第3話 消えた記憶の行方
――暗い。
どこまでも続く、底の見えない暗闇。
上も下も分からない。
自分が立っているのか、落ちているのかさえ分からなかった。
神代玲は、ただそこに存在していた。
「……ここは」
声を出したつもりだった。
しかし、音は響かない。
口を動かした感覚だけが残り、言葉は闇に溶けていった。
身体が重い。
いや。
そもそも、自分に身体があるのかさえ曖昧だった。
不意に。
遠くで、小さな光が生まれた。
玲はその光へ意識を向ける。
すると、暗闇の中に一つの光景が浮かび上がった。
小さな公園。
夕焼けに染まる滑り台。
錆びついたブランコ。
そして、二人の子ども。
一人は、幼い頃の玲だった。
もう一人は。
「……澪?」
幼い白峰澪が、楽しそうに笑っていた。
何かを話している。
しかし、その声は聞こえない。
玲は思わず手を伸ばした。
――知っている。
この場所を。
ここは東町公園だ。
幼い頃、何度も澪と遊んだ場所。
けれど。
「……何で」
思い出せないはずだった。
今朝、確かに失った記憶。
それが、目の前にあった。
「……戻ったのか?」
玲は光景へ近づこうとした。
その瞬間。
――パキッ。
乾いた音が響いた。
公園の景色に、一本の亀裂が走る。
「……え?」
亀裂が広がっていく。
滑り台が砕ける。
ブランコが消える。
夕焼けが、黒い空白へと変わっていく。
「待て……!」
玲は駆け出した。
だが、間に合わない。
幼い澪が振り返る。
何かを言おうとしている。
その口元が、小さく動いた。
しかし。
次の瞬間には、少女の姿も砕け散っていた。
「……っ!」
すべてが消えた。
残されたのは、再び広がる暗闇だけ。
玲は、その場に立ち尽くした。
確かに、そこにあった。
失ったはずの記憶。
なのに。
取り戻すことはできなかった。
「……何なんだよ」
握り締めた拳が震える。
「俺の記憶だろ……」
誰に向けるでもなく、呟いた。
「勝手に……持っていくなよ」
そのとき。
『――持っていった?』
背後から、声がした。
少年の声。
静かで、どこか玲自身の声に似ていた。
玲は振り返る。
暗闇の向こうに、一人の少年が立っていた。
白い髪。
血に染まった制服。
夢で何度も見た、あの少年。
「……お前」
玲は息を呑んだ。
少年は、何も答えない。
ただ、こちらを見つめている。
「お前が……俺の記憶を奪ったのか?」
沈黙。
玲は一歩踏み出した。
「答えろよ!」
少年の口元が、わずかに動いた。
『……違う』
今度は、はっきりと声が聞こえた。
『奪ったんじゃない』
「……何?」
少年は、ゆっくりと右手を持ち上げた。
その手のひらには、小さな光が浮かんでいる。
無数の光の粒。
その一つ一つに、何かの景色が映っていた。
玲には分かった。
あれは、記憶だ。
自分の記憶。
『……喰われたんだ』
少年が呟いた。
玲の背筋に、冷たいものが走る。
「……喰われた?」
『お前が、使ったから』
「何を……」
問いかけた瞬間。
少年の背後で、何かが動いた。
巨大な影。
輪郭のない、得体の知れない存在。
それが暗闇の奥で、ゆっくりと蠢いていた。
少年は振り返らない。
ただ、静かに言った。
『まだ、足りない』
その言葉を聞いた瞬間。
影が、大きく脈打った。
――ドクン。
玲の胸の奥でも、同じ鼓動が響いた。
――ドクン。
少年の姿が、少しずつ闇に溶けていく。
「待て!」
玲は叫んだ。
「お前は誰なんだ!?」
少年は答えなかった。
ただ、消える直前。
ほんの一瞬だけ。
ひどく悲しそうに笑った。
『……思い出すな』
そして。
暗闇が、玲を飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
「――っ!」
玲は目を開いた。
白い天井。
見知らぬ照明。
消毒液のような、微かな匂い。
「……ここは?」
身体を起こそうとする。
しかし、全身に重い疲労感が残っていた。
「おっと。無理しない方がいいよ」
聞き覚えのある声がした。
顔を向けると、椅子に腰掛けた男がいた。
久遠朔。
黒いコートを椅子の背に掛け、片手で紙コップを弄んでいる。
「……あんた」
「やあ。おはよう」
「……何で」
「何でここにいるのか、かな?」
朔は軽く笑った。
「それとも、ここがどこなのか?」
「……両方だよ」
「なるほど」
朔は紙コップを机へ置いた。
「ここは特異事象管理局の医療区画。君が学校で倒れたから、ちょっと運ばせてもらった」
「……特異事象管理局?」
「昨日も話しただろう?」
玲は眉をひそめた。
記憶を辿る。
昨日。
校舎。
止まった時間。
自分を消そうとした、得体の知れない何か。
そして、突然現れた男。
「……ああ」
思い出した。
朔は自分のことを、世界に存在してはいけない人間だと言っていた。
「……あんた、何者なんだ?」
「公務員だよ」
「ふざけるなよ」
「いや、本当なんだけどなあ」
朔は困ったように笑った。
しかし、玲の表情を見て、すぐに笑みを消す。
「……まあ、そうだよね」
男は姿勢を正した。
「僕たちは、普通の人間には認識できない異常な現象を調査している」
「……異常な現象?」
「時間の停止。空間の歪み。存在情報の消失。それから……」
朔は玲を見つめた。
「現実そのものの書き換え」
玲の心臓が跳ねる。
今朝の交差点。
銀色の車。
自転車。
そして、失われた記憶。
「……あれは」
「君の力だよ」
朔は静かに告げた。
「神代玲。君には事象改変という異能がある」
「……異能」
「本来なら起こるはずだった出来事を、別の結果へと変えてしまう力さ」
玲は、自分の右手を見つめた。
何も変わらない。
普通の人間の手だった。
「……そんな力、欲しいなんて言ってない」
「だろうね」
「俺は、ただ……」
言葉が途切れる。
ただ、事故を止めたかった。
誰かが傷つくのを見たくなかった。
それだけだった。
「……何で、俺なんだよ」
朔は答えなかった。
代わりに、玲の枕元に置かれていた端末を手に取る。
「一つ、見てほしいものがある」
画面には、交差点の監視映像が映し出されていた。
玲と澪が、信号待ちをしている。
銀色の車が近づく。
自転車が飛び出す。
そして。
映像が乱れた。
白いノイズ。
その直後。
何事もなかったように車が停車している。
「……これ」
「今朝の映像だよ」
朔は画面を指差した。
「ここ。三・七秒間、映像が欠落している」
「……三・七秒?」
「そう。だけど、問題は時間が消えたことじゃない」
朔は別の画面を表示した。
そこには、複雑な数値と波形が並んでいる。
「事故が起きるはずだったという情報そのものが、世界から消えているんだ」
「……どういう意味だよ」
「簡単に言えば、君は事故を止めたんじゃない」
朔は、淡々と続けた。
「事故が起きない世界に、書き換えたんだ」
玲は息を呑んだ。
止めたのではない。
書き換えた。
その違いが、恐ろしいほど大きなものに感じられた。
「……じゃあ、俺は」
「結果だけを変えた。しかも、世界に矛盾が残らないようにね」
朔は端末を伏せた。
「ただし、代償が発生している」
玲は顔を上げた。
「……記憶か?」
「現時点では、そう見える」
朔は小さく頷いた。
「君が失った記憶は、ただ忘れているだけではない可能性がある」
「……え?」
「人間の記憶っていうのは、普通、完全に消えるわけじゃない。何かのきっかけで思い出すこともある」
「……ああ」
「だけど君の記憶には、それとは違う反応が出ている」
朔は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「最初から、その記憶が君の中に存在していなかったかのような状態なんだ」
玲の喉が鳴る。
夢で見た公園。
幼い澪。
砕け散った景色。
「……俺、さっき夢を見た」
「夢?」
「ああ。消えた記憶が、目の前にあったんだ」
朔の目が、わずかに細くなる。
「……続けて」
「公園で、昔の俺と澪が遊んでた。でも、近づこうとしたら全部壊れて……」
玲は言葉を探した。
「そこに、白い髪の少年がいた」
その瞬間。
朔の指が止まった。
「……白い髪?」
「ああ」
「どんな少年だった?」
「俺と同じくらいの年齢で……制服を着てた。血だらけの」
朔は黙り込んだ。
先ほどまでの気楽な雰囲気が消えている。
「……そいつが言ったんだ」
「何て?」
「記憶は奪われたんじゃない。喰われたんだって」
沈黙。
朔は、しばらく玲を見つめていた。
そして。
「……なるほどね」
低く呟いた。
「何か分かったのか?」
「いや。まだ確証はない」
そう答えた朔の表情には、明らかな緊張があった。
「ただ、少し厄介なことになっているかもしれない」
「……厄介?」
「君の能力が、ただの異能じゃない可能性がある」
玲は眉をひそめる。
「それ、どういう……」
問いかけようとした瞬間。
――ピピッ。
朔の端末が鳴った。
画面を確認した男の表情が変わる。
「……おや」
「どうした?」
「困ったな」
朔は立ち上がった。
「予定よりずいぶん早い」
「……何が?」
男は玲の方へ向き直った。
「君の存在が、正式に検知された」
「……誰に?」
朔は一瞬だけ、返答をためらった。
そして。
「世界に、だよ」
◇ ◇ ◇
同時刻。
特異事象管理局、中央観測室。
巨大なモニターに、赤い警告が表示されていた。
『世界修正反応を検出』
『対象:神代玲』
『存在情報の再照合を開始』
『修正優先度:上昇中』
複数の職員が、慌ただしく端末を操作している。
「対象の位置は!?」
「局内医療区画! 座標は固定されています!」
「修正反応は!?」
「増大しています! このままでは対象の存在情報が――!」
その瞬間。
室内のすべてのモニターが暗転した。
次に表示されたのは、一つの文章だった。
――修正対象の保護行為を確認。
――干渉組織を識別。
――特異事象管理局。
そして。
――干渉行為の排除を開始。
「……まずい!」
職員の一人が叫んだ。
「世界修正機構が、局そのものを認識しました!」
次の瞬間。
中央観測室の照明が、一斉に消えた。
◇ ◇ ◇
「……何だ!?」
玲は思わず声を上げた。
医療区画の照明が点滅している。
壁に設置された時計の秒針が、不規則に動き始めた。
進む。
止まる。
戻る。
そして。
――カチ。
すべての時計が、同時に停止した。
午後五時十七分。
朔が舌打ちした。
「……やっぱり来たか」
「来たって……何が!?」
「世界の修正だよ」
男は扉へ向かう。
「玲君、今すぐここを離れる」
「……待てよ!」
玲はベッドから降りた。
足元がふらつく。
しかし、どうにか立ち上がった。
「説明してくれよ! さっきから何なんだよ!」
朔は振り返った。
「君が世界にとって異常な存在だという話はしたね?」
「……ああ」
「世界には、異常を修正する仕組みが存在する」
その言葉を聞いた瞬間。
玲の脳裏に、昨日の光景が蘇った。
止まった時間。
消えかけた自分の腕。
何かに観察されている感覚。
「……昨日の、あれか?」
「そう」
朔は頷いた。
「世界修正機構。僕たちはそう呼んでいる」
「……世界が、俺を消そうとしてるのか?」
「正確には、君という矛盾を修正しようとしている」
「同じことだろ……!」
「まあ、君からすればね」
朔は苦笑した。
しかし、その目は真剣だった。
「いいかい、玲君。今の君は絶対に能力を使っちゃいけない」
「……何で」
「使えば使うほど、君の中の何かが失われる」
朔は一歩近づいた。
「しかも、何が失われているのか、まだ分からない」
玲は唇を噛んだ。
記憶が消える。
夢の中の少年は、喰われたと言った。
もし、本当に何かが自分の記憶を喰っているのだとしたら。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
玲が呟く。
朔は、少しだけ笑った。
「そのために、僕たちがいるんだ」
次の瞬間。
――パキッ。
背後の壁に、亀裂が走った。
「……っ!」
玲が振り返る。
白い壁が、音もなく崩れ始めていた。
破片は落ちない。
砕けた部分が、そのまま空白へ変わっていく。
昨日と同じ。
あの、何も存在しない空間。
朔の表情が険しくなった。
「……早すぎるな」
男は上着の内側から、小さな金属製の端末を取り出した。
親指で、その表面を押す。
淡い青色の光が広がった。
玲と朔を囲むように、透明な壁が形成される。
「……何だ、それ」
「局の装備だよ。空間干渉を一定時間だけ遮断できる」
「そんなものが……」
「まあ、万能じゃないけどね」
朔がそう言った直後。
透明な壁に、細かな亀裂が走った。
「……本当に万能じゃないな」
男は乾いた笑いを浮かべる。
しかし、その表情から余裕は消えていた。
空白が広がる。
天井が消える。
床が歪む。
現実そのものが、少しずつ削り取られていく。
「玲君」
朔が静かに言った。
「僕の後ろから離れないで」
「……分かった」
玲は頷いた。
その瞬間。
空白の奥に、何かが現れた。
人影。
いや。
人間の形をしているだけの、何か。
顔はない。
服もない。
ただ、黒い輪郭だけが存在している。
それが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
一歩。
また一歩。
歩くたびに、周囲の空間が歪んでいく。
「……あれは」
「修正現象が、形を持って現れたものだ」
朔は低く答えた。
「僕らは便宜上、修正体と呼んでいる」
黒い人影が、足を止めた。
そして。
顔のない頭部を、ゆっくりと玲へ向けた。
その瞬間。
玲の頭の中に、無機質な言葉が流れ込んできた。
――対象を確認。
――存在情報に矛盾を検出。
――修正処理を再開。
「……っ!」
頭を押さえる。
身体の奥が、凍りつくような感覚。
昨日と同じだった。
自分という存在が、何かに掴まれている。
そして。
少しずつ、消されようとしている。
「玲君!」
朔の声が響く。
「意識を保って!」
黒い人影が右腕を持ち上げた。
その指先から、空間に亀裂が走る。
透明な壁が、大きく軋んだ。
――パキン!
青い光が砕け散る。
朔が玲の腕を掴んだ。
「走るよ!」
二人は廊下へ飛び出した。
背後で、壁が消えていく。
足音が響く。
非常灯が赤く点滅する。
廊下の先に、非常口が見えた。
しかし。
「……嘘だろ」
玲は思わず立ち止まった。
非常口の向こうが、存在しなかった。
扉の先には、真っ白な空間だけが広がっている。
階段も。
床も。
外の景色さえも。
何もなかった。
「……出口まで消されたか」
朔が呟く。
背後では、黒い人影がゆっくりと近づいてきていた。
逃げ場がない。
玲の呼吸が荒くなる。
「……どうするんだよ」
「考えてる」
「考えてるって……!」
「僕だって、こんな状況は初めてなんだよ」
朔は苦笑した。
しかし、その目は玲ではなく、迫り来る修正体を見ていた。
黒い人影が、腕を上げる。
再び、空間が歪む。
玲は反射的に右手を伸ばしかけた。
――止まれ。
そう言えば、止まるかもしれない。
今朝のように。
事故をなかったことにしたように。
この状況さえ、書き換えられるかもしれない。
だが。
その瞬間、夢の中の声が蘇った。
『……喰われたんだ』
そして。
白い髪の少女の言葉。
『その力を……使わないで』
玲の右手が止まった。
「……駄目だ」
小さく呟く。
怖い。
このまま消されるのは、恐ろしい。
けれど。
能力を使うことも、同じくらい恐ろしかった。
朔が玲の前に立つ。
「……よし」
男は静かに息を吐いた。
「少し無茶をするしかないね」
「……何をするつもりだ?」
「君はそこで見てて」
朔が端末を構え直す。
黒い人影が、一歩踏み出した。
その瞬間。
『――駄目』
声がした。
少女の声。
玲は勢いよく顔を上げた。
「……え?」
どこからともなく、白い光が広がり始める。
黒い人影が、初めて動きを止めた。
そして。
玲の目の前に、一人の少女が現れた。
白い髪。
青い瞳。
白いワンピース。
何度も見た、あの少女だった。
「……お前!」
玲が叫ぶ。
少女は答えない。
ただ、黒い人影を見つめていた。
その表情には、恐怖がなかった。
まるで、こうなることを最初から知っていたかのように。
朔が息を呑んだ。
「……何だ?」
男の端末が、甲高い警告音を鳴らし始める。
『観測不能』
『存在情報を取得できません』
『対象識別失敗』
朔の目が見開かれた。
「……存在情報が、ない?」
その言葉を聞いた瞬間。
少女が、ゆっくりと振り返った。
そして。
玲ではなく、朔を見つめた。
『……あなたには、見えてはいけない』
少女の唇が動いた。
次の瞬間。
朔の身体が静止した。
「……え?」
玲は目を見開いた。
朔だけではない。
黒い人影も。
崩れかけた壁も。
赤く点滅していた非常灯も。
すべてが、動きを止めていた。
しかし。
玲だけは動けた。
「……何をしたんだ?」
少女は答えなかった。
ただ、静かに玲へ近づいてくる。
一歩。
また一歩。
そして、目の前で足を止めた。
青い瞳が、玲を見つめる。
『……ごめんなさい』
唐突な謝罪だった。
「……え?」
『本当は、もっと早く……』
少女の声が震える。
『あなたを、見つけなきゃいけなかった』
玲には意味が分からなかった。
「……お前、何者なんだ?」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
『……詩音』
小さく答えた。
「……詩音?」
『それが、今の私の名前』
玲は眉をひそめた。
「……今の?」
少女は答えない。
代わりに、玲の胸元へ手を伸ばした。
細い指先が、制服の上に触れる。
その瞬間。
――ドクン。
玲の胸の奥で、何かが脈打った。
「……っ!」
夢の中と同じ感覚。
自分のものではない、何かの鼓動。
少女の表情が、悲しげに歪む。
『……やっぱり』
その声は、ひどく小さかった。
『もう、動き始めてる』
「……何が?」
少女は玲を見つめた。
『あなたの中にいるもの』
玲の呼吸が止まった。
「……中?」
夢の中の白い髪の少年。
巨大な影。
そして、記憶を喰うという言葉。
それらが、ひとつにつながりかける。
「……あの少年のことか?」
詩音の瞳が、大きく揺れた。
『……見たの?』
「ああ。夢の中で、何度も」
玲は問いかける。
「お前、あいつを知ってるのか?」
少女は俯いた。
長い白髪が、顔にかかる。
そして。
『……知ってる』
小さく答えた。
玲は息を呑んだ。
「……誰なんだよ、あいつは」
詩音は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、今にも溢れそうな涙が浮かんでいた。
『……世界を終わらせた人』
玲の心臓が跳ねた。
『そして……』
少女は、玲の胸元に触れたまま続ける。
『本当なら、もうどこにも存在していないはずの人』
「……どういう意味だよ」
玲が問い詰めようとした、その瞬間。
――パキッ。
少女の足元に、黒い亀裂が走った。
詩音の表情が変わる。
『……もう、時間がない』
「待てよ!」
玲は叫んだ。
「まだ聞きたいことが――!」
少女は首を横に振った。
『今は、知らない方がいい』
「……何でだよ!」
『思い出したら……』
詩音は、苦しそうに唇を噛んだ。
『また、同じことが起きるから』
その瞬間。
世界が、大きく揺れた。
静止していた修正体に、亀裂が走る。
少女は玲の胸元から手を離した。
『……お願い』
青い瞳が、真っ直ぐに玲を見つめる。
『まだ、思い出さないで』
そして。
『今度こそ……あなたに、生きていてほしい』
少女の姿が、白い光に包まれた。
「……詩音!」
玲は手を伸ばした。
しかし、その指先が触れるより早く。
少女は消えた。
次の瞬間。
――ガシャン!
大きな音とともに、世界が動き出した。
◇ ◇ ◇
「……っ!」
朔が勢いよく振り返った。
先ほどまで存在していた黒い人影は、消えていた。
崩れかけた廊下も、元通りになっている。
非常口の向こうには、階段が続いていた。
「……何だ?」
朔は周囲を見回した。
「修正反応が、消えた……?」
男は端末を確認する。
画面には、異常な数値が並んでいた。
『観測記録:欠損』
『未確認存在:識別不能』
『修正処理:強制中断』
朔の表情が険しくなる。
「……強制中断?」
誰かが、世界の修正を止めた。
少なくとも、端末の記録はそう示していた。
しかし。
誰が?
何のために?
朔には分からなかった。
「……玲君?」
男が振り返る。
玲は、その場に立ち尽くしていた。
少女が消えた場所を、ただ見つめている。
「……どうした?」
朔が近づく。
「何か見たのかい?」
玲は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あんたには、見えなかったのか?」
「……何が?」
「白い髪の女の子だよ」
朔の動きが止まった。
「……女の子?」
「ああ。俺たちの目の前にいた」
玲は、少女が立っていた場所を指差した。
「詩音って言ってた」
「……詩音」
朔は、その名前を小さく繰り返した。
聞いたことのない名前だった。
少なくとも、局の登録情報には存在しない。
「……その子が、何をしたんだい?」
「分からない。でも、あいつが来たら全部止まって……」
玲は言葉を切った。
ふと思い出す。
少女が言っていた言葉。
――あなたには、見えてはいけない。
あれは、朔に向けたものだった。
「……なあ」
「ん?」
「世界に存在してない人間って、いるのか?」
朔は、すぐには答えなかった。
そして。
「……いるはずがない」
静かに答えた。
「存在していないなら、そもそも認識することもできないからね」
「……でも」
玲は唇を噛んだ。
「俺には、見えたんだ」
朔は玲を見つめた。
その目には、今までとは違う警戒が浮かんでいた。
「……そうか」
男は小さく呟く。
「どうやら、君の周りには……」
そこで言葉を止めた。
そして、苦笑する。
「僕の知らないことが、まだまだあるみたいだね」
◇ ◇ ◇
同時刻。
世界修正機構。
人間には観測できない領域で、一つの処理が停止していた。
――修正処理、異常終了。
――原因不明。
――外部干渉を検出。
――干渉存在の識別を開始。
膨大な情報が、瞬時に照合される。
しかし。
結果は、何度繰り返しても同じだった。
――該当する存在情報がありません。
――記録照合失敗。
――存在定義不能。
世界修正機構は、新たな異常を検知した。
神代玲。
そして、もう一つ。
世界に記録されていない存在。
その二つが接触したことで、世界の修正処理に予測不能な変化が発生していた。
――未登録存在を再検証。
――過去記録との照合を開始。
――照合中……
そのとき。
封鎖されていた古い記録が、一瞬だけ開いた。
そこには、一つの名前が記されていた。
天城零。
かつて世界を終わらせた少年。
すでに、存在情報そのものが消去されているはずの人間。
しかし。
その記録の最下部に、新しい文字が浮かび上がった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【WORLD SYSTEM / CRITICAL WARNING】
ERROR CODE : 002-UNKNOWN
対象個体:神代玲
事象改変能力:未覚醒
存在侵食:継続中
封印存在:活動反応上昇
未登録存在との接触を確認。
接触対象:識別不能
世界修正処理:強制中断
過去記録照合結果:
――天城零
存在状態:消去済
再照合結果:
――不一致
警告:
消去された存在の情報が、対象内部で再構築されています。
警告:
封印存在の覚醒条件に変動を検出。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
その記録は、誰にも読まれることなく閉じられた。
そして。
世界の奥底。
光も時間も存在しない暗闇の中で。
一人の少年が、静かに目を開いた。
白い髪。
血に染まった制服。
その口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「……詩音」
少年は、小さく名前を呼んだ。
まるで、ずっと昔から知っている相手に語りかけるように。
「……まだ、邪魔をするのか」
その声に答える者はいない。
少年は、ゆっくりと自分の右手を見つめた。
手のひらには、小さな光が浮かんでいる。
そこに映っていたのは。
夕焼けの公園。
二人の子ども。
笑っている、幼い神代玲と白峰澪だった。
少年は、その光を見つめた。
そして。
「……あと少し」
静かに呟く。
「あと少しで、満たされる」
次の瞬間。
光が、少年の手の中へ吸い込まれた。
暗闇に、再び静寂が訪れる。
そして最後に。
少年の声だけが、小さく響いた。
「……今度は、何を失う?」
――第3話 完。




