

なぜなら、蝙蝠野郎を正々堂々とぶっ殺せるから、その気持ちを抑えきれないでいたからである。

すぐさま、蝙蝠野郎討伐の為の、戦の準備を開始するように命じると共に、どの経路を使い蝙蝠野郎を滅亡させるかの軍議を開くのであった。



孫権が建業に撤退をしてから、わずか2ヶ月あまりで、真田敦率いる真田水軍が建業に進撃。

真田夕夏は、兄が江東征伐に向かったので、兄の代わりに襄陽より北伐を開始し、宛城を攻略中である。

更に不幸は続き、山越族が真田敦に味方をし、会稽郡に攻め寄せる有り様である。

この一連の動きに、魏の曹操は動く事は出来なかったのである。

曹操は重い病になっており、皇太子の曹丕が政務を取り仕切るとも、領内の日照りや洪水、先年の樊城の救援失敗等の失策により、わずかながらも国力の低下を生んでいた。

そして、西暦220年3月に曹操は死去。

国葬が魏にて行われている最中に、とうとう建業が落城。

あわせて、宛城も落城となり、呉の滅亡と魏の領土消失とゆう、天下を揺るがす事態となる。

その状況を喜んだのは、蜀の劉備である。

荊州を呉に奪われたが、関羽を筆頭に荊州の人材はほぼ無傷で成都にいるからである。

参謀の諸葛亮は、この状況を逃がすことなく、漢中より北伐を開始。

元々、馬超が支配をしていた西涼を支配するべく、約5万の兵力を率いる。

全国で色々な事が起きている最中、建業にある宮殿の大広間にて、孫一族を全て捕らえた真田敦は、上機嫌で孫権と会うことになる。

「くっくくくく!

無様な姿よな、孫権よ!

蝙蝠ごときが、私に逆らった事が、すべての過ちである!

貴様をこれから裁判にかけて、叱るべき罰を与えてやる!」

そう言い渡されている孫権は、両手を後ろで縛られ、口には猿轡をされ、身動きするどころか、喋る事すら許されていない。

上機嫌の真田敦は、孫権の罪状を高々と述べ始める。

「最初の罪状は、同盟国の無防備な背後を襲い、領地を奪おうとした事である。

犬畜生にも劣るこの罪は、決して許しがたい!

だいたい、荊州は劉備が自力で手に入れた土地。

貴様如きが、大義名分もなく荊州を返せと抜かすな!

二つ目の罪は、宴会にて家臣に無理やり酒を強要した事である!

このような罪は、人間として最低最悪の罪である!

三つ目は、無能の癖に、家臣に無理難題を押し付け、多くの家臣の健康状態を悪くした罪である!

主君たるもの、家臣に対して時には優しく、当時は厳しく当たらなくてはないない!

それなのに、家臣の健康状態を悪くするのは言語道断である!」

そこから、真田敦は、約20の罪状を述べ、孫権一族に対して皆殺しの裁きを申し渡していた。

もちろん孫権も、首を動かしたり、猿轡の状態から反論を言っていたのであるが、そのたびに太い棒で孫権の顔や背中を叩きつけていた。

最後の罪状が述べられた頃には、満身創痍の孫権がおり、もう反論をする体力すら残されていいなかった。

その日の昼過ぎには、建業にいた孫権一族、約700人余りがが次々と首を跳ねられ、死刑が行われていた。

もちろん他の地域にも、孫一族はいたが、別の場所で既に処刑をされている。

1人、また1人と首を跳ねられている姿を、孫権は無理やり見せつけられていた。

真田敦は、今まで見せた事のない、愉悦の顔をしており、狂気に目覚めたかのように、死刑を見続けていた。

真田の家臣達ですら、気分を悪くしたり、吐き気を押さえられない状態になるも、真田敦だけは意気揚々と死刑を続けさせていた。

そして、最後の孫権の番になると、真田敦自らか刀を手に取り、まるで虫けらを殺すかのように、最後の言葉を言い放つ。

「ごみくずの分際で主君になるなど、民が不幸になるだけだ!

てめえの命を持って、民にお詫びをさせなくてはな。

もちろん、てめえの一族の死体は、すべて長江に捨ててやるわ!

墓などすべてぶち壊し、孫一族の記録すらすべて消し去ってやる!

死ねやごみくず孫権!!!」

上段から勢いよく振り下ろされた刀は、一刀両断で孫権の首を切り落とす。

真田敦の最後の言葉の通り、孫権一族の死体はすべて長江に投げ捨てられ、一時期長江の水の色が赤く染まったと記録に残されていた。

過去に徐州にて行われた、曹操の大量虐殺に比べれば遥かに規模は小さいが、この事により孫呉は地球上から消滅をし、後に編纂をされた正史にすら、漢王朝に対する叛逆者一族。

そして、聖帝と記された真田敦により、天に逆らいし愚か者の代表として、一族全てを皆殺しにされた。

それだけの文章が、記録はとして残された。

そして、魏、真田、蜀による三国時代の幕開けとなるのである。



西暦220年には、曹操の跡を継いだ曹丕は、劉協から帝の位を簒奪。

魏武皇帝を名乗るも、それを知った真田敦は大激怒。

すぐさま、魏討伐の北伐を開始する。

洛陽を攻め落とす軍勢の総大将は、真田夕夏。

真田敦は、建業の名前は気に入らぬと言い、新しく東都と名前を変えた。

そして、東都より合肥に向けて北伐を開始する。

それと同時に、蜀の劉備も漢中より北伐を開始する。

真田と、蜀の軍勢は、魏を滅ぼすべく、改めて同盟を結び、漢王朝復興を名目にしていた。

まぁ、真田敦の本心は、魏蜀を滅ぼし、自らが皇帝になる事が夢である為、表向きは漢王朝復興を口にしているだけである。

一方、その報告を受けた曹丕は、諸葛亮の北伐を防ぐために、曹真、曹休、張コウ等一流の人材を長安に派遣。

参謀として、司馬懿を始めとして、追加で長安に派遣。

真田敦に対しては、曹丕自らが親征を行い合肥に向かう。

長安方面の戦いは、一進一退が繰り返され、なかなか決着が付かなかったのに対し、合肥での戦いは一方的であった。

兵力では曹丕が圧倒的に有利なのだが、君主や指揮官の能力の差が開きすぎていた。

そして、武具の性能の差も歴然であった。

曹丕は、合肥攻防戦の疲弊により、合肥の防衛を諦め退却を余儀なくされた。

出陣前には40万を越える兵力が、僅か2ヶ月の戦争により、真田敦の攻撃に対応可能な兵を10万を切る程まで、減らされる事になる。

曹丕は、予州まで引き上げて改めて防衛ラインの構築を検討していたが、真田敦の激しい追撃により、許都や洛陽の防衛を放棄し、河北4州で防衛ラインの構築をせざるを得なかった。

一方、真田敦の方も、負傷兵の多さや、補給ルートの再構築に時間がかかり、予州、司隷を支配下に置いて、内政のやり直しに時間を費やす事になる。

だが、長安防衛組は、後方の拠点陥落により、補給ルートが塞がれた事と、曹丕との連絡手段の壊滅により、長安を放棄して河北に退却を余儀なくされた。

その退却ルートは、洛陽の北側から并州に退却をするのであるが、当時はそこには道とゆう道はなく、森を切り開き、兵糧が尽きたときには野生動物を狩り兵糧にする、死の行軍であったとうゆう。

30万を越える兵力が、并州にたどり着いた時には、20万を切るという有り様であった。

もちろん、長安を陥落に追い込んだ諸葛亮の追撃もあったのであるが、やはり道なき道を進んだ行軍ルートが、被害の損害を大きくしたのであろう。



西暦221年には、曹丕は各戦線の放棄を決断。

真田敦も、蜀の劉備も、国力の限界前に魏と停戦をする。

そこから約2年あまり、魏、真田、蜀の三国とも緊張感を保ちつつも、戦争が起きる事は無かったのである。

やはり、民心の回復及び、再軍備に時間を費やさなければ、戦争の再開など出来る状態ではないのである。

だが、真田敦はそれで満足をしていたわけでは無かった。

西暦223年6月。

魏の領土は、冀州、幽州、并州、青州の4州を支配。

蜀の領土は、益州、西涼を、支配。

真田敦の領土は、荊州、楊州、予州、徐州、司隷、エン州を支配。

2年前の北伐の成果は、ここまで影響を及ぼしていたのである。

洛陽許都の治安安定と、補給ルートの再構築を無事に終え、改めて曹丕との決戦を考えており、総勢80万の軍勢を集めると、洛陽から併州に向けて約10万の兵力にて北伐を行い、許都から冀州に向けて約30万の兵力にて北伐を開始。

残された約40万の軍勢は、徐州から船を使い遼東地域に上陸をし、東方から西方にある幽州に進軍をする予定である。

遼東からの進軍は、曹丕には絶対に悟られてはいけない作戦であるために、季節の風向きなどを考慮してからの、出陣になる。

一方曹丕も、黙っている訳ではない。

兵を鍛え、民心を安定させ、城壁や砦の修復、人材育成や登用などを、積極的に行っているからである。

司馬懿は、真田敦と対峙する為に、約20万の兵力を率い、洛陽奪還に向けて進軍を開始。

曹休は東の公孫淵の協力を得て遼東方面を守備する為に、5万の兵力を率いて幽州から出陣。

曹丕は、幽州に残り予備兵の訓練と、補給路の確保の為に、道の整備などを行う。

しかし、もう既に手遅れと言えた。

真田敦は、黄河に沿って大軍の船を率い、河北に攻め入る。

遼東の公孫淵は、真田敦の軍事力の前に降伏。

曹休を遼東に引き寄せて、一気に壊滅に追い込む為に曹丕に協力お願いしていたのである。

并州では、鉄砲と大砲による一方的な戦いとなり、曹仁や、曹真などの武将達は全員討ち死に。

約2万の降伏した兵達は、数日分の兵糧を渡されて故郷に帰る事になる。

并州を支配下に置いた大内勝雄は、そのまま并州に居座り民心の安定と、動かぬ軍事力を用いて、幽州にプレッシャーを与える。

東の遼東においては、開戦と同時に公孫淵の裏切りが勃発。

総大将の曹休は、公孫淵の軍勢を迎え撃つ間に、真田夕夏率いる騎兵2万に押し潰され、曹休も首を刎ねられる。

一方的な虐殺を前に、魏の兵士達は次々と降伏を申し出る始末。

中には、上官を殺して、その首を献上して降伏を申し出る有様。

曹操が築き上げた魏は、風前の灯火になりつつあった。

さて、黄河挟んで真田敦と司馬懿の戦いはと言うと、お互い小競り合い程度の戦しかしておらず、一進一退を繰り返すだけである。

真田敦にしてみれば、ここで無理をするよりも、妹の夕夏や勝雄達が、後方を荒らしてくれれば良いのである。

上手く補給路の占拠に成功をすれば、飢えに苦しむのは司馬懿の方であるからだ。

司馬懿の方も、決戦を挑みたくても、挑めない理由がある。

そう、真田敦の装備品に対する備えが出来ていないのである。

鉄砲や大砲など、この時代には存在しない武器を相手に、どうやって勝てと言うのか。

司馬懿の頭痛の種は、それだけではない。

主君の曹丕からは、洛陽を奪還せよだの、配下達からは戦をしない臆病者呼ばわりされるわ、真田敦からは司馬懿に対する弾劾書と女物の衣類を贈られるわで、寝付けぬ毎日を過ごしていた。

真田敦と司馬懿が対峙してから、1ヶ月が過ぎた頃、幽州より緊急の使者が司馬懿の元に訪れる。

それは、幽州の陥落と、曹一族の皆殺し、そして皇帝である曹丕の遺体をここに運ばれて来る報告である。

曹丕が籠もる本拠地に、真田夕夏が率いる軍勢が襲いかかり、大砲の前に城門や城壁は意味をなさず、圧倒的な数の前に魏軍はまたたく間に壊滅。

皇帝である曹丕は、15の罪状を言われたあとで、全身を細かく切り刻まれた後で、塩漬けにされた後に木の棺桶に入れられ、司馬懿の元に送り付けてるく有様。

それを見た司馬懿は、顔が真っ青になる。

幽州、并州、遼東が落ち、青州も攻められているであろう。

残った領土は、冀州のみと考えるべきであろう。

こうなると前進するも後退するも、地獄である。

籠城は下策、とどまるも下策、残りは前の敵を蹴散らし、返す刀で幽州と、并州を取り返すしかない。

だが、慎重に慎重な策しか選択できない司馬懿には、その決断は荷が重すぎる。

そんな時、真田敦から木簡が届いたとの知らせが入る。

苦虫を潰した顔をしながら、司馬懿は木簡に目を通す。

そこには、話し合いがしたいので、面会をしたいとの申し出が書いてあった。

司馬懿は、兵を整えて万全の準備をしてから、真田敦と対面をする事になる。

「逆賊の、真田敦はおるか!

司馬仲達、逃げも隠れもぜずこうして出向いたぞ!」

司馬懿の声が、戦場に響き渡ると、一人の武将が馬をゆっくりと歩かせて司馬懿と対峙をする。

「漢の忠臣にして、荊揚交牧を任されておる真田敦である!

逆賊の、司馬仲達であるか!

面会が出来た事を、嬉しく思うぞ!」

そう言いつつも、真田敦の顔は羽扇に隠れており、顔から心を読めないようにしている。

「早速で悪いが、お主達は漢の帝の勅命により、ここで死んでもらうわ!

先にくたばった、曹丕の後を追い潔く首をはねられよ!

逆らうのであれば、この世の苦痛を与えながら、苦しみながら死ぬが良い!」

真田敦がそう言い放つと、顔色を変えずに、司馬懿が反論を試みる。

「何が、漢王朝からの勅命だ!

既に、漢王朝から魏王朝に、禅譲の儀式により変わっておるわ!

なんの意味もない勅命など、天に向かってつばをを吐く行いであるぞ!」

司馬懿も負けじと、真田敦に罵声を飛ばす。

「なにが、禅譲にて譲り受けたと抜かすか!

貴様らのした事は、禅譲ではなく簒奪ではないか!

簒奪者の曹丕は既に死し、残る逆賊は貴様らだけである!

この大地を貴様らの薄汚い血で汚すのは心苦しいが、漢王朝復興の為に、心を鬼にして逆賊を伐ち果たすわ!」

正直、漢王朝復興と言う大義名分は、建前である。

自らが皇帝になり、漢王朝に変わり新しい王国を造る事が、真田敦の本心である。

だが、その野望を今出すわけには、行かないのである。

魏を滅ぼし、蜀の諸葛亮が死ぬまでの間、その野望を隠し続けなくては行けないのである。

諸葛亮が真田敦の野望を知れば、魏を滅ぼす前に刃を向けてくるのは明白だからである。

「司馬懿、もう貴様と会話をするのも飽きた!

天の裁きを受ける前に、余が貴様を殺してくれるわ!

真田砲兵隊、司馬懿の軍勢に砲撃を開始せよ!

この戦いにて魏を滅ぼし、漢王朝の復興をなせ!!」

真田敦の号令により、200門のカルバリン砲が一斉に火を吹く。

司馬懿は、砲撃が自軍に届く前に、突撃命令を下す。

司馬懿の子供や、夏候淵の子供達の、夏候覇や夏候恵達も馬に乗り、真田敦の首を狙い、懸命に馬を走らせる。

真田敦は、砲撃に巻き込まれる前に自陣に戻り、全軍の指揮を取る。

「勝成は、敵の前線を食い止めよ!

真田騎兵隊は、敵の左右に回り込み、外側から少しづつ攻撃を加えよ!

敵は補給の途絶えた、手負いの虎である!

決して深追いせず、適度な距離を保ちつつ敵を殲滅せよ!

いずれ、夕夏や勝雄達が背後を突く!

その時こそ、魏を滅亡に追い込む時である!

命を惜しむな!名を惜しめ!真田軍の威名、天下に示せ!」

司馬懿の軍勢は、砲撃を恐れず突撃を繰り返し、真田敦の軍勢は、砲撃や鉄砲を絶え間なく撃ち続け、応戦をする。

時には真田敦が自ら最前線に立ち、槍を振るい兵を鼓舞しながら、大量の返り血で白銀の鎧をどす黒い血で染めていく。

司馬懿は、火矢を放つように命じると、1000本を超える火矢が放たれ、地面に火矢が突き刺さると、突然地面から火が立ち上がる!

どうやら事前に、地面に油を撒いていたようであり、黒煙が天まで届くぐらいに高く上がる。

その時、真田軍の左右から、司馬懿が潜ませていた軍勢が、森の中から現れ真田軍を包囲するように襲いかかる。

「ふん、伏兵とは少数が大軍を相手にする、古典的戦法でしかない!

そちらが伏兵を使うのであれば、こちらはこれを使うわ!」

真田敦は、本陣に作らせていた狼煙を上げると、今度は司馬懿の背後から、真田の旗印を大量に掲げた大軍が現れる。

その軍勢は、幽州から真田夕夏、青洲より大内勝雄等である。

「今こそ、魏を滅亡させる絶好の機会!

皆の者、持てる力を振り絞り、敵を殲滅せよ!

命を惜しむな!名を惜しめ!

我が兄の野望を、ここで為せ!」

真田夕夏は、幽州に僅かな守備兵を残して、長駆冀州に強襲を仕掛ける。

「てめえ等、俺達の大将の前でみっともない姿を見せるなよ!

生き残ったものには、莫大な恩賞を与え、運悪く討ち死にした者にも、家族に恩賞を取らせる!

天下分け目の戦いで、槍を振るい、弓を放ち、鉄砲で敵を打ち滅ぼせ!

先ずは、右側の伏兵を叩き潰せ!」




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