第29話 主体の不在
観測の起点が消えるということは、「誰かが見ている」という前提が崩れるということだ。
湊はそれを、もう思考ではなく感覚で理解していた。
そしてその感覚は、少しずつ“自分のものではない”気がしてくる。
朝の教室。
湊は椅子に座っている。
だが「座っている」という事実が、誰のものか分からない。
自分の体のはずなのに、所有感がない。
「ねえ湊」
レイの声がする。
だが今度は、声の方向がない。
「今さ……私、誰?」
湊は一瞬固まる。
「……何言ってんだよ」
レイは真剣な顔のまま続ける。
「“私”って、まだある?」
湊は答えようとして、言葉が出ない。
言葉が崩れたあと、次に崩れるのは「主語」だった。
そのとき九条が入ってくる。
湊はすぐに聞く。
「なあ九条」
「レイがおかしい」
九条は止まる。
「正常だ」
レイは少しだけ笑う。
でも安心の笑いではない。
「正常って、誰の正常?」
九条は静かに言う。
「主体が消えている」
沈黙。
湊は眉をひそめる。
「主体って何だよ」
九条は答える。
「“誰がそれを見ているか”という前提」
レイが小さく言う。
「じゃあ今……誰も見てないの?」
九条は少しだけ間を置く。
「見ている“ことになっている”だけだ」
その瞬間。
教室の中の全員の視線が、一斉に“どこにも向いていない状態”になる。
目は開いているのに、対象がない。
湊は息を呑む。
(今、見てるのは誰だ)
自分の思考すら、自分のものではない気がする。
レイが呟く。
「私、今……考えてる?」
湊は答えられない。
九条は静かに言う。
「主体が消えると、思考は漂流する」
昼休み。
廊下。
湊は歩く。
だが「歩いている」という確信がない。
動いているのか、動かされているのか分からない。
レイが隣にいる。
しかし「隣」という関係が成立していない。
「なあ」
湊は言う。
「俺って、まだ俺か?」
その問いに、誰も即答できない。
九条が静かに言う。
「主体はもう固定されていない」
レイが震える声で言う。
「じゃあ……私たちって何?」
九条は少しだけ間を置く。
「観測の残響だ」
沈黙。
その瞬間。
廊下の奥に、湊でもレイでも九条でもない“誰かの視界”が一瞬だけ重なる。
それを見たのは誰でもない。
だが確かに「見られていた」。
すぐに消える。
湊は小さく言う。
「今の……俺じゃない」
レイも同時に言う。
「私でもない」
九条は言う。
「主体は分裂ではなく消失に向かっている」
世界はまだ続いている。
だが確実に――
“見る者が消え、見られるだけの世界に変わり始めている”。
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