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【番外編】あなたに蕩めくひとしずく

シリーズ「オオカミなんて、だいきらい。」に二人を出したら、久しぶりに何か書きたくなってしまいました。

番外編なので、これまた結局君らあまあまじゃんという、ひたすらに糖分過多なお話です。


楽しんで頂けたら……!






 どうして自分を食べないのかと怒った彼女に、人狼にとって人間は嗜好品だと思えと言ったことがある。

 酒や煙草と同じだと。

 摂取しなくて済むヤツは、口にしない。



 そう、嗜好品。

 だから彼は今まで欲求をほとんど感じなかったので、それを持ち込むことはしなかった。



 ヴォルフは瓶の中の琥珀色の液体を見つめる。

 底に果実を沈めたその酒は、手作りだった。リディアと一緒に森で採った果実を漬け込んで作ったのだ。



 ヴォルフは基本、酒は嗜まない。耐性はあるし、稀に欲しいと思うことはあったが、それでも実際調達しようとまではしなかった。嫌いではないが、その程度のもの。

 けれどこの度気が向いて、挙げ句の果てには手作りまですることになった。

 理由は、リディアだ。



 二人と二匹になった生活は、実に平和で穏やかに続いていた。何も損なわれることはない。

 損なわれるどころか、日増しに彼の大切な少女はその愛らしさの中に女性の美しさまで備え始め、日々その成長に心臓を鷲掴みにされているような状況。

 そうやって彼女から大人の女性としての気配を感じるようになって、ある日彼はふと思いついたのだ。

 一度、酒を口にするのも良い経験ではないかと。



 日々は充足していたし、幸せそのものだったが、その分変化はあまりない。森の中では娯楽も限られる。だから、ちょっとした愉しみになればいいと思った。

 それに、耐性はあるのかどうかも知りたかった。

 ヴォルフに比べると少ないが、リディアもごく稀に街に降りる。そんな時彼女の美しさに目を奪われた男どもが、どんなおかしな気を起こすか分からない。酒に酔わせて好きにする、というのは常套手段だ。

 もちろん、彼が常に傍についていながらそんなことはあり得ないが、過去の苦い経験を思い返しても念には念を入れておきたかった。

 強くなくても、可能なら多少は味に慣れさせたいし、駄目なら駄目できっちりそれを認識してもらわねばならない。

 酒というのがどういうものか、その舌に一度認識してもらいたかった。知らないものには、正しい警戒を持てないこともあるから。



 ということで、ヴォルフはこの日、リディアに酒を呑ませた。




 正直に告白しよう。

 下心が全くなかったとは言わない。

 だがそれも、酔って頬を上気させてうるっとさせた瞳で見つめてでもくれればまぁ可愛いだろうな、とその程度だったのだが。



「……………………」

 マズイ。これは、マズイ。

 ちょっと迂闊過ぎたかもしれない。

 ヴォルフは後悔していた。

「リディア」

 思った以上の効果が出てしまったからだ。

「なぁに?」

 原酒では飲ませていない。ちゃんと割った。

 一杯目、彼女は実にゆっくりしたペースで口にした。甘い酒にしておいたからだろう、それほど味にも抵抗がなかったようで、にこにことしていた。笑い上戸という話ではなく、それは平素の彼女と変わりない笑顔だった。

 一杯目を空にした時、ちょっと頬が上気しているくらいで、それでもリディアは酔っているという様子ではなかった。

 様子を見つつ渡した二杯目に口を付けたその途端、突如変化は訪れた。

 本当に脈絡なく、いきなりだった。一気飲みしたとか、そういう訳でもない。

「……リディア?」

 こちらを見つめる目が、急にとろんと甘くなった。

 ぎょっとして、思わず息を飲む。この一瞬で何があったと言うのだ。

「ヴォルフ?」

 狼狽えた彼に気付いたのか、リディアがほんの少し小首を傾げて問うてくる。


 潤んだ瞳、薔薇色の頬、僅かに開いた桜色の唇、そしていつも以上に無防備なその様子。



「………………!」

 想像以上の破壊力に、ヴォルフは動揺していた。



 酔っている。これは確実に酔っている。

 それほど強い度数の酒ではないはずだが、しっかりと酔っていらっしゃる。



 臨界点を超えると一気にくるタイプなのか、酔いが回っているという認識すら持てていなさそうだ。

 彼の方をとても不思議そうな目で見つめながら、彼女はまたグラスを口元に運んでちびちび呑み始めようとした。

「リディア、待て。今日はもうお終いにしよう」

「…………?」

 理解していないのか止まらないグラスの傾きに、ヴォルフは焦れて直接手を伸ばす。

「やだぁ」

「ぐっ……!」

 奪うと駄々をこねるみたいにそう言われて、甘い衝撃に身悶える。

「駄目なの? どうして?」

 駄目だ駄目だ駄目だ、これは駄目だ。

 何という悪魔的な破壊力なのだ。理性が飛んでしまうではないか。

「リディア、今日はもうお終いだ。また今度にしよう。な、眠くないか?」

 宥めるように優しく囁く。早いところ意識を手放してくれた方が良心的だ。

 すると言葉につられるようにリディアの身体がゆらりと揺らいだので、ヴォルフは傾いだその身体をそっと抱き止めた。

「うん、寝てていいからな」



 というか早く眠ってくれ!



 自分が始めたことだったが、このままでは始末に負えない。

「うーん…………」

「酔ってるんだから」

「よってる?」

「ほら、暑いだろ」

 傾ぐ頭を支えようと頬に手を添えれば、いつもより高い熱が伝わる。と、次の瞬間ヴォルフの手の方が冷たくて心地好かったのか、リディアが頬擦りを始める。

「リ…………!」

 普段なら考えられない事態だ。自分の手の中にすっぽりと収まった頬の柔らかさに、激しく動揺する。このまま堪能したいと思ったが、自分がこのまま耐えられるとは到底思えなかったので、ヴォルフは勢いをつけて手を離し、その身体を抱き上げた。彼女は大人しくされるがままになっている。

「ヴォルフ……?」

 このままベッドまで運んで布団にくるんで、酔いが醒めるまで隔離しなくては。



「やだ、そっちはいや」

 ところが寝室に足を向けると、急にリディアは腕の中で暴れ出した。

「リディア、休んだ方がいい」

「いやよ!」

 本気で暴れられると、さすがに落とさない自信はない。

「ヴォルフ、やめてやめて、いやなの」

「分かった。分かったから、じっとしてくれ」

 何が嫌なのかはさっぱり分からなかったが、とにかく彼は一度途中のソファーに腰を下ろした。



 どうしたものか。

 途方に暮れていると、横抱きの状態だった彼女はそのまま彼の首にぎゅうっと強くしがみついてようやく大人しくなる。しかし、しがみつく力がなかなかに容赦ない。

「絞まる絞まる、リディア」

 背中をポンポンしながら促すと、

「じゃあヴォルフもぎゅうっとして」

「く!」

 間髪入れず殺し文句が返ってきた。

 取り敢えず首締め回避のためにしっかりと抱きしめ返すと、満足したのか一応はまた大人しくなる。



 しかし、状況は悪化している。

 このまま甘えたモードを続けられれば、その衝撃で殺されてしまう。冗談抜きでそう思う。

 何か、何か気を逸らさなくては。



 ヴォルフは焦りながらもそう考え、部屋の中を見回した。

「!」

 そうだ。

 グラウの方は外に出ていたが、部屋の中にはルディがいた。気を逸らすには十分だ。存分にもふもふさせてやろう。

「ルディ、こっちだ」

 ルディは所在なさげな顔をしていたが、ヴォルフが呼び掛けると素直に二人の方へトトと寄って来た。

「ほら、リディア。ルディが構われたがってる。触ってやれ」

 ルディもリディアに撫で回されるのは大好きなので、それを聞いて表情を輝かせた。



 だが。



「やだぁ、それじゃないんだもん」

 まさかの拒絶。

 ルディの歩みがピシリと音を立てて止まり、その顔は一気に地獄に叩き落とされたような悲壮感漂うものになる。リディアに嫌がられるなんて、想像もできなかったのだろう。

 ヴォルフも、できていなかった。

「わ、悪い…………」

 ショックから抜け切れないルディに、思わず謝る。名案だと思ったのに、悪いことをしてしまった。

 そして、ルディと視線を交わしている間に、更なる試練が。

「!」

 いつものように素直にもふもふしていてくれれば良いものを。

「リディア!」

 顔が埋められていた首筋に、生温く湿った熱。

「リディア、それは駄目だ。やめてくれ」

 何が起きているのかは瞬時に理解できた。

 リディアが唇を当てているのだ。

 駄目と言っても、じりじりと位置を変えながら柔らかな熱は消え失せない。



 どうなっているんだ!



 心の中でヴォルフは咆哮した。

 甘い果実酒一杯ちょっとでどうしてこんなことになる。可愛くて蠱惑的で愛しくてとにかく取り敢えず堪らないが、普段のリディアからは考えられないくらい積極的で甘えただ。正直素直に嬉しいし、有り難うございますと言いたいところだが、しかしやはり度が過ぎている気がする。



 そしてーーーー

「っく!」

 またもやいきなりの刺激にヴォルフは身悶えた。首筋にチリっと走る痛み。強く吸われる感覚。間違いなく跡が付いてしまうやり方。

「ん」

 微かに漏れるあえかなる吐息が妙に艶かしい。

「リディ!」

 今までヴォルフからなら何度かしたことがある行為。リディアの身体に残るキスマークは、何だか所有印のようで、妙に征服欲を刺激した。そして逆に自分もそれが欲しくなった。

 けれど自分からするだけでもひどく恥ずかしがる彼女に、逆に行為を要求するなんてできる訳もなく、今の今までリディアからされたことなんて一度もなかったのだ。

 それなのに。

「リ、ディア」

 あぁ、でももう駄目だ。本当に駄目だ。ぐらぐらの理性が崩壊してしまう。

 このままでは、欲望のまま、この柔らかな身体を押し倒して押さえ込んで好きなだけ貪り尽くしてしまう。そうしたくて堪らない。そうしたって構わない気さえする。だってこれで誘ってないだなんて、嘘だ。



 ーーーーでも、彼女は酔っているのだ。

 ヴォルフは歯を食い縛って耐える。

 平常じゃない状態の時に、彼女の方にも原因はあるとは言え、事に及ぶなんてしてはいけない。次に目が醒めた時、彼女はきっと傷付く。

 それに、近頃大分彼との恋人的接触に慣れてきたとは言え、二人はまだそういうことにはなっていない。こんな状況が初めてなんて、お互い不本意だ。下手をしたら、酔いが醒めたリディアは全部を忘れているだろう。それは頂けない。

 どうせなら、初めてはしっかり一片たりとも忘れられないよう記憶に残してやりたいと、彼は思っている。じっくりと時間をかけて味わいたい。

 それには彼女の正気が必要だ。酔っている時では話にならない。



「っ!」

 なけなしの、本当になけなしの理性と誠実さを総動員して、ほんの少し刺激が弱まったその隙にヴォルフは勢いよくリディアの身体を引き剥がした。

「う…………!」

 正面から目が合って、その少し不満げな瞳が壮絶な色香を放っていて、またもやヴォルフは呻いた。身体中をものすごい勢いで巡る衝動に、思考が焼き切れそうになる。

 何とかギリギリの攻防でそれを制して、今度こそヴォルフはリディアを抱き上げると足早に寝室へ雪崩れ込み、ベッドの上に華奢な身体を横たえて布団を被せて、叫ぶように言った。

「俺が悪かった! リディア、頼むからもう勘弁してくれ!」

 そして。

 布団の心地好さに全身隈無く包まれたからか、今までの出来事が何だったんだと言いたくなる呆気なさでリディアはすーすーと穏やかな寝息を立て始めた。



「っはぁぁぁ…………」

 これ以上ないくらい、肺が空っぽになるまで深く深くヴォルフは息を吐く。それでもまだ足りない。

 恐ろしい出来事だった。恐ろしく魅惑的で悪魔的で、衝撃的な出来事だった。

 健やかな寝息を立てる彼女と違って、彼の動揺はまだちっとも冷めやらない。今、こうして彼女を襲わずに済んでいる状況を、我ながら奇跡だと思った。



 ちょっとした、思いつきだったと言うのに。

 慣らそうなんて考えてはいけない。金輪際、アルコールなど口にさせてはいけない。

 ヴォルフはとてつもない疲労感の中で、強く強く強く決意した。











 おかしい。


 最近妙にヴォルフの態度がよそよそしいし、事によれば目すら合わない。そしてよく外出する。縄張りの見廻りや、時にその外の状況を把握するために彼は頻繁に外に出るが、それにしても時間が長い。夜遅くになって帰って来ることだってある。

 けれどよそ者が侵入しているとか、縄張りを拡張しているとか、そういった不穏な空気は全くないのである。

 訳が分からない。



 ーーーーいや、本当は分かっている。根本の原因は分からないが、彼かやたらと外に出たがる理由なら分かっている。



 自分と、一緒にいたくないのだ。

 同じ空間を共有したくないのだ。



 話しかけても上の空、今まで以上にグラウやルディをけしかけてきて、リディアと距離を取ろうとする。

 二人で取り決めた例の"約束"は継続されているが、本当に取り決められた分だけで早々に切り上げられ余韻もへったくれもない。

 あれだけ最初に言ったのにまるで義務のようになってしまっている。向こうはしたくもないのに、強要させている気分。



 何がいけなかったのだろう。



 ここのところ毎日気力で涙を堪えながら、リディアは自問自答する。

 心当たりーーーーはなくもない。

 二人の関係が急激にギクシャクし始めたのは三週間ほど前。

 その頃何かいつもと違うことがあったかと言ったら、二人で作った果実酒を味見したことくらいだ。

 それほど変わったことはなかったと思う。急にぽわっとなったと思ったら、次はもう朝だった。

 酔って寝オチたのだと、ヴォルフは言った。幸いなことに、頭痛も吐き気も、二日酔いと呼べる症状は何も出なかった。

 何か迷惑をかけなかった? と訊いた彼女に、何もなかったと彼は言ったのだ。

 視線を窓の外に(・・・・・・・)滑らせながら(・・・・・・)



 あの時に何かやらかしたのかもしれない。

 靄がかった記憶を懸命に照らすと、抱上げてくれたヴォルフに甘えて擦り寄ってしまったような、そんな記憶は薄らあった。思い出すと頬に熱が集まる。恥ずかしい。

 恥ずかしいが、けれどそれがそんなに例えばはしたない行為であったかと言えば、そんなことはないと思う。自惚れでなければ、ヴォルフならばむしろ喜びそうなものである。

「でも……」

 リディアはそこで自分の思考に待ったをかける。

 自惚れていなければ(・・・・・・・・・)、ヴォルフはきっと喜んだだろう。

 ーーーーでは、自惚れていたら?

 もし、その時点で既にリディアがヴォルフに何かしら愛想を尽かされかけていて、そんな時に気の向かない相手から酔われて迷惑をかけられて、擦り寄られたりしたら。

 気分が悪いに決まっている。嫌気が差すのも加速するというものだ。

 というか、自分のぼんやりした記憶をあてにしてはいけないのかもしれない。もしかしたら、ものすごく引かれるようなとんでもない醜態を見せたのかもしれない。例えばどんなのかと言われれば、正直想像もつかないのだが、取り敢えず何か、とてつもなく品格を貶めるような何か。



「どうしよう……」

 ここは小さな小さな閉じた世界。登場人物はごく僅か。言葉を交わし合うのは彼と彼女だけ。

 そんな世界に亀裂が入ったらーーーー破綻まではあっという間だろう。



 今まで、考えもしなかった。ただ二人、また一緒にいられることがそれだけで幸せで。誰に脅かされることもない平穏な日常で満たされていて。



 それに、あぐらをかいていたのだろうか。

 リディアは傲慢にも思いもしなかったのである。

 自分が疎まれること。二人の間が冷めること。



 上手くいっていると思っていたのに。少しずつだけど、ヴォルフに触れることに、触れられることにだって慣れてきていた。でも、それはリディアの視点からの話だ。

 いつまでも煮え切らない態度のリディアに、ヴォルフも気持ちが薄れて行ったのかもしれない。



 悪い想像は、坂を転げるようにどんどん加速していく。

 気持ちが薄れるとはどんな状況だろう。単純に自分に向けていた感情がどこへともなく霧散していった状態なのか、それともこちらに向けていたものが別の誰かに向けて移ってしまっているのか。



 ーーーーーーーー別の誰か?



「まさか」

 自分で自分の想像に傷付く。

「そんな訳……」

 弱った心は悪魔的だ。ひどいことばかり思いつく。



 だって疑わしい点はいくつでもある。

 そっけない態度、合わない目。それは別の誰かがいるから。

 連日の外出、遅い帰り。それはその別の誰かに会っているから。その人と過ごしているから。



 そんな訳ない。そう言いたい。

 だって人狼と人間の恋なんて、そう転がっているものじゃない。奇跡みたいな確率で、リディアとヴォルフは心を通わせた。

 普通は互いを個として認識するより前に、人狼は人間を餌として捕捉し、人間は人狼を害獣だとまるまる拒絶する。

 並の娘では、人狼と心なんて通わせられない。

 それに第一、こんな森深くに若い娘など、そういるはずが。



「……………………」

 そう否定したいけれど、できない。

 だって、ここにそのあり得ない奇跡みたいな実例(自分)があるのに、どうして他には絶対ないと言い切れるだろうか。

 それに、あれだ。確かあの頃、ヴォルフの首筋にーーーーーーーー



 これから、どうすれば良いのだろう。

 例えば本当にヴォルフの心がよそに移っていたとして、いや、そうでなくとももうリディアを嫌だと言うのなら、これからどう暮らしていけば良いのだろう。

 ヴォルフはあれで優しいから無闇にリディアのことを放り出したりはしないだろうけれど、無理に自分を背負わせ続けることは彼を不幸にしかしない。

 ここの暮らしは縄張りの主である人狼の彼がいてこそである。彼なしでは成り立たない。

 そしてここを出てリディアが森で生き延びることは、誰が考えたって不可能だ。

 けれど、今更、人間社会で生きていける気もしない。

 ーーーーーーーーどうしようもない、お荷物ではないか。



「もうこんな時間…………」

 今日もヴォルフは出て行ったきりまだ帰らない。もう日も暮れて、辺りの景色は沈んできているというのに、まだ帰らない。

 ダイニングテーブルの席に着きながら、リディアは必死に耐える。



 リディアは寂しい。寂しくて寂しくて堪らない。

 でも、最早ここまで関係が冷えきってしまっては、勇気を振り絞ってその寂しさを素直に伝えたところで、疎ましがられて関係に止めを刺してしまうのがオチだろう。

 ヴォルフの頑なな気配を前に、もうずっとリディアは何の言葉も投げかけられずにいた。



 リディアはヴォルフを愛している。ずっと変わらず愛している。でも、それは一方通行ではいけない心情だ。

 打つ手なしの状況に、打ちのめされる。



 だけど、でも、このままではいられない。

 取り返しがつかないとしても、早い内にピリオドを打つことがきっと最善だから。

 だから、素直に自分の心を話すにしても、ぐっと堪えて別れを提案するにしても、とにかくまずは対話が必要だ。避けられても、めげずに向かっていかなくてはならない。



 けれど。

 今の時点でもう十分過ぎるほどリディアはめげていて、勇気なんてこれっぽっちも持ち合わせがなかった。



 ではその勢いをどこから借りてこれば良いのか。



「こうなったら……」

 ふと、思いついた。




 ーーーーそうだ、お酒の勢いを借りよう……!




 お酒が原因でこうなっている可能性があるのに、お酒の力を借りようなんて本末転倒かもしれないが、今の自分に手っ取り早く発破をかけようと思ったら、もうそれしか思い付かなかった。

 前後不覚になっては元も子もないし、何より酔っていては何の説得力もないから、あくまで気持ちの上でちょっと口に含む程度で納めよう。

「よし」

 決心したリディアは立ち上がりキッチンの収納棚や小さな貯蔵室を端から調べ出す。

「どこにやったのかしら……」

 けれどお目当ての瓶はなかなか見つからない。寸胴の大きなガラス瓶なのだ。目につきやすいはずなのに。ヴォルフはどこにしまったのだろう。

 中身は捨てていないはずだとリディアは思う。だって洗われた空の瓶があれば、すぐにそれと分かるはずだ。でもそんなものは一度も見なかった。

「グラウ、ルディ、この間見せたでしょう? あの大きな瓶よ。何か匂いがしたりしない?」

 彼らに尋ねると、グラウの方がしばらく鼻をひくつかせていたかと思うと、不意に移動してある場所を示した。それは掃除用具入れの隣の、細身のひらき。中にはヴォルフが獣を捌く時に使う道具が入っている。血生臭くてちょっと怖いので、普段触れることのない場所だ。

「ここ?」

 グラウが示すままそこを開ければ、確かにいつぞやの瓶があった。中身もちゃんと残っている。

「あった……! グラウ、有り難う」

 よいしょとそれを引っ張り出せば、ルディが困ったようにリディアの服の裾を咥えて引く。

「なぁに、ルディ? …………心配してるの? 大丈夫よ、うんと薄めてちょっと呑むだけなんだから」

 宥めるように頭を撫でる。

「気持ちの、問題なの」

 きっと少しだけ楽になれる。背中を押してくれる。ほんの少しだけ、何か後押しがほしいだけなのだ。

 ついでに張り裂けそうな胸の痛みも鈍らせてほしいと、瓶の蓋を開けながらリディアはそう思った。











 反省している。

 自分の読みが甘かった。



 翌朝目覚めたリディアは酔いっぷりの割に吐き気も頭痛も訴えず、いつもと変わらない様子だった。それだけは不幸中の幸いと言えよう。

 しかしやはり予想していた通り、酔っている間のことは綺麗さっぱり忘れてくれていた。

 何かぽわっとなったと、それだけが彼女から引き出せた言葉で。

 あんなに振り回されたのに覚えていないことが恨めしいような、逆に覚えていなくてホッとしたような、実に複雑な心境に彼はなった。

 取り敢えず、弱いようだから酒は禁止だと言い渡した。どれだけ危険なのかしっかり教え込みたかったが、詳細を聞かせるのも忍びなくてできず、とにかく駄目だと言った。それほど未練もなかったのか、彼女も素直に頷いた。事の重さをまるで分かっていない無垢を見ていると不安になったが、この生活環境ではそう同じ過ちは繰り返さないだろうと思うことにする。



 そう言えば、閉口したことがもう一つ。



「あれには参った……」

 溜め息を吐きながら、ヴォルフは自分の首筋をさする。

 さすがに今はもう跡形もないが、ここにくっきり残っていた徴。

 翌朝、気付いた彼女が純粋に心配そうに問うてきた。



"それ、大丈夫?"

 彼女は何事もなかったかのように言った。

"どうしたのかしら。虫刺され? 薬は塗った?"

 付けられたことはあるのだから、 リディアはキスマークが何たるものかもちろん知っているが、ヴォルフの首にあるのがそうだとは認識できないらしかった。



 それもそうだ。ここにそれができるのは彼と彼女だけ。けれど、自分がつけただなんて、思いもしないのだろう。

 となれば必然、その跡は別の何かである。素面の彼女ではそう考えるのも仕方あるまい。



 けれど、何とも言えない気まずさが彼の中にずっしり残った。

 その気まずさは、意外にも長く尾を引くことになるのである。



 まともに目を見れば、思い出してしまう。あの日の甘く艶のある瞳。

 身体に触れれば、思い出してしまう。あの日無防備に晒された姿態。

 声を聞けば、思い出してしまう。あの日猫が鳴くように強請った言葉。

 するとヴォルフは自分の中に巣食う欲求のまま、ほとんど脊髄反射で手を伸ばしそうになる。それではいけないと、何とか頭の中から雑念を払おうとするが、これがまた難しい。

 自分の動揺を悟らせたくなくて、するとまるで(うぶ)な娘みたいに視線を逸らしてしまったりする始末。

 仕方なく、彼は自分が彼女に狼藉を働かないよに、なるべく外に出るように心がけた。



 自分が始めたことだ。自分で責任を取るべきである。

 頭を冷やして、心を落ち着け、邪な心は隅に追いやって彼女と過ごせるようにならなければ。



 という訳でヴォルフは連日縄張りを見廻り、周辺の勢力図を把握し、そうやってひたすらに時間を潰した。

 それほどまでにあの日の彼女には凶悪なまでの威力があったのだ。

 今の彼には日課のハグさえ毒である。



「そろそろ帰るか……」

 日の暮れた森の中で重い腰を上げる。薄暗い森でも、夜目の利く彼には全てがくっきり見える。

 辿る家路の先にいるのはこの世でただ一人の愛しい存在だというのに、心の靄が晴れない現実にヴォルフはまた大きく息を吐いた。











 明かりの灯る我が家に着いたヴォルフは、ひとつ深呼吸をしてから玄関扉を開けた。

「今帰った」

 彼女は入口開けてすぐのダイニングテーブルに、背をこちらに向けて座っており。

「…………ん?」

 異変には、すぐに気が付いた。人狼の並外れた嗅覚が、瞬時に拾い上げた。

「リディア!?」

 慌てて駆け寄ったテーブルの上には、隠したはずの瓶と空になったグラス。

「呑んだのか?」

 グラスの底には僅かに液体が残っている。問い質さずとも、呑んだことは明白だ。

 ザッと血の気が引く。今度また同じことが起きて、耐えきる自信が彼にはなかった。



 こんなことなら、迷わず全て捨ててしまえば良かった。せっかく丹精込めて作ってくれた酒だから、と自分の独酌用に残したりするのではなかった。ーーーー後悔しても後の祭り。

 リディアは、一体どれほど飲んでしまったのだろうか。瓶の中身は然程減っていないように思えたが、この身体は少量で十分酔ってしまう。



「何してるんだ!」

 焦って知らずと声も大きくなる。

「……ちょっとだけだもの」

 いじけたような声は呟きと言えるほど小さく。

 こちらを見ないから、表情で状態が判断できない。

「駄目だと言っただろう!」

 そう怒鳴るようにして、肩を掴む。こちらに向かせると、少し頬が染まり瞳が据わっているような気もしたが、曰くぽわっとした状態ではないような。

「な、なんで、そんな、言い方」

「約束を破ったからだろ!」

 正確に言えば怒っているのではなく焦っているのだが、訂正する余裕はなかった。

 とーーーーーーーー

「!」

 こちらを見上げるリディアの両の瞳にぷくりと雫が盛り上がる。

「リ、リディア」

 見る見る間に表面張力は限界に達し、大粒の涙が次から次へとぼろぼろ零れ落ちて行く。滅多なことで涙を見せないリディアがこうも簡単に涙腺を決壊させるなんて。

 感情が昂って、怒鳴るような真似をしてしまった。恐がらせてしまったに違いない。

「リディア、違うんだ。怒った訳じゃない。大きな声を出したりして悪かった」

 膝を付いて目線を合わせ、柔らかさを意識して語りかける。涙を拭おうと伸ばした手は、けれど嫌々と拒まれてしまう。

「心配したんだ。リディアは酒に弱い」

「心配、なんか。そんなこと、する、必要ない」

 しゃくり上げる声は、否定的な言葉を並べた。

「だ、だめなのは、お酒じゃないクセに」

「リディア?」

 何を言っているのか分からない。やはり酔って、訳が分からなくなっているのだろうか。

「私じゃ、もうないんでしょう」

「何がリディアじゃないんだ。あぁ、もう泣くな」

 そう宥めても、涙はとどまることを知らない。ヴォルフはこの間から全く思ったようにならない展開に焦る。

 彼女の涙に、彼は滅法弱い。上手い慰めの言葉など、一つも見つけられない。内心狼狽しながら抱きしめてやるくらいしかできることがないのだが、今日のリディアは触れることを拒んでいる。ーーーーどうしようもない。

 途方に暮れていたら、嗚咽の合間にリディアがとんでもないことを言い出した。



「ヴォルフの、大切な人は、もう私じゃ……ないんでしょう?」

「………………はぁ?」




 何だと? 今、この最愛の少女は、何と言った?




「む、無理しないで。私、のこと、嫌いになったなら、もう愛想が尽きて、飽きて冷めてしまったのなら、そう、言って、くれれば」

 言ってくれれば何なのだ。

 今自分は、何かとても怖いことを言われていないか。何か恐ろしい掛け違いが生じていないか。何か取り返しがつかないことになりかけていないか。

 彼女の言っていることは滅茶苦茶だ。



 嫌いになった? 愛想が尽きた? 飽きて冷めた?

 自分が、彼女に?



 ーーーーそんな馬鹿な。何をあり得ないことを言い出すのだ。



 けれど、絞り出すように言う彼女の言葉には確信がある。

 彼女は、自分の言葉の真実性を全く疑っていない。



 これは、マズイ。

 直感がそう叫んで、ザッと音を立てながら血の気が引く。



「リディア!」

 有無を言わさず、ヴォルフは力一杯その身体を抱き寄せた。

「飽きてない」

「うそ」

「飽きてない飽きてない、冷めてなんかいない」

 全力で否定する。

「じゃあ何が駄目なの」

「どうしてそんなことを言うんだ」

 肩口がどんどん濡れて、生温い感触に変わる。

「だって、だって……!」

 腕の中に閉じ込めた身体は、小刻みにずっと震えている。

「だってヴォルフ、目、目も合わせてくれない。私のこと、避けてる。いっしょ、に、いたくないんでしょう」

「それは……!」

 言葉にして、並べられてハッとする。

「違う。違うんだ。嫌になったとか、そういうことじゃなくて」

 むしろ好き過ぎて、こうなっているというか。

「毎日のハグだって、乗り気じゃない、もの。夜も……すぐに抜け出すでしょ。朝、目が覚めたら、いつも、一人なの。隣が、つ、冷たいの」

 そこまで気にしているとは思わなかった。全ては自制のための行為だった。リディアを守るための行為だと。

「いいの」

 それがとんだ自己満足にすり代わっていたとは。自分の感情ばかりに捕らわれて、想像だけで問題ないと、これが最善だと判断を下していた。彼女の気持ちを、現実には見ていなかった。

 彼女の側から見たら、それはただただ一方的に突き放されるだけの行為だったのだ。

 だから、嫌われたとか飽きたとか、そういう解釈が生まれてしまったのだ。失敗を取り戻すつもりが、更なる手落ちを生んでいる。

 そして彼女の解釈は、更にヴォルフの想像できる範疇の遥か斜め上まで及んでいた。



「……ほかに、いるんでしょう?」

「ーーーー何だって?」

 聞き捨てならないことを言われた気がする。

「だ、だから」

 リディアが彼の肩口から顔を上げた。特大の痛みを堪えるようにして、ぎゅうっと言葉を絞り出す。



「私の、他に、別の人がいるんで、しょ?」




 心変わりだと!?




 心変わりなんて、そんなことまで疑われているのか?

 ここまで来ると、逆に失礼な気もしてくる。彼女は自分の心を、その程度と思っているのか。

「やめてくれ」

 第一、こんな閉じた世界で何を馬鹿なことを。世界が無限に広がっていても、人狼なんかを手放しで愛してくれる存在はまずいない。

「冗談でもそんなことを言ってくれるな。そんな、あり得ない」

 なのに、彼女は自分以外をこうも簡単に想定する。自分がどれだけ奇特な存在なのか、まるで理解していない。



 ーーーーいや、でもそんな風に追い詰めたのは自分か。



 今一度、はっきりさせなくては。



「愛している。リディア、リディアだけを愛している。今も、これからも、変わらずずっと。絶対にずっとだと、何を懸けても誓える」

 もう何事にも彼女の認識が揺らがないように。

「愛しているんだ」

 そっと彼女の身体を少し引き離し、しっかりとその目を見つめて伝える。

「………………」

 それでも彼女はどこか蟠りのある表情をする。言葉が真っ直ぐ届いていない。

「何がそんなに信じられない?」

 涙はまだ止まらず、リディアは数瞬の葛藤の末叫ぶように言った。

「だって! だって、首筋……!」

「は? 首筋? 首筋が何だって……」

 自分のそこに手を触れて、そして思い出す。そうだ、ここには。

「だってこの間のあれ、キスマークでしょ。そうでしょ」

 気付いたと思ったら、何という勘違いを。



「つけたのは、リディアだ!」



 思わずまたヴォルフは大きな声で叫んだ。

 あまりに驚いたためか、あんなに零れていた涙がひょん、と止まる。



「………………う、嘘よ!」

 一瞬虚を突かれるも、すぐさま彼女も叫び返した。

「ホントだ!」

 言い切るが、これっぽっちも信じられないらしい。しどろもどろになりながら彼女は言う。

「わ、私、威張ることじゃないけど、とてもじゃないけどそんなことできないもの! した覚え、とんとないんだから。だから、だから……」



 他の女の影を疑ったのか。



「だから酒は禁止だと、絶対駄目だと言ったんだ!」

「……………………」

 心の底からそう叫ぶと、さすがにその真剣さが伝わったのか、リディアも口をつぐむ。

「……………………本当に?」

 そして恐る恐るといった口調でそう訊ねてきた。

「私、あの日、何をしたの」

「それは……」

 どう説明するべきだろうか。誤解は解きたいしあの日の自分の苦悩を知ってほしいとも思うが、あまり彼女を追い詰めたくもない。

「ヴォルフ」

 あまり詳細に語って聞かさなければそれでいいだろうか。

 ボソリとヴォルフは呟き始める。

「……二杯目の最初で急に酔いが回って、甘えて擦り寄って離れなくなった」

「わ、私が……?」

「そう。それからその、首筋に、リディアから………そういうことだ」

「わ、私が、あれを」

 信じる気になったのか、ボッと顔が真っ赤に染まる。

「わ、私が……」

「初めてにしては、すごく上手かった」

「も、もう! 何てこと言うの!!」

 ポカリとこちらの胸を叩くリディアに、先ほどまでの悲壮感はもうなく。

「褒めたんだが」

 ヴォルフはようやくホッと息を吐く。

「悪かった、リディア。そんな風に誤解されるとは思わなかったんだ」

 でもよくよく考えると、自分の行動は他に女ができたというのはともかく、確かに気持ちが冷めたとかそういう風に思わせても仕方がないものだったかもしれない。

「その、あの日のことを思い出す自分抑える自信がなかった」

 頭で考えるより先に手が伸びていることもざらだった。だから距離を取れば良いと思った。

 でもそれだけで、相手(リディア)がどう思うかまで考えなかったのだ。



 度々思い知らされるが、やはり自分は言葉が足りないし、想像力も足りない。

 他者と空間を、時間を、心を共有するのに、どこか鈍感なのかもしれない。



 人狼と、人間に違い。

 それを、たまに痛感することがある。自分と彼女の違いにふっと不安が過る。自分で、いいのだろうか、と。



「リディア、悪かった。でも、俺の気持ちは変わらない。疑わないでくれ」



 でも決めたのだ。彼女があんな目に遭いながらも、それでも人狼の自分を選んでくれたから、人間の社会を捨ててくれたから。

 だからヴォルフは二度と彼女の手を離さない。離さずに、不安も何もかも丸ごと抱きしめて生きていく。



「ほ、本当に? 嘘じゃない? 私のこと、嫌になってないの?」

「なってない」

 心など、もう固まって、どうにもならないくらいに決まっているのだ。

「リディア、愛している。ずっと変わらない。そんなことーーーー知っていただろう?」

 止まったと思ったのに、またリディアの瞳からぼろぼろと涙の粒が零れ始めた。

「リディア、泣くな」

 今度のは、多分安堵がもたらした涙だ。あるいは嬉し涙というもの。けれど、やはり泣かれると落ち着かない。

「リディア……」

 そっと頬に唇を寄せる。リディアは嫌がらなかった。

 一度口を離してから、もう一度その柔らかな頬に触れる。そっと舌先でその雫を掬い上げれば、しょっぱさが彼女の辛さや不安を教えるようだった。

「リディア」

 小さな身体を引き寄せて尋ねる。

「どうすれば良い?」

 どうすれば、泣き止んでくれるのか。

 どうすれば、今日までの不安と痛みを和らげられるのか。

「俺にどうしてほしい?」

 不安が堰を切ったからか、それとも酒のせいか、今夜の彼女はいつになく素直だった。途切れ途切れに、でも本心だけが紡がれる。

「さ、寂しくて。ここ最近ずっと、寂しくて寂しくて堪らなかったの。ヴォルフを失ったら、もう生き方が分からない。それくらい、あなたが私の一番なの」

 リディアの腕が、ヴォルフの首に回る。

「ぎゅっとしてて。今夜は、私の側から離れないで」

「分かった。望むだけ、いくらでも」

 彼は甘く囁く。

 そのまま抱き上げ寝室へ運び、抱き締められたまま自分も一緒に横になる。



 分かっている。

 ぎゅっとして、と言われれば望まれているのは本当にそれだけだ。

 彼は違わず今夜は望まれたことだけを果たすつもりでいる。

 生殺しだ、そうは思うけれど。

 けれどこの世で一番愛しい彼女が健やかに眠りにつけるのなら、今夜はもう何も言うまい。



 ヴォルフは柔らかなその身体をそっと包み込み、すっぽり収まったその頭のてっぺんに気付かれないように秘密のキスを落とした。











 夜半、浮上した意識につられて目を開ける。するとそこにはちゃんと彼がいて、リディアは心底安堵する。

 昨日まで、夜中にふと目覚めてもそこはすっかり空だった。シーツはとうに冷えていて、彼が早々に自分の隣を離れたことを教えた。

 今回の件は、色々と誤解や行き違いがあったようだけど、あの時の不安や焦燥は本物だ。

 自分もヴォルフも互いを離すつもりはないけれど、相手の気持ちに胡座をかいてはいけないし、必要なことは口に出して確かめなければならない。

 そう、リディアはつい臆病風に吹かれて、言葉を引っ込めてしまう。ちゃんと聞けば拗れなかっただろうに、怠ってしまう。

 それは多分、彼のことは信じているけれど、自分のことは信じきれていないからだ。



 時折蘇る不安。

 自分が、いつかまた、何か特別不幸なことを呼び込んでしまうのではないかという呪いのような不安。

 でも、いつまでもそれに捕らわれていてはいけない。

 リディアは、彼を一等幸せにしたいのだ。したいのなら、自分を真っ黒な沼に突き落とすようなことをしてはいけない。そことは正反対の方へ常に目を向けるべきなのだ。



「………………」

 そっと彼の腕から抜け出す。上半身だけを起こした状態で、暗闇の中ぼんやりと見えるその寝姿を確認する。今夜は月明かりがあるので、少し経つと目が慣れてきた。



 今回は、悪いことをした。記憶がないのでどこか信じられない気持ちも残っているが、大層破廉恥なことを仕出かしたらしい。聞いた話を思い出すだけでも火を吹くように恥ずかしい。

 自分がやらかしたことで、彼を振り回してしまったのだ。ヴォルフは自分のために、色々と抑えてくれていただけだと言うのに、あろうことかリディアは二心を疑ってしまった。



 これから、お酒には、気を付けなければ。



 見下ろす彼の首筋に例の跡はもうない。

 本当に自分が……? と不思議な気持ちになって、つっと指先でなぞってみた。ーーーーまるで何も思い出せない。



 とーーーー



「くすぐったい」



 パチリと眠っていたはずのヴォルフの瞳が、リディアを捉えた。



「っ!!」

 暗闇の中で、その瞳は薄く光っている。

 何か言わなきゃと思ったが、ヴォルフはそのままリディアの腕を引いて、元のようにすっぽり自分の腕の中に収めてしまった。

「眠れないか?」

「そんなことは」

「心配しなくても、どこにもいかない」

「うん……」

 胸に当たった耳が確かな鼓動を拾う。心地好い、安心できるリズム。そして同時にこの世で一番リディアを惑わせときめかせる。



 彼といると時折ぐらりと心が揺れる。

 酒など呑まずとも、うっとりと甘美な空気に(とろ)めいてしまう。



 腕の中で身動ぎすると、胸に当たっていた頬が肩口まで移動してしまった。

「……………………」

 少し考えてから、実行に移す。

「……リディ?」

 二度目も上手にできるかは分からないけれど。

「酔っているのか?」

 暫くの後唇を離すが、この暗さでははっきりと成果は見えない。

「…………酔ってないわ」

 もぞもぞとまた胸の辺りまで下がって、丸まってから小さく答える。



 そう、酔ってなどいない。きっちり素面だ。

 今回、リディアは本当の本当に薄めたものしか口にしなかったのだ。いくら自分が弱いからって、こんな夜半まで残るほどのものではない。



 だから、今のは自分の意思。



 でもそうはっきりさせるにはまだ度胸が足りなくて、リディアは優しい腕の中で言い訳のように口にした。

「酔ってないけど、寝ぼけてるの」

 頭の上で微かに笑う気配。

「これで終いか」

 その声を耳に流し込むだけで、リディアは甘い甘い幸福感に浸っていられる。

「つ、続きは、また今度」

「今度があるなら、それで良い」

 この腕の中が、この世で一番、リディアを受け入れてくれる場所だから。



 今夜はきっと、良い夢を見られるだろう。







「リディア、何してるんだ……!」

「え? 何?」

「今、鍋に何を入れた!?」

「え、料理酒だけど」

「酒は駄目だとあれほど言っただろう!」

「料理酒は大丈夫よ。煮込んでいる間にアルコール分は蒸発するもの。それに、今までだって、何度も使ってるけど何ともないでしょう?」

「そ、そうか…………いや、でもしかし」

「ヴォルフは心配性ねぇ」




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



リディアは料理酒では酔いません。アルコール分飛んでるので。でもボンボンショコラとかでは酔い出すから油断ならない。

ちなみにレナは、お酒には強い方です。ただ一定量超えると、途端に寝落ちる。その際傍にあったものをなんでと抱き枕にするクセがあるので、アルベルトなんかはそれを狙っている節がある……



突然の更新にお付き合いくださり有り難うございました。

完結させてからしばらく経ちますが、今も閲覧して頂いている様子があったり、嬉しい限りです!

今回の番外編も楽しんで頂けたなら幸いです。


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