二宮家の事情
「真織と俺は、血の繋がらない親子だ」
「なっ――!?」
「俺が真織の母親……真理に出会った時には、すでに真織は生まれていたからな」
そう言葉を途切らせ、直弥はゴソゴソと背広の内ポケットを探り、目当てのタバコを取り出すと、一本を口に咥え、慣れた手つきで火をつけた。
ふぅ、と、白い煙が風に乗って消えた。
二人の間に走る沈黙を誤魔化すように吐かれたそれは、緒凛の鼻をくすぐる。
「お前はもう知ってるんだろ? 真織の母親がどういう奴か」
「……はい。二宮真理……旧姓、足立真理。医療薬研究医の第一人者とも呼ばれた頭脳明晰な女性。数々の名医療薬を生み出すも、十数年前に失踪。その後行方知れずのままになっていると……」
緒凛がそう静かに漏らせば、直弥は小さく頷いて遠くを見た。
「真理はな、失踪する直前、癌治療薬の開発に携わっていた。癌治療薬は世界中の人間が、ずっと待ち望んでいる治療薬だ。真理は出資者との考えの不一致から、完成直前のそれを持って失踪した」
「何ですって!?」
淡々と述べられていく真実に、緒凛はただただ驚きを隠せなかった。
癌治療薬と言えば、世界的な開発プロジェクトだ。
今まで癌を治療する方法は手術にて癌が転移したところを取り除く方法が主だ。
癌の抗生剤はあるにしても、癌を完璧に消し去る薬はいまだ完成していない。
そんな薬を完成間近で持ち出したとは、よほど出資者との折り合いが悪かったのだろう。
驚く緒凛を横目に、直弥は続けるように言った。
「真織の本当の父親に関しては俺もまったく知らない。真理は頑として口を割らなかった……。そして、いつしか真理の持ち出した癌治療薬は狙われるようになった。癌治療薬は世界人類の希望だ。それを売れば巨万の富を得ることができるからな」
直弥はそう言って静かにタバコに口付ければ、タバコの火はジリジリとタバコを燃やしながら直弥に近づいてくる。
緒凛はその言葉を聞き、新たなる疑問が浮かび上がり、率直に尋ねた。
「では……今、真理さんは? 癌治療薬はどうなったんですか?」
当然の質問だった。
真織の口から聞いた話では、母親は父親である直弥の作った借金を苦に逃げ出したと言っていた。
けれど借金の話は、直弥がでっち上げた架空のものだ。
なぜ、真理は真織を置いて出て行ったのか。
「簡単な話さ……。真理は死んだ」
「――っ!?」
「治療薬を狙ったどこの誰かも知らん奴に……雇われた殺し屋に殺された。治療薬もその時に奪われてしまったんだよ」
「じゃあ、治療薬は……」
「行方知れずだ」
直弥は吐き捨てるようにそう言うと、まだ半分も減っていないタバコを足元に落とし、靴の裏でもみ消した。
「真織の傷はその時できたものだ。真理は真織をかばって腕の中に隠したが、真理の心臓を貫通した銃弾が真織にあたった。幸い、真織に命の別状はなかったが、真理は即死だった……」
切なげにそう呟き、ゆっくりと立ち上がった直弥の瞳が揺れた。
「わかるか? 真織は自分の母親が死んだのを目撃したんだ。幼い真織には、あまりにも強すぎる現実……。目を覚ました時には何一つ覚えていなかった。母が死んだことを忘れてしまったんだよ」
「じゃあ……真織が自分の傷を花火でできたものだと思い込んでいるのは……」
「現実を伝えるのにはあまにも辛すぎる。だからとっさに嘘をついたよ。そして……母親がいなくなったことに疑問をもった真織に、俺には借金があって、真理はそれを苦に逃げ出したと言ったのもそのためだ。咄嗟に付いた嘘が、まさかここまで引きずるとは思わなかったがな」
何を、どう理解すればいいのかわからなった。
理解はできているはずなのに、簡単に納得ができていない。
気持ちがついていかないのだ。
そう考えると、真織は自分の母親が死んだことを知らずに生きてきた。
自分の記憶が欠落して、その為に自分が苦労してきたと知ったとき、彼女はどうなってしまうのだろうか。
緒凛が言葉を失っていると、直弥は緒凛に向かい合うようにたった。
「奪われた癌治療薬のことだがな。アレは簡単に手に入らないようになっている。奪われてから今までの期間、そんな大開発が表沙汰になっていないのだから、わかるだろう」
「手に入らないようにとは……奪われたものは癌治療薬ではないのですか? 」
「癌治療薬の入った箱さ。箱はダイヤモンド製の合金でできた箱だ。密閉されて隙間もほとんどない。無理に開けようとすれば爆発する仕組みになっている。壊そうとも壊せないし、爆弾で爆発させようとすれば中の治療薬も木っ端微塵に吹き飛ぶ。箱を開けるにはただひとつ、暗証番号が必要なんだ」
「暗証番号……?」
「暗証番号は真理が定期的に変えていたから、俺も知らない。真理はこの世から居なくなった。暗証番号を知るものはただ一人……」
そう、言葉を切って、答えを求めるように緒凛を見つめれば。
緒凛はすぐに何かを悟り、大きく目を見開いた。
「……まさか……真織が……?」
緒凛の回答に、直弥は顔色ひとつ変えずに小さく頷いた。
「まだ小さかった真織に、暗証番号を教えたらしい。実際、一度記憶障害を起こした真織が、今もそれを覚えているとは考えにくい」
直弥はそう告げると、深くため息をついてようやく余裕のある笑みを見せながら緒凛に言った。
「これが真織の知らない真実だ。真織が暗証番号を覚えているにしろ覚えていないにしろ、狙われることは確実だ。今まで平穏に過ごしてきた事の方が奇跡だった」
直弥はそう言って、綻びる桜の木を見上げ、慈しむように目を細めた。
「君は有名すぎる。そんな君の隣に、真織を置いておくわけにはいかない。君が真織と過ごす時間を俺から買い取ったところで、真織が君を愛することになっても、狙われている以上、君の元には置いておけないんだ」
苦しそうに、辛そうに呟いた直弥の言葉に、緒凛は胸が締め付けられた。
自分の我侭から叶った真織との過ごす日常。
借金の肩代わりと称して、真織の時間を直弥から買い取った。
四ヶ月という期間の間に、真織の口から好きだと、愛しているという言葉を聞き出すことができれば、真織との交際を認めてくれると直弥は言っていた。
けれど、この事実を知って、それでも真織を手元に置いておけるだろうか?
真織の命を危険にさらしてまで、自分の我侭を通すことなど、できるはずもない。
限界が来た――緒凛はそう感じた。
真織は父親の本業を知らないが、あれほど父親を大切にしていたのだ。
きっと受け入れてその生活に慣れていくだろう。
いくらヤクザ組とは言え、真織の身の危険を考えると、そちらのほうがまだ安全に過ごすことができるはずだ。
深々と、直弥が緒凛に頭を下げた。
その突然の行動に、緒凛が戸惑えば、直弥は顔を上げないまま緒凛に告げる。
「真織を返してくれ」
はっきりと言われた言葉に、緒凛は頭を鈍器で殴られたような衝動に駆られた。
離したくない。
離れたくない。
けれど、愛する者を想えば、自分がどうすべきかは目に見えている。
緒凛は頭を下げる直弥を見ないように、目をそらしギュッと閉じた後――。
静かに直弥を見つめ、震える声で言った。
「わかりました……今日……真織に話をつけます……。明日の早朝……迎えに来てあげてください」
緒凛の言葉に、直弥はゆっくりと頭を上げた。
切なげに、苦しそうに、今にも泣き出しそうな緒凛の表情を見て、直弥はぎゅっと手を握り締めた。
「色々世話になった挙句、こんな仕打ちですまない……」




