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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
2章 出会い(港町・奴隷船編)
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-金色の戦士- 第5話 陥穽

『サンシャーラ神話物語』

陥穽


潮風には、常に腐りかけた魚の臓物と錆びた鉄の臭いが混じっていた。


北の港町。

濡れた石畳の路地裏から、キリークは灰色の街並みを静かに見つめていた。

かつての自由な交易を偲ばせる色鮮やかな看板は無惨に叩き落とされ、代わりに至る所で帝国の黒旗が重苦しく風に揺れている。

通りに活気はない。

泥にまみれた荷物を抱えた難民がうつむき歩き、物陰では裏商人たちが血走った目で何かを囁き合っている。

「頼む、もう少し負けてくれ。先月の検閲で、銀貨サマニは全部没収されちまったんだ……」

「無理言うな。港が封鎖されてるんだぞ。明日にはこのカビた麦すら手に入らなくなる」

「……おい、じゃあこんな硬貨で、どうやって生きていけっていうんだよ」

すがるような、押し殺した抗議の声が響く。だが、裏商人は答えず、硬貨を机へ弾いた。

建国王の横顔が刻まれた鉄血貨(※1)が鈍い音を立てて転がる。


チャリン――。


その乾いた音が響いた途端、露店の商人や難民たちは怯えたように揃って口を閉ざした。

やがて、規則正しい重い軍靴の音が石畳を叩き始める。

黒い甲冑に身を包んだ帝国の巡回兵たちが姿を現すと、通りにいた人々は弾かれたように道の端へ退き、誰も顔を上げようとしなかった。


藤色の髪を粗末な外套で隠し、キリークは物陰から港を見つめていた。

冷たい雨が降り始めている。

連れ去られた最愛の弟、マイトレーヤを追わなければならない。

だが、港に通じるすべての桟橋は、重武装の帝国兵によって完全に封鎖されていた。

桟橋には鎖が張られ、停泊中の船にはすべて帝国兵の見張りが立っていた。

外海へ出ようとした小舟が引き戻される光景も、一度や二度ではない。


(……時間がない)

琥珀色の瞳に焦燥の火が灯る。

『戦士』としての勘が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。

まともにぶつかれば勝ち目はない。

ならば、周囲に積まれた油樽に火を放ち、大混乱に乗じて強行突破するしかない。

それが唯一生き残るための定石だった。

頭では、痛いほど分かっている。

だが――キリークの脳裏に、泣き叫びながら馬車で連れ去られるマイトレーヤの幻影がフラッシュバックした。

「マイトレーヤ……!」


気づけば、彼女は定石も、戦術も、自身の命すらも投げ捨て、真っ直ぐに帝国兵たちの立つ木柵へ向かって駆け出していた。

油樽への工作などする余裕すらない。

ただ一秒でも早く弟のもとへ行きたいという、姉としての悲痛な狂気が、彼女から一切の冷静さを奪い去っていた。


「止まれ! 貴様、何者——」

「退いてッ!」

制止の声など耳に入らない。

最後まで聞かず、キリークは腰の直刀を抜き放った。

刃が風を切り、雨粒を弾き飛ばす。

柄に埋め込んだ人工魔石『火のファルサ』に魔力を叩き込むと、不純物の混じった石が悲鳴のような軋みを上げ、刀身に赤熱の炎が纏わりついた。


「アヴァニアの残党か! 槍衾を作れ、陣形を崩すな!」

帝国兵たちの動きに淀みはない。

怒号が飛び交うが、そこに恐怖はなく、ただ任務を遂行する職業軍人としての無機質な連携があった。

キリークは低く踏み込み、突き出された槍の柄を炎の刃で叩き斬る。

甲冑がぶつかり合う鈍い音。

泥水が跳ねる。

「ちぃっ!」

肩から強引に体当たりを叩き込み、一人を突き飛ばす。息を荒げながら、キリークはさらに前へ踏み込む。

ここで止まるわけにはいかなかった。


「下がれ。私がやる」


低い声と共に、軍靴の音が前に出た。

帝国の将校だった。

その腰にある鞘から引き抜かれたのは、鈍く輝く制式直剣。

その柄頭には、混ざり気のない天然の純晶『ラピス・プーラ(※2)』が異様な青白さを放っている。

「そこをどけえっ!」

キリークは渾身の力で、赤熱する直刀を振り下ろした。

将校は表情一つ変えず、ただ剣を斜めに構えた。

プーラから魔力を引き出す。

詠唱などない。

――直後、キリークの全身の産毛が逆立った。

五感を激しく威圧する、質量を持ったかのような殺気。

(……死ぬ!)

そう本能が理解した瞬間には、もう遅かった。

暴力的な魔力の奔流が、赤熱した直刀を真正面から叩き潰した。

———————衝撃。


火花すら散らなかった。

キリークのファルサが放つ熱量は、プーラの圧倒的な出力の前に、まるで水に溶ける煙のように掻き消された。

限界を超えたファルサが外殻を焼き切り、暴発を起こす。

「ぐあっ……!」

右腕を焼く激痛と共に、キリークの身体は宙を舞い、積まれた木箱の山へ叩きつけられた。

肺から空気が吐き出され、肋骨にヒビが入る嫌な音が響く。


「生け捕りにしろ。尋問にかける」

無機質な命令が下る。

迫り来る無数のブーツの足音。

キリークは血の混じった唾を吐き捨て、這うようにして立ち上がった。

勝てない。

このままでは殺されるどころか、捕らえられる。

キリークは咄嗟に腰の短刺を数本、周囲の油樽へ向けて投げつけた。

引火した炎と煙が視界を遮る一瞬の隙を突き、彼女は惨めに港の路地裏へと逃げ込んだ。


* * *


冷たい雨が、顔についた泥と血を洗い流していく。

人気のない暗い路地の奥で、キリークは壁に背を預け、荒い息を繰り返していた。

焼けた右手が震え、使い物にならなくなったファルサの灰が指の隙間からこぼれ落ちる。

(……私は、もう『戦士(アヴァニエ)』じゃない)

唇を噛みしめる。

王家と大地を護る『戦士(アヴァニエ)』としての誇りは、今や何の役にも立たなかった。

故郷を焼かれ、本物の力の前に叩き潰された自分は、ただの惨めな敗残兵だ。

だが、死ぬわけにはいかない。

どんなに泥水をすすろうとも、生き延びて、あの子を取り戻さなければならない。


「手酷くやられましたな、お嬢さん」

不意に、雨音に混じってくぐもった男の声が響いた。

キリークは弾かれたように顔を上げ、痛む右手で咄嗟に直刀の柄を握る。

暗がりの中に、外套のフードを深く被った怪しい男が立っていた。

「誰だ……帝国の手の者か?」

「滅相もない。私はただの通りすがりにございますよ」

男は警戒するキリークの殺気など気にする素振りも見せず、慇懃な態度で低く囁いた。

「あのような無茶をしてまで港の封鎖を抜けようとは……余程の事情がおありのようだ」

「……あなたには関係ない」

「ええ、詮索はいたしませんとも。ただ、もし海を渡りたいと切望されているのでしたら、良い口をご紹介できるかと思いましてね」

男の言葉に、キリークの琥珀色の瞳が見開かれた。

「……今夜、帝国の目を盗んで外海へ出航する船がございます。どうです? お乗りになりますかな」

その言葉を聞いた瞬間、キリークの胸の奥で希望の火が弾けた。

海を渡れる。

あの子に追いつける。

「本当ですか……っ!? 頼む、どうしてもその船に乗りたい!」

誇りも何もかも忘れ、キリークは弾かれたように身を乗り出した。

痛む右手のことすら忘れ、その声には隠しきれない安堵と喜びが震えている。

「結構。今はただ、お嬢さんのような若者を助けたいだけでございますから、対価は不要です。港の最下層、一番古い船着き場へ向かいなさい。急がねば、すぐに出てしまいますよ」

必死なキリークの様子を眺めながら、男はフードの奥で口元をいやらしく歪めた。


それだけ言い残し、暗がりの中でニヤリと笑った男は、足音もなく夜の路地裏へと消えていった。



※1鉄血貨デナリウス・レムリア

レムリア大帝国が支配の証として強制流通させた冷徹なる貨幣。その意匠には、建国の祖たる「兄殺しの弟」の横顔が刻まれており、帝国の覇道と血塗られた禁忌を民に強いる象徴に他ならない。(編纂者注)


※2ラピス・プーラ(プーラ)

神々の法則が宿る「原晶」。戦場や市井では短く「プーラ」と呼ばれ、天災級の魔法をノーリスクで引き出せる至宝として、帝国の傲慢な力と英雄たちの矜持を隔てる絶対的な格差レイヤーの象徴となっている。(編纂者注)


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