第19話 (最終話) 向日葵畑
そこは、一面の向日葵畑――。
遠くから、ミンミンゼミの大合唱が聞こえて来る。
麦わら帽子をかぶった、白いワンピースの華奢なシルエットが振り返る。
「この辺で良いかしら? あっ?」
柔らかい向日葵畑の土に、足下を取られて転けそうになる。
「うわあっ!?」
カメラを構えて、写真を撮ろうとしていた拓郎は、カメラを放り出して脱兎のごとく駆け寄り、彼女を抱え込む。
「……頼む――。頼むから、転けるのだけはやめてくれ。寿命が縮まる」
は〜っ、と心からの安堵の溜息が、思わず漏れる。
「あの…カメラ」
藍が、すまなそうにカメラを指さす。
「!?」
藍をそっと離すと、拓郎は、放り出してしまった大事な商売道具のカメラを持ち上げた。
「大丈夫?壊れていない?」
「ああ、大丈夫だよ。心配ない。下が柔らかい土だからね。やっぱり、遠出は止めておいた方が良かったんじゃないか?」
カメラに付いた土をフーっと払いながら言う拓郎に、藍が笑顔で答える。
「水口先生が、少しは動いた方が良いって、許可を下さったんだもの。大丈夫よ。病気じゃないんだもの」
くすくす笑う。
あれから二年――。
あの後すぐに、日掛藍はコールドスリープに入り、今もあの研究所の中で、柏木に見守られながら長い眠りに就いている。
拓郎と藍は、ささやかながら友人達を招き、小さな結婚式をあげた。
藍には、戸籍がない――。
正式に夫婦になれる訳ではなかったが、二人共そんな事は気にはならなかった。
このまま二人で穏やかに日々を過ごせれば、それ以外望む事はなかったのだ。
「後二ヶ月か。早く出て来いよ、ちび助」
拓郎は、八ヶ月になる藍のお腹にそっと手を当てる。
「赤ちゃんが、出来たみたい」
涙ぐみながら藍にそう言われた時、拓郎は初めて神様を信じてみたくなった。
あの交通事故以来、「神も仏もいるものか」そう思って生きて来たのだ。
子供が出来たらしい事を、柏木に電話で知らせた時、彼は何も言わずにただ「おめでとう」と言ってくれた。
藍が妊娠した事自体が、奇跡の部類に入るのだ。その子供が健康体で無事生まれる保証は、何処にもなかった。
「産婦人科の医師を紹介するよ。私の大学の同期の女医なんだが……。ちょっと、変わった女性だが、腕も確かだし信用出来る人間だよ」
笑いを含んだ声で紹介してくれた「水口先生」は、美人でユニークな女医さんだった。
藍は何かと、彼女に相談に乗って貰っている。
「あのね、昔、柏木先生に迫った事があったんですって」
藍が楽しそうに話し始めた。
「えっ!? 誰が!?」
「水口先生が、柏木先生に!」
クスクス笑う。
「へぇ。それで?」
興味津々の拓郎の言葉に、藍が吹き出した。
「柏木先生、気が付かなかったんですって。その事に」
「“赤い顔してるけど熱でもあるのか?”って冷静に脈を取られたわ。昔っからあの御仁は鈍ちんの、研究バカだったわ!」
そう言って、水口先生は豪快に笑っていたそうだ。
「ほら、笑って!」
ファインダーの中の笑顔は、満ち足りて穏やかに輝いていた。
神様がいるのなら、どうかこの笑顔がいつまでも続きます様に――。
拓郎は、願いを込めてシャッターを切った――。
一面の向日葵が、夏の日差しを浴びて揺れている。
向日葵は、凛と太陽を見詰め続ける。
その光に焼かれても、顔を背けることは無い。
それはまるで、太陽に恋をしているかのようだった――。
おわり
初めまして。水樹裕です。
今回、初めてこちらに投稿させて頂きました。
初心者の拙い文章に、最後までお付き合い下さった皆さま、本当にありがとうございました。
実は、この他に番外編として、「柏木浩介」の若かりし頃の話しがあります。(全4話)
そちらで、またお目に掛かれたら幸いです。