花見の悲劇
時刻は夕方六時を差していた。
この季節にもなれば、この時間帯はまだ明るみを帯びている。
真織はようやく読み終えた本をパタリと閉じ、時刻を確認しながら晩御飯の準備を始めようと、ソファから立ち上がった時だった。
真織の携帯が鳴った。
真織はゆっくりと手にとれば、静かに通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし、真織。緒凛だが……今何していた?』
「今? 本を読み終わって、今から晩御飯を作ろうかと思っていたけれど?」
『作ってしまったのか?』
「ううん、まだ本当に全然作ってないよ」
『そうか……なら外に出てこないか? 今駐車場に居るんだが降りて来い』
「どこかに食べに行くの?」
『近くの商店街で惣菜をいくつか買っておいた。時期外れだが花見をしよう』
穏やかな緒凛の声に、真織は顔を綻ばせた。
以前、真織が緒凛の運転する車の窓から桜が満開になっているのを見て喜んでいたところ、緒凛は二人で花見に行こうと約束してくれていた。
けれど、緒凛は仕事が忙しく、なかなか休めない日々を過ごしているのを知っていたため、無理だろうと諦めていたのだ。
突然ではあったけれど、緒凛がその約束を覚えてくれていた事に喜びがこみ上げていた。
桜など、もうほとんど散ってしまっている。
けれど、緒凛とどこかに出かけられると思うだけで、浮き足立ってしまう。
「うん、行く。今準備してくるから十分ほど待っていてくれるかな?」
『ああ、わかった。夜はまだ冷えるから、温かい格好をしてこいよ』
緒凛の優しい言葉に、真織は頷きながら携帯をたたんだ。
緒凛とどこかへ出かけるのなんてどれぐらいぶりだろうか。
いつも会社に出社しているのとは違う、本当のデートだ。
真織は緩い頬を引き締めながら、バタバタと急ぎ足で準備を始めた。
「ごめん、お待たせ」
真織がそう言って駐車場に降りていけば、緒凛は車の外で、車に背を持たれながら真織のことを待っていた。
真織の存在に気が付き、緒凛は身を起こして真織に歩み寄ってくる。
いつも着ている粗末な服より、少しだけ贅沢に、けれど決して派手なものではない服を身に纏った真織を見て、緒凛は顔を綻ばせながら真織の頭を優しく撫でた。
「真織は何を着ても似合うな」
「……あれ? 何か嬉しくない。それって褒められてるの?」
「当然だろう」
「割烹着を着ていたとしても同じこと言われそうだわ」
「それは凄い。いい主婦になるよ」
むっとした真織に、緒凛がなだめるようにそう言えば、真織はすぐに機嫌をよくしてクスクスと笑った。
「すぐ近くの小さな公園だが、あそこの桜はまだ見頃だった。歩いていける場所だから、歩いていこうと思っているんだが」
緒凛がそう提案すれば、真織はすぐに頷いて緒凛を見上げながら微笑んだ。
「うん、こんな時間になっちゃったけど、まだ明るいし、晴れてるし。歩いていくのもいいね」
真織が快く賛同すれば、緒凛は左手に商店街で買った惣菜の入ったビニール袋を持ち、右手を真織に差し出した。
一瞬、その手を凝視した真織はすぐにその差し出された手の意味を理解した。
戸惑いの色を見せながら、真織はおずおずと自分の左手を緒凛の手に重ねる。
緒凛の大きな手が、真織の手を包むように握りしめると、二人は無言のまま少しだけ照れたように笑いあって、ゆっくりと歩き出した。
繋ぐ手の平に意識が集中してしまう。
話しながら歩いているけれど、会話がほとんど耳に入ってこない。
ゆっくりとした歩調のはずなのに、なんだかもっとゆっくり歩いていたくなるのは、自分だけなのだろうかと真織は頬を赤らめた。
緒凛はいつも通りの態度で、けれどいつもより優しさの方が多く感じられる言葉遣いに、真織も次第に緊張がほぐれていく。
二人は止め処もない話をしながら、目的地に到着すれば、そこはまったくと言っていいほど人気のない、住宅に囲まれた小さな公園だった。
公園の端に見る桜は、幹も太く、これでもかと言うほどにピンク色の花びらを咲かせている。
その下に設けられているベンチは、すでに桜の花びらの座布団がひかれていて、緒凛はそこを手で払いのけると、真織を座らせ、自分の座るところを確保して、隣に座った。
上を見上げると桜の木の隙間から、薄暗い夕日に色をもらった空が見え、遠くにはほんのりと白い月が浮かび上がる。
「綺麗だね」と漏らしながら、緒凛は袋から買ってきた惣菜を取り出し、真織と自分の膝の上に並べた。
コロッケや、ポテトサラダ、変わった具材の入ったおにぎりなんかも出てきた。
緒凛と真織は行儀よく、頂きますと挨拶をしてから食べ始めると、少し冷えてしまっていたけれど、十分においしく食べられた。
「マンションから歩いて十分位のところに商店街があるだろう? 以前、真織が風邪を引いたときに食料調達をしたんだが、あそこは情緒溢れて面白い」
「緒凛があの商店街に行ったの?」
似合わない、といったように真織が驚けば、緒凛は真織の気持ちを察してか、苦笑いを浮かべながら真織に言った。
「俺も自分で似合わないと思ってるんだから、露骨に顔に出さないでくれよ」
「え? ば、ばれた?」
「真織は顔に出やすいな。チョウとオセロした時、負けっぱなしだったんじゃないか?」
「えっ!? 何でわかるの!? って、私そんなに顔に出やすいかな?」
「結構出てるぞ」
そう言って、緒凛は真織が手にもっていたコロッケに視線を落とし、真織の腕をぐいっと引っ張ってそのコロッケにかじりついた。
「あー! 自分の食べてよぉ!」
「人の持ってるものの方が美味そうに見えることないか?」
「正当化しようとしないでよっ」
もぐもぐと食べながら緒凛が言えば、真織はぷくっと頬を膨らませて怒り出す。
緒凛はそんな素直な真織の反応にクスクスと微笑みながら自分の取り分だったから揚げをひとつ、箸につまんで真織に差し出した。
「ほら、食え」
「え?」
突然のことに、真織がギョッとしていれば、緒凛は問答無用とばかりに真織の唇にから揚げを押し付ける。
真織は仕方なしに口を開いてそれを受け入れれば、柔らかな肉質のから揚げの味が口の中に広がった。
――幸せだった。
何気ない会話と、緒凛にとっては粗末な食事だったのに、場所を変えるだけでこんなにも楽しめるものかと真織は思った。
いつの間にか、辺りは暗くなり、公園に備え付けられている街灯が二人を照らした。
満腹感を感じながら、他愛もない会話をしては、ふとした沈黙に二人で桜の木を見上げる。
来年は……と、考えたところでやめた。
来年などないのだとわかりきっているからだ。
そう考えただけで胸が締め付けられ、今の幸せがずっと続けばいいのにと願う反面、そう思ってはならないと自分を叱咤する。
ふと、緒凛に視線を向ければ、緒凛はずっと自分を見ていたらしく、こちらを向いていることに気が付き、胸をドキッと弾ませた。
「真織……」
「え……? 何?」
いつもより神妙な面持ちをしている緒凛に、真織は不安と期待が胸の中に溢れてくる。
何を、言われるのだろうか。
真織が緒凛の次の言葉を待っていると、緒凛は戸惑うように視線を泳がせ、それから静かに口を開こうとした時だった。
「――二宮真織さんですね?」
ふと、第三者の声が聞こえたかと思うと、真織の体は後ろに引かれた。
叫ぶまもなく真織の体は見知らぬ男の前に立たされ、両手を自分の背中で拘束される。
「真織っ!」
突然の出来事に、緒凛が立ち上がろうとすれば、複数人の黒いスーツにサングラスを身に纏った男達が囲い、真織との距離をとった。
「やっ……何っ!? 緒凛っ!」
暴れてもビクともしない自分の体に、真織は後ろにたつ男を見上げた。
ガタイのいいその男は、真織をギラリと獲物を狙う肉食動物のような目で見つめ、にんまりと笑みを浮かべる。
背筋にゾッと寒気を走らせ、再び緒凛を見た時、あからぬ方向に一人の男がはじき飛ばされたのを見た。
緒凛はギッと目の前に立つ次の敵を見ると、殴りかかってくる男の手を払いのけ、勢いよく脇に蹴りを入れる。
が、相手もそれ相応な技術の持ち主らしく、後退しながらそれを避ければ、すぐに別の男が緒凛に立ち向かっていく。
けれど、最後までそれを見届けることもできず、真織は白いハンカチを口元に当てられると、そのまま意識を手放した。
「真織っ!」
ふと、真織が意識を手放したのに気を取られ、緒凛は後ろから羽交い絞めにされた。
「――っ!?」
力をこめて振り払おうとするも、他の男も手伝って、緒凛の身動きを封じると、後ろから白いハンカチを口元に当てられ、緒凛はしまったと顔をゆがめた。
真織が連れ去られそうになっていたのが災いして、興奮していた緒凛は勢いよくその薬臭を吸い込んだ。
緒凛を羽交い絞めにしていた男が手を離せば、緒凛の体は無情にも地面へと倒れ込む。
男達は緒凛のその反応を見て満足し、顔を見合わせると公園の入り口に止めてあった黒い車三台にそれぞれ乗り込んで、立ち去っていった。
薄れいく意識の中で、緒凛は三台のナンバーを必死に記憶した。
「くそっ……真織っ……」
思うように動かない体に、緒凛は必死に地面に爪を立てて今にも追いかけようと努力する。
地面にこすれたことで指先の皮が剥け、血が溢れ出しても、緒凛を襲う眠気は追い払うことができない。
「真織っ……真織っ……」
守りきれなかった自分の愚かさを呪いながら、砂利を握り締めれば、チクリと痛みを感じ、重いまぶたを精一杯押し上げて手の平を見る。
ガラスの鋭利な破片が握り締められていた。
緒凛はそれを迷うことなく握り締め、手の平を切りながらそれを振り上げて自分の二の腕に突き刺した。
一回、二回、三回、と何度も同じ場所を刺し、ようやく去っていった眠気に感謝しつつも、麻痺をした体を震わせながら起こせば、腕から大量の血が流れ出した。
息のあがる中、ようやく取り出した携帯を、血だらけにしながら電話を掛ける。
何度呼び出し音が鳴っても、出ない相手に苛立ちを感じながら、緒凛はおぼつかない足取りで公園の外を目指した。
『はい』
「と……ご……っ!」
『もしもし? 兄さん? どうかしましたか?』
「……れた……やられたっ! ……りが……真織が誘拐されたっ!」
『なんですって!?』
「すぐにアイツ等を実家にかき集めろ……お前は悪いが俺を迎えに来てくれ……薬品を嗅がされて……思うように体が動かない……」
『警察には?!』
「警察に連絡するのは待て……相手はたぶんプロだ……警察が動ける相手かどうか見極めてからの方がいい……。覚えた車のナンバーを言うから……持ち主を割り出すよう夢兎に伝えろ……」
緒凛の言葉に、電話の相手は素直に従い、自分の居場所を知らせて電話を切る。
それから血でヌルつく携帯を必死に操作しながら、真織の父親に連絡を入れた。




