第1話 余白の発生
朝というものは、本来こんなにも“普通”だったはずだ。
湊は駅へ向かう道を歩きながら、そう思っていた。
信号は青に変わり、人は流れ、車は止まり、また動き出す。
スマホを見ながら歩く会社員、イヤホンをつけた学生、コンビニから出てくる老人。
どこにでもある、何の変哲もない朝。
――そのはずだった。
だが、その瞬間。
世界が、一拍だけ遅れた。
「……あれ?」
湊は思わず足を止める。
信号は動いている。車も走っている。人も誰も止まっていない。
それなのに――
“そこだけ、何も起きていない時間があった”
音でもない。
静寂でもない。
ただ、現実から一瞬だけ“抜け落ちた”ような感覚。
湊は周囲を見渡す。
「今の……気のせいじゃないよな」
だが当然、誰も気づいていない。
世界は何事もなかったように進んでいる。
その“普通さ”が逆に不気味だった。
昼休み。
湊は友人たちにさっきのことを話した。
「なあ、今日さ。信号のとこで変なことなかった?」
「は?何それ」
「一瞬、時間止まった感じ」
友人は笑う。
「寝不足じゃね?」
「疲れてんだよお前」
そんなもので片付けられる。
普通なら、それで終わる話だった。
だが湊は、あの感覚をまだ覚えている。
“抜けた”のではなく、“削られた”ような違和感。
放課後。
教室の扉が開く音がした。
「それは“余白”だ」
湊が振り向くと、そこに立っていたのは九条だった。
無表情で、感情の読めない男。
「余白?」
湊が聞き返すと、九条は窓の外を見ながら続けた。
「世界には、まだ確定していない部分がある」
「そこが一瞬だけ表に出る」
湊は眉をひそめる。
「何言ってんだそれ」
九条は視線を動かさない。
「今、お前が感じた違和感はそれだ」
湊は笑う。
「じゃあそれ、バグじゃねぇの?」
九条は否定しない。
「似ているが違う」
「これは“仕様”だ」
その言葉の意味は、その時点では分からなかった。
ただ――嫌な予感だけが残る。
夜。
帰り道の街灯の下。
湊はもう一度それを見た。
今度は信号ではない。
人だ。
通行人の一人が、一瞬だけ“薄くなる”。
輪郭が消えるのではない。
存在そのものが、少しだけ抜け落ちる。
「……は?」
次の瞬間、その人は何事もなかったように歩いている。
気づいているのは、自分だけ。
湊は立ち止まる。
「何だよこれ……」
そのとき、スマホが震えた。
知らない番号から通知が来る。
『余白税が発生しています』
「……は?」
湊が顔を上げた瞬間。
通知は消えていた。
履歴にも残らない。
ただ一つだけ、残っている感覚がある。
この世界は、何かを“削って”動いている。
翌日。
九条は何事もなかったように言った。
「見え始めたか」
「……何がだよ」
湊の問いに、九条は静かに答える。
「余白だ」
その単語が、やけに重く感じられた。
その瞬間。
教室の時計が一秒だけ止まる。
誰も気づかない。
ただ湊だけが気づく。
止まった“一秒の後”、空気がわずかに軽くなっていた。
まるで――
何かが、消費されたように。
九条が小さく呟く。
「もう始まっている」
湊は顔をしかめる。
「何がだよ」
九条は窓の外を見たまま言った。
「余白税だ」
その言葉の意味は、まだ誰も知らない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この世界は――
“何かを差し引かれながら、成立している”
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