7-50 眠れる君へ
「失礼致します。メウェン様、ファルダン様がお見えになられました」
メウェンの執務室に入って来た従者がそう告げると、メウェンは一度ペンを置き従者の方に顔を向けた。
「分かった。ここへ通してくれ」
「承知致しました」
深くお辞儀をして立ち去る従者を見送った後、メウェンは物思いに耽るように窓に映る景色を見つめた。この時期特有の日差しはジリジリと身を焦がさんと照りつけ、時々陽炎のような靄が出来ている。そうこうしている内に先程の従者が再び執務室の扉を潜ると、その背後にファルダンを連れて来た。
「メウェン様、ファルダン様をご案内致しました」
「あぁご苦労、下がってくれ。ギルバート、茶の用意を」
「かしこまりました」
指示を終えた後、立ち上がったメウェンは執務室脇にある少し大きめの卓に付くようファルダンに促し、自身も対面へと座る。
「ほっほ、お久し振りですなメウェン殿。ここ最近の暑さで参ってはおりませんかな?」
「少々気怠さも感じるが大して支障はありません。というよりも、久し振りとは申しますがつい先月もここで顔を合わせたばかりでしょうに」
「ほっほ、そうでしたな。ただわたくしとしてはもっと頻繁に伺いたいところなのですが、中々そうは参りませんので」
微笑むファルダンとメウェンの元に、ギルバートがお茶を興すると二人は無言のまま一口、二口飲み込む。ゆらゆらと揺れ動くカップの中身をじっと見つめながらファルダンが「あれからもう四か月経ちますか」とポツリと呟くと、メウェンも苦々しそうに眉間に皺を寄せる。
「あれから瑞樹殿の様子は?」
「残念な事に全く変わっていません。まるで時が止まっているかのようだ」
決着のついたあの日から既に四か月が経過しており、その間ただ一度たりとも目を覚ます事も僅かでも動く事も無かった。
「方々手を回しているが……有効な手は何一つ見つからず、そもそも瑞樹の身に何が起こっているかさえ解明出来ていないのは……実に歯痒いばかりです」
フレイヤを始めとした六柱騎士や熟練魔導士、さらにはレヴァン等の教会の人間の助力を得て様々な手を試していた。それこそあらゆる解呪魔法や医療魔導士の技術と知識を結集させた解毒薬、果ては効くのか甚だ怪しい術や薬など、禁忌に触れる事さえ厭わなかったがどれも実を結ぶ事は無かった。
「やはりと申すべきか、つい先程外で瑞樹殿の従者を見かけましたがどうも暗い顔つきでしたからな」
「えぇ、あれ以来主の目が覚めないのです。全く世話が必要無いというのも彼らにとっては心労の種でしょう。……尤もそういう意味ではエレナが一番心配ですが」
「エレナ嬢も瑞樹殿と随分親しかったようですから、無理からぬ事でしょう」
瑞樹が戻って来てからというもの、ビリーを始めとした従者達の精神は疲弊するばかりだった。特にエレナは症状が顕著で、頬がこける等目に見えて酷い。いつ目覚めるのか、そもそも本当に目覚めるのか。信じたくても日が経つにつれて大きくなる疑心は、まだ幼さの残る彼女には随分と堪えるのだろう。
ともすれば、以前のように目が覚めずとも生理反応で生きていると確認出来たあの時の方が、遥かに良かったかもしれない。真に帰って来たと実感出来るまでどれ程待てば良いのか、目途すら立たないのだから。
「時にファルダン殿、例の残骸は全て回収したのですか?」
「えぇもう既に。幾らか翼膜が盗まれていたようですが些事に過ぎません」
「しかし従者から知らされて窓を見た時、目が飛び出る思いでしたよ」
「そうでしょうなぁ。かつて空を飛んだ人間など例に無く、そんな偉業を達成した者が目の前に居るのですから」
そう話すファルダンの微笑みがいつもより口角を上げると、多少羨ましい気持ちがあるのか対照的にメウェンの口角は下がっていた。
あの日、瑞樹を馬車に乗せて走り始めた直後にビリー達が見た空に大きな物体は、なんとファルダンが試行錯誤を重ねて作成した飛行船だった。一番の懸念材料だった気嚢部分は、イザベラとの取引で購入した翼竜の翼膜を徹底的に使用するという大富豪ならでは方法で無理矢理解決していた。
しかし肝心の操舵も、そもそも気嚢内部を安定させる事も根本的な経験が足りず、ならばと火と水の魔法で強制的に気嚢を浮かせ、風の魔法でこれまた強制的に操舵というかなり強引な手を打っていたのである。
そもそも何故あのような神がかり的とも言えるタイミングでファルダンの飛行船が間に合っていたかと言えば、王都と聖都を隔てる山を越える直前、偶然にもイザベラと遭遇していたからだった。ただ、イザベラも瑞樹の行動を先んじるべく数少ない従者を使っていたのを察するに、初めからファルダンとは密約を交わしていたのかもしれない。
こうしてファルダン指揮の下、瑞樹達を回収して復路を一気に短縮したのは良かったが王都の少し前で、実際にはもっと前から問題が一つ発生していた。
「……ねぇファルダン卿。さっきから地面が近付いて見えるのは気のせい?」
「ほっほ、気のせいではないでしょう。……恐らく本当に墜ち始めておりますな」
フレイヤの問いにファルダンの顔から微笑みが失せてしまう程事態は逼迫していた。恐らく魔法で強制的に制御していた気嚢部分が負荷に耐え切れなくなっていたのだろう。いくら最高品質の材料を見繕っても無理をすればこうなる、という得難い経験を得た訳だがことこの時に限っては二の次未満でしかない。
「ちょちょちょ……どうするのよ! こんな空の上じゃ逃げ場なんて無いわよ!?」
「むぅ、致し方ありませんな。本当は瑞樹殿の屋敷まで行きたいところでしたが、王都の手前辺りまでにしておきましょう。それまでは何とか保つ筈、と言うよりも各員何とか保たせるように」
率先して慌てるフレイヤはさておきと、ファルダンは魔導士達に発破を掛ける。いくら金で雇われた身とはいえ、信頼されているという自負もある。そんな気概を感じさせる程彼らから発せられた返事の意気は揚々としていた。
結果としては全員無事。辛うじて王都入り口まで到達していたが、最後の着陸は風魔法と水魔法で無理矢理勢いを殺すというもはや墜落と呼んだ方が相応しい代物であったようだ。
ともかく紆余曲折を経て今現在に至る訳だが、案の定大々的に飛行船を初使用、さらに初飛行とあらゆる立場からの注目の的となり、国からも尋問される目に遭うがそこはファルダン。かつて幾度となく行なった交渉を思い出し、あらゆる手練手管を以て飛行船の重要技術を隠し通せたのは流石交渉巧者と評するより他無い。
「ふぅ、もうこんな時間ですか。こう歳を重ねると時が経つのが早く感じますのう」
「えぇ本当に。歳は取りたくないものです」
二人がふと時計に視線を向けると早数時間が経っており、さてと席を立つべくファルダンは残っていたお茶をクイっと飲み干す。
「ではメウェン殿、わたくしはお暇させて頂きます。瑞樹殿を目覚めさせる方法は今後も継続して調査しておきます」
「感謝致します。こちらは正直な所手が詰まっておりましてね。……あれ以来使える伝手もめっきり少なくなってしまいましたから」
「確かにあの日から数か月経って随分マシになってきましたが、何処を見ても人手不足感は否めません。あのフレイヤ嬢ですら苦手な書物漁りを進んでやっている程ですからのう」
魔神が魔法でこの星を覆いつくした結果、残念ながら住まう人々にも甚大な被害が出ていた。火山や温泉がある町に住むファルダンはともかく、メウェン近辺の人間が無事なのは少々不本意な物言いがらも運が良かった。ただ、メウェンの遠縁の者や従者の家族等はその限りでなく、流れた涙は有史以来類を見ないだろう。
「まぁファルダン殿にとっては商機やもしれませんが」
「ほっほ、御冗談を。商いとは相手がいて初めて成り立つもの。国内はおろか地の果てにある遠き国ですら同様の惨状、当然自国の立て直しが優先されるので財布の紐が締まるばかりですぞ」
「おやこれは失敬」
「ほっほ、お気になさらず。ではわたくしはこれにて」
「えぇ、引き留めて申し訳ない。また何かありましたらお願い致します」
ギルバートを供にファルダンが部屋を出た後、メウェンはフゥと小さく溜め息を吐きながら窓の方へと歩み寄る。何かに視線を向ける訳でなく、考えが冴える訳でもない。ぼんやりとした思考が「こんな時に──」とうっかり漏れ出ようとしたが、ハッとした様子で口を一文字に噤んだ。
言葉の先は誰しもが思っている。それでもタブーを扱うかのように誰も口にしようとはしない。それを願い望むのは望みを叶えるのとほぼ同義。叶わぬ事だと理解しているからだろうか。
それから事態は進展が無いままさらに二か月が経ち、残暑の中に時折吹く風は人々の頬に冷たさを感じさせた。しかし瑞樹に近しい者達の心に吹き付ける風はさながら嵐のように激しく、凍えるような厳しいもの。出来得るあらゆる手段を試しても遂に効果は現れず、心に灯る希望の火は次第に小さく消えようとしていた。
僅かずつ平穏に戻っていく中で、まるで取り残されたかのような不安や、視界に端に映る他人の笑顔さえ恨めしく思っていたかもしれない。
そんな灰色の景色を眺めていたとある日の事。その日の当番はビリーだった。
「……あ~ぁ」
足取りは酷く重い。眠気のせいも若干あるだろうが、それ以上に瑞樹の元へ行くのが気乗りしなくなっていたらしい。無論嫌になったという訳ではないようで、朝、扉を開けたら目を覚ましている。そんな夢を見る事に疲れてしまったのだろうか。
「……瑞樹、入るぞ」
それでも一応扉をノックして声を掛けてはみるが案の定返事は無い。これもまたいつも通りと小さく溜め息を吐き、ドアノブに触れようとしたまさにその時──
「──どうぞ」
まさか。半ば虚ろだったビリーの目はカッと見開き、我を忘れた様子で思い切り扉を開ける。いつもならば朝に来る従者が開けているカーテンが今日に限って既に開いており、差し込む朝日で思わず視線を逸らしながら瞼を閉じるビリー。
そして薄く目を開けながら今一度視線を向けると、そこには確かにベッドの上で身体を起こしている影があった。
「おはよう、ビリー」
瑞樹の姿が、声がビリーにハッキリと届く。何故、どうして。頭の中では多くの疑問がグルグルと渦巻いたようだが、今はそんな事どうでも良いと全てを拭い去るかのように熱の帯びた目を乱暴に擦ると、ニカッと白い歯を出しながら笑みを浮かべる。
「……寝過ぎだ。この馬鹿野郎」