002話: バロンの邸宅と、消えた威厳
はじめましての方も、お馴染みの方も、お越しいただきありがとうございます!作者のティラピア池です。今日も皆様に楽しんでいただけるよう、気合を入れてお届けします!
牛車での移動は約一時間続いた。
残り僅かなHPを温存するため、静かに目を閉じてエネルギーを節約する。
やがて車輪の軋む音とともに牛車が完全に停止し、大規模な建造物の敷地に入ったことが分かった。
目を開け、御簾の隙間から外を覗く。
果てしない草原の景色は消え、綺麗に敷き詰められた石畳の街路と、東洋風の衣服を纏った人々が行き交う活気ある光景が広がっていた。
ようやく到着したらしい――国境の要塞都市、クロシマへ。
豪華な牛車は角を曲がり、輝く大鎧を纏った衛兵が守る鉄製の門をくぐった。
そして、小さくも非常に洗練された石造りの城館――バロン・ラインハルト・クロダの公式邸宅の前で止まった。
牛車が完全に止まると、邸宅の重厚な扉が左右に開いた。
武装した私兵、執事、そして黒の着物に白いエプロンを纏った侍女たちが整然と並び、主人の帰還を待っている。
「お帰りなさいませ、閣下」
一斉に深く頭を下げる。
だが、バロン・クロダに続いて牛車から降りてきた俺の姿を目にした瞬間、侍女や従者の間に激しい動揺が走った。
ボロボロに裂けた白い実験着、蒼白な顔、そして右腕を庇いながら歩く奇妙な少年。
まるで未知の生物を見るかのように、彼らは驚愕の表情を浮かべ、ひそひそと囁き合っている。
「さあ、中へ入りなさい、坊主。彼らの視線など気にする必要はない」
「自分の家だと思って、体が癒えるまでゆっくり休むといい」
バロン・クロダは父親のような温かい笑みを浮かべ、侍女たちの視線を遮るように俺を中へ促した。
軍の司令官としての威厳を保とうと、鋭い視線を意識しながら一歩踏み出す。
現地の勢力に毅然とした印象を与えたかった――が、左足が館の硬い御影石の床に触れた瞬間。
バキッ、ツィン。
「あ……くっ……」
反射的に自分の口を押さえる。
――なんてこった。
少年の腰に、突如として激しいギックリ腰が発症した。
『STR:-300』という伝説級の呪いが、軍人らしく背筋を伸ばそうとした無謀な試みを、即座に打ち砕いたのだ。
まるで、この世界の重力が脆弱な脊椎に突然三倍の負荷をかけたかのような衝撃だった。
わずか三秒しか保たなかった威厳ある表情は完全に崩壊した。
激痛に顔を引きつらせたポンコツな表情へと成り下がり、両手でしっかり腰を押さえる。
そのまま九十歳の後期高齢者のような前傾姿勢で、バロン・クロダの後をとぼとぼとついていくしかなかった。
それを見た侍女たちは、さらに深い哀れみと困惑の眼差しを俺に向けた。
――くそ。
威厳もクソもあったもんじゃないな。
応接間の格式高い椅子にようやく腰を下ろす。
痛む腰を必死に堪えながら、無理やり背筋を伸ばした。
ここからは「教授モード」の出番だ。
この世界での長期的な生存戦略を立てるため、マクロデータの収集は最優先事項である。
若い侍女が、銀のトレイに薬草の香り漂う温かい茶を運んできた。
彼女が退室するのを待ち、正面に座るバロン・クロダを真っ直ぐに見つめる。
「バロン・ラインハルト・クロダ閣下」
あえて声を低く、厳格なトーンで切り出した。
地球の軍人大佐としての威圧感が目から放たれ、茶を口に運ぼうとしていたバロン・クロダの手がぴたりと止まる。
彼は一瞬、俺の放つ異様な精神的圧力に圧倒されたようだった。
「まずは、閣下の海より深いご厚意に、心より感謝申し上げます」
視線を外さず、言葉を継ぐ。
「しかし、先述の災難の影響により、私は軽微な……記憶障害、あるいは時空認識のディスオリエンテーションを発症しております」
「つきましては、内的記憶を同期させるため、この世界の基本的なマクロデータについて、いくつかのパラメータを検証させていただきたく存じます」
バロン・クロダは呆気に取られたように何度も瞬きをした。
「パラメータ? 記憶の同期? ……お前の言葉遣いは、実に独特で学術的だな、坊主」
「一体、何が知りたいのだ?」
「まず第一に」
骨折を避けるため細心の注意を払いながら、左手の人差し指を一本立てる。
「この文明で広く流通している暦法、すなわち現地の暦において、現在は何年でしょうか?」
「また、地政学的マッピングにおいて、この都市クロシマはどの国家の主権下に属しているのでしょうか?」
軍の尋問官さながらの鋭い口調で、矢継ぎ早に質問を投げる。
バロン・クロダは小さく咳払いをし、青白い顔の少年が放つ、あまりに高知能で威圧的な視線に少し気圧されながらも答えた。
「う、うむ……現在は星暦742年だ、坊主」
「そして、私が治めるこのクロシマは、ヴィレンダール帝国、南方大国境領の管轄下にある」
「ヴィレンダール帝国、星暦742年……」
小さく呟き、脳内の学術メモリに正確に記録する。
「確認しました。第二の質問です、閣下」
「この主権国家における経済的標準化システム、すなわち通貨制度はどうなっておりますでしょうか?」
「合法的な交換媒体の種類、各デノミネーション間の為替比率、そして国内市場における通貨流通の規制について、ご教示いただきたく存じます」
その質問を聞いた瞬間、バロン・クロダの口が完全にぽかんと開いた。
この少年の質問の仕方は、あまりにも常軌を逸している。
記憶を失って遭難した一般の少年が、開口一番「デノミネーションの為替比率」だの「国内市場の通貨流通規制」だのと聞いてくるわけがない。
「わ、我が国で流通しているのは、帝国の商業ギルドが鋳造し、厳重に管理している貴金属貨幣だ」
バロン・クロダは少し困惑しながらも答える。
「基本は極めて単純だ」
「最も価値の低い『銅貨』、中位の『銀貨』、最高位の『金貨』」
「為替比率は……銅貨百枚が銀貨一枚に相当し、銀貨百枚が金貨一枚に相当する」
「これで市場での買い物、武器の購入、宿の手配ができる」
――なるほどな。
貴金属を基準とした十進法か。
深刻な面持ちで何度も頷く。
財政赤字を分析する財務大臣のような顔で、俺は口を開いた。
「この時代の文明水準としては、非常にコンベンショナルだが効率的なシステムですね」
そのエリート然とした分析を終えた直後、反射的に左手を服のポケットに滑り込ませた。
現金の所持額を確認するために。
そして導き出された結果は――「絶対的皆無」。
輝く金貨どころか、錆びた銅貨一枚すら持っていない。
地球から持ってきたものは、身に纏う衣服の繊維以外、何一つないのだ。
レベルはマイナス、体の強度は濡れティッシュ以下、頭痛は激しく――そして今や、財政状況までもが絶対的貧困の奈落に叩き落とされた。
その瞬間、軍人の威厳も教授の知性も、俺の顔から一瞬にして霧散した。
口が半開きになり、瞳から光が消え、顔は完全な「超弩級のポンコツ面」へと変貌する。
異世界の天井の木目を、虚ろな目で呆然と見つめることしかできなかった。
――ああ、くそ。
金がなきゃ、俺の戦術脳も宝の持ち腐れだな。
さっきまでカリスマ的な天才のオーラを放っていた少年が、突如として魂の抜けたような呆け顔で天井を見つめ、絶望に浸っている。
それを見たバロン・クロダの「聖人級の優しさ」が、再び疼いた。
バロンは深く息を吐き、侍女を呼んでいくつか指示を出した。
数分後、侍女は現地の清潔な麻の着物と、ずっしり重い布袋を持って戻ってきた。
「これを受け取りなさい、坊主。そう自分の運命を儚むものではない」
バロン・クロダは、その服と、金属の擦れる重い音がする革袋を木製のテーブルに差し出した。
「私からのささやかな援助だ。中に『金貨二十枚』入っている」
「クロシマの下町へ行き、清潔な宿を探すといい」
「そして、その風変わりな服も早く着替えることだ。街で余計な注目を浴びないようにな」
バロンは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
――ピコーン。
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【流動資産】
バロン・クロダから『金貨20枚』を獲得しました
【財布の論理】
経済ステータスが『飢餓寸前の浮浪者』から『見習い貴族』へ劇的に向上しました
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金貨の詰まった革袋を見た瞬間、教授としての瞳が強欲な輝きを放つ。
軍人のプライドなど、現金の魔力の前では一瞬で消し飛んだ。
この過酷な世界では、資本こそが最強の武器だ。
「閣下の天空よりも高いご厚意に、心より感謝申し上げます!」
「この戦術的援助は、私の人生の年代記に黄金のインクで刻まれることでしょう!」
歓喜に震えながら勢いよく立ち上がり、最高位の敬意を示すため九十度の深いお辞儀を繰り出した。
――だが、それが間違いだった。
バキッ、ボキッ。
「あぐっ……痛、たたた……腰がっ……」
瞬く間に自分の臀部を押さえ、あまりの痛みに涙目で再び呆け顔を晒す羽目になった。
――このクソシステムが。
STRマイナス300のペナルティが、反射的な動作に対して容赦ない即時処罰を下したというわけか。
激しい腰痛に体をくの字に曲げ、這うような足取りで応接間を後にする。
バロン・クロダは、腰を押さえながら情けなく去っていく俺の後ろ姿を、もはや恐怖すら混じった深い同情の目で見送っていた。
バロンは胸の内で静かに独白する。
(ああ、神々よ……あの坊主、言葉遣いは実に高潔で、まるで全軍を率いる将軍のような覇気を持っているというのに、体は風が吹いただけで砕け散りそうなほど脆弱だ)
(哀れなことよ。きっと、大戦乱で滅ぼされた大陸の超名門貴族の生き残りで、禁忌の精神術式のショックで、知性と肉体がちぐはぐになってしまったのだろうな)
(あの二十枚の金貨が、彼の儚い命を繋ぐ糧になることを願うばかりだ……)
このバロンの、勘違いに満ちた深い慈悲こそが――俺の異世界における、最初の強力な運命の歯車となったのである。
少しでも「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、ページ下部の**【ブックマークに追加】や【評価(★★★★★)】**をいただけると嬉しいです!皆様の応援が執筆の大きな励みになります!もしかしたら「こういう設定の小説は途中でエタる(エピソードが途絶える)んじゃないか……」と思って、ブックマークをためらっている方もいるかもしれません。ですが、断言します。私はこの作品がライトノベル化、コミカライズ、そしてアニメ化するまで絶対にエタりません(更新を止めません)!ぜひ大佐の行く末を、一緒に最後まで見届けてください!




