海
5
「信吾、そこ急ぎすぎ! 颯は遅れてる、気持ち急いで! 夏音、そこはもうちょっと優しく!」
この日も月末に迫ったイベント用の楽曲を練習する四人。
話によると初めてこのメンバーで作った曲らしく、拙いながらも一生懸命な『若さ』のようなものが伝わってくる。
『赤瀬新』にとっても思い入れの深い曲のはずなのだが、今のところこの曲に関する記憶は戻ってきていない。
「とりあえず今日はこの辺で終わっておこう。お疲れ様……うぅ、喉が痛い」
新は冷蔵庫からペットボトルを取り出して蓋を開け、冷えた液体を口内に注ぎ込む。
さすがに地下室に冷蔵庫が置いてあることには驚かなくなっていたが、新の部屋に置いてある物よりずっと大きいのは何だか癇に障る。本当に内側からは開けられないのかお前の身で確かめてやろうかと新は意味もなく颯を睨み付けた。
「何で君がボーカルの私より喉を酷使してるの?」
そんな隣で軽く息を切らしながらも微笑んでみせる夏音。
新は空いている手で夏音のペットボトルを取り出し、投げて渡してやると「ありがと」と小さく返事が返ってきた。
「しかし曲に対しての情熱は記憶を失くしても変わりませんね、新君は」
「え?」
「馬鹿、記憶のことは言うなって言っただろうが!」
「そ、そうでした! すみません新君」
恐らく昨日のことを思ってのことだろう。信吾に怒られ、新に頭を下げる颯。
「大丈夫だよ二人とも。オレも気持ちの整理はついたから気にするな。あんまり後ろばっかり見てても前には進めないしな」
そう、チームとして気持ちを一つにしなければいけない。それなのに新ばかり過去に囚われていては良い音楽など出来るはずが無いのだ。
「そういえば皆さん、丁度その『気持ちを一つに』という点で少し提案があるんですが」
颯は顔を上げて、メンバーの全員を見渡すようにして言った。
「海に行きませんか?」
「海?」
「いいね、海! 行きたい!」
突然の「海」発言にかなり乗り気な様子の夏音に、それとは対照的で怪訝そうな顔をする信吾。
「でもどうして突然海?」
「はい。新君が通り魔に遭って記憶を失くされ、恐らく精神的にも相当負担がかかっている状態だと思われます。ですので、ここで一度メンバー全員で思い切り遊んで気持ちをリフレッシュすると共に、さらなる絆強化を図り音楽に結び付けようというものです」
「なるほど……」
普通に良い案だと思った新に対し、不服そうにしている者が一名。
「だが颯、イベントも近いのにあまり予定と違うことをしたら――」
「イベントも近いからこそ、ですよ信吾君。ここは一度いつもと違うことをするべきです」
「いつもと違うこと?」
その『いつも』を知らない新は二人の会話に割り込む形で質問する。
「あ、ああ。えっと、それはだな……」
「ここは僕が説明しましょう。月末に控えたインディーズライブイベント、それが毎年行われていることは昨日夏音さんが言っていた通りですが、お恥ずかしい話、僕達は大学卒業後から二年連続で出場しては芳しい結果を残せていません。さらに今年度から形式も変わり、全グループ演奏後に観客の皆さんから最も多く支持を集められたチームは無条件でメジャーデビューが約束されるそうです。恐らく例年より出場者も増え、争いも一層厳しくなることでしょう」
「だからこそもっと練習を――」
「『だからこそ』、なんですよ信吾君。だからこそ一度ここで気持ちをリセットするんです。例年やって駄目なのに毎年同じ練習を繰り返して優勝なんて出来るはずがありません。ここで何か変化をつける必要があると思うんです」
「……気持ちのリセット」
ぼそりと新はその部分を小さな声で繰り返した。
何故かは分からない。それでも何か自分の中で引っかかるものがあった。
「それに、少し遠出をしますが人気ビーチの近くには僕の別荘もありますから現地で練習も出来ますよ」
「今さらっと別荘とか言ったか」
つい引っかかりも忘れて新は反応してしまう。
「楽器も向こうに一通り揃ってます」
さすが金持ち。
「でも一応そのギターも持って行ってください新君。過去の君がとても気に入っていた代物ですから。何故かいつもここに置いていっていますが、それを購入したのも君が一生懸命アルバイトで稼いだお金で、ですからね」
「そうなのか……」
ここに置いていっているのはマンション暮らしだからだと一瞬思ったが、もしかしたら大事な物だからこそ安全な場所に保管したいと『赤瀬新』は思ったのかもしれない。
この家セキュリティ厳しそうだし。
「まあ、僕なら働くまでもなくもっと上質な楽器が買えますけど」
「オレお前のこと嫌いだわ」
「記憶を失くす前の新君にも同じ事を言われました。どうしてでしょう?」
「それが分からない内はオレに好かれることも無いだろうな」
定番になりつつある二人のやり取り。
その後ろで二つの髪束を揺らしながら小声で「新と海、新と海!」と嬉しそうにしていた夏音だったが、そのことに新が気付くことは無かった。
6
数日後、八月七日。
四人は電車を乗り継いで五十川家の別荘近くにある人気ビーチへやってきた。
「海だああああああああああ!!」
海に向かって「海」と叫ぶ大人。
滑稽である。
「夏音、周り見てみろよ。物凄くたくさんの人達が物凄い勢いで怪訝そうに白い目を向けてるぞ」
週末というのもあり、ビーチは遊びに来た人達で大いに賑わっている。
お前は水族館に行った時、電車の中で何も学ばなかったのかと心の中で続ける新。
「う、うぅ……」
今更恥ずかしそうに顔を赤らめる夏音。
仕方ないから話題を変えて気を紛らわせてやるか、と新は思い夏音の頭を指差した。
「今日はお団子なんだな」
夏音の髪は頭頂部で束ねて丸め、お団子状に結われている。俗に言う『お団子ヘア』というものだった。
布面積の広く真っ白なビキニと相まって清楚な印象を見る者に与えている。
「そういえば最近よく髪型変えてますよね、夏音さん。以前はずっとロングヘアのままだったのに何か心境の変化でもあったんですか?」
颯が夏音に訊いた。
さすがに泳ぐ時は眼鏡を外すみたいだが、正直普段からは想像がつかないくらいに格好良い。
眼鏡を取ったら美青年とか少女漫画かよ、とツッコミを入れたいところだったが、褒めるようなことを言うのは個人的にとても癪だったので心の中に留める新。
「え、そうかな? 別にそんなつもりはないけど」
「もしかしてこの前オレが髪型を褒めたからか……?」
「おっ、そうなのか?」
後ろから浮輪の空気を入れ終わった信吾が合流する。
信吾は普段の姿からも想像出来るように、結構筋肉質な身体だ。
と、言うのも実家で父親が『ホッタモータース』なるバイク屋を経営しているらしく、普段はそこを手伝っているらしい。力仕事も多く、自然とついた筋肉なんだとか。
「い、いや違うよ!? それに褒めてはなかったじゃん、感想聞こうとしたら話逸らしたくせに!」
「そうだったっけ?」
大きく首を上下に振る夏音。
「おやおや、いつの間にお二人はそんな仲になっていたのですか?」
にたりとした笑みを浮かべる颯。
「ちょっ、そんなんじゃないってば! それにこれは泳ぎ易くする為にまとめただけであって――」
「新君も隅に置けませんねえ、このこのっ」
否定する夏音の言葉を無視して新を肘で小突く颯。
「ほらほら、信吾君も何か言ってあげましょうよ」
「いや、その歳になってそれは無いと思うぞ、颯」
「……信吾君ノリ悪いですよ。ね、新君」
「お前嫌い」
「何故!?」
「それにしても暑いなあ」
「急に話題を変えないでください!」
「何でも今年一番の猛暑日だってよ。今朝のワイドショーで言ってたぞ」
「信吾君までやめてくださいよ!」
そんなやり取りの後「早く泳ごうよ」という夏音の言葉に従って海へ歩き出した一行だったが、そこで後ろの方から知らない声が聞こえてきた。
「――おーにーいーちゃーん!!」
声質的に高校生くらいの女の子だろうか。どうやらビーチに居る兄に呼びかけているらしい。
微笑ましいな、なんて思いながら一人駆けて行った夏音を追いかけようとしたところで、
「――新お兄ちゃん!!」
「がっ!?」
突然背中に衝撃を受け、新は柔らかな砂地に倒れ込んだ。
誰かに突き飛ばされたのだと気付いた時にはもう遅い。
立ち上がろうとしたところで肩を掴まれて無理矢理仰向けにさせられ、流れるような動作で次の瞬間にはマウントポジションを取られていた。
「何で無視するの新お兄ちゃん! 久しぶりに会うからってわたしのこと忘れちゃった? 約束、果たしに来たよ」
「……なっ」
これはまずい、と新は思った。
記憶を失う前の知人に見つかってしまった。
ある意味で最も避けたい事態だった。
広がってしまった時間のズレは人間関係の不和を引き起こす。
あの時信吾が機転を利かせてくれたお陰で何とかなったものの、事情を知っているバンドメンバー達との関係すら壊しかけたのだ。それなのに何も知らない、果てには約束だなんて――ちょっと待て。
今『新お兄ちゃん』と言ったか。
「何をしているのですか!」
「あ、颯にい。そんなところに居たんだ」
その様子を見て真っ先に反応した颯の声でようやく彼の存在を認識したかのような謎の少女。
「感動の再会は後です。とにかく色々説明しないといけないことがあるので一度そこを退いてください」
「えー」
抵抗する謎の少女。
しかし、颯の面持ちからのっぴきならない事情を察したのか、
「ちぇ、何かよく分かんないけど分かったよ」
と腰を上げ、新から離れた。
颯のお陰で身体の自由を取り戻したはいいが、この嵐のような女の子は一体。
「紹介します新君。この子は『五十川雪』――」
状況が飲み込めないといった様子できょとんとする少女は、夏音とは対照的に背中を大胆に魅せる少々扇情的なデザインの真っ黒な三角ビキニを着用し、ツインテールに結われたその髪は海風に揺れていた。
「――僕の妹です」
あまりにも突飛な展開に言葉を失う新。
その後ろで同じく一言も発する余裕が無いとばかりに、夏音はまるで金魚のように口をぱくぱく開閉させていた。