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1.危ない人

 シュリが目を覚ました時、家族はどこにもいなかった。


 焦って周囲を見回すと、ここが森の出口だということくらいは分かった。家族と共に何度か訪れたこともあったからだ。


 季節は秋を迎え、様々な彩の広がる森は実りの時期を迎えている。熟した木の実や種類豊富な茸は子供でも採りやすく、森の恵みは対価無しで手に入った。より多くの食糧を求めるならば、出向かないわけにはいかない。


 母親は森に食糧を探しに行く時、シュリを含めた幼い子供達をいつも連れていった。父親はシュリが生まれて間もなく隣国ルーフスとの戦で殺されていて、他に頼れるものもいなかったから、独力で多くの子供の面倒を見て、養わなければならなかったからだ。それに、探し手は多いほうがいい。


 末っ子だったシュリは父親の顔を知らず、母親の温もりも知らなかった。戦火を逃れて家族で各地を流浪する身になり、時に野宿をすることがあっても、木枯らしの吹きすさぶなかで母親が真っ先に抱き締めて冷たい風から護ったのは、シュリの兄である長男だった。


 兄弟の中で最も強く逞しく、生き抜く力があると見込まれた兄を、母親は最も贔屓にして大切にしたのだ。他の兄弟も明確に格付けされ、得られた食物は、子供達を育てなければならない母親がまず先に口にした後、長男から順番に与えられた。


 いつも最後になったのは幼いシュリで、兄弟達の食べ残しを僅かに得ただけだ。おこぼれを貰えただけでもいいほうで、何もない、ということも多々あった。長兄だけはシュリを気にして、密かに分け与えてくれる時もあったが、やがて気付いた母親に厳しく咎められて見張られるようになってしまった。他の兄弟は自分達が生き残るのに必死で、シュリを気にすることはなかった。


 シュリは兄弟の中でも特に体が小さく、食べ盛りの彼らを押し退ける力も湧かない。ますます食べ物から遠のいて日々弱っていくシュリを、母親は不甲斐ない無能な娘だと、冷めた眼差しで見た。


 それでもシュリは生きようとした。惨めさと飢餓に苦しむ日々よりも辛いであろう死が、ただ恐ろしかったからだ。今朝もいつものように家族の後に続いて、森へと向かったはずだった。


 思うように力が入らない足を動かして必死で歩いたが、断崖絶壁をものともせずに下りていく兄弟に対して、シュリはどうしても足が竦んだ。昔高所から転げ落ちて大怪我をした過去の恐怖が蘇ってしまったからだ。崖下の大樹の実りを喜んで手に入れる兄弟達を、見つめることしかできない。


 ――私はなんて臆病なの。


 大人しく死を受け入れることもできず、さりとて生きるための執念にも乏しい。

 シュリは恥じ入り、傍で娘が勇気を出すのを期待していたらしき母親も嘆いた。


『情けないわね。本当に私達の子供かしら』


 吐き捨てるような声で呟いて、シュリを置き去りにして自分はさっさと崖から下りていった。

 あの時、母親にとうとう愛想を尽かされたのかもしれない。


 シュリは回り道をして崖下へ辿り着き、既に先を進んでいた家族に追いついたが、見向きもされなかった。空腹で体力は限界に近づき、何度も意識は遠のいた。


 シュリが覚えているのは、そこまでだ。


 ――捨てられた。


 目覚めたシュリは惨い現実に打ちのめされたが、それでもその場に留まって、家族が帰って来るのをずっと待った。他に行く当てなどなかったからだ。もしかしたら母親や兄弟達が思い直して、探しにきてくれるかもしれないと淡い期待も抱いた。


 日が落ちて、夜の闇と孤独に怯えながら過ごし、朝になった。一日中木枯らしが吹き、やがて空を厚い雲が覆ったかと思うと冷たい雨が頬を打ってきて、零れ落ちる涙をかき消してくれた。

 また夜を迎え、家族の誰も探しに来る様子がない現実に、シュリはとうとう自分の死を覚悟せざるをえなくなった。声を出して泣きたかったが、衰弱した子供を狙うであろう飢えた獣に気付かれてもいけないし、そんな力も残っていない。


 木陰で雨をしのいだシュリは、翌日、眩しい朝の光を薄目を開けて確かめたが、すぐに閉じた。


 弱者は死あるのみ。

 それが戦乱の世の習いでもある。


 なけなしのプライドを振り絞り、迫りくる死にようやく初めて向き合った。


 ――皆、いつかは死ぬのよ。私はそれが早いだけ。


 朽ち果てた自分の体の肉は獣が喰らって、残った骨は土に還り、大地の養分となるだろう。無能な自分にも、できることがあったのだと思うと、少し気が楽になった。最後に残るのは、歯だと言われている。

 それも、いつか誰かの役にたつといい――。


 そこに、シュリが聞いたこともないような優しい声がした。


「こんな所で⋯⋯どうしたの?」


 初めは自分に言われているとは思わなかった。ただ、繰り返し尋ねられて、シュリはようやく目を開けて、目の前に屈んでいる少年に気付いた。


 顔の良し悪しは、さして興味を持ってこなかったシュリにはよく分からない。日々生きるのに必死だったからだ。真っ黒な短髪に、碧眼。華奢な体だったが、健康そうな肌色で、眼差しは優しく、身綺麗だ。親や周りに愛された子供だと、シュリはすぐに分かった。


 薄汚れた自分を憐れんだのか、それとも面白半分に声を掛けたのか。いずれにしても、こんなちっぽけな子供に、自分をどうこうできるはずがない。ようやく死を覚悟したのに、今更また生へ縋りたくもなかった。


 ――みくびらないで。


 シュリは腹立たしく思った。必死に生きようとはしてきたが、一方的に憐れまれる筋合いもない。無視しようと目を閉じかけたが、少年が右手を伸ばそうとしてきた気配に気付き、怒りの声を上げた。


 しかし、掠れた声は意味をなさず、少年も動じなかった。


「大丈夫。怖がらなくていい」


 そう言って、一度止めかけた右手がまた動いたから、シュリは最後の力を振り絞って、腕を引っかいてやった。それは思った以上に少年の腕を傷つけてしまい、滴り落ちた鮮血にシュリは言葉を失った。


 罪悪感が込み上げて、謝ろうとしても喉はカラカラで、声は掠れて彼に何も届かない。ボロボロと大粒の涙が溢れる間に、少年はズボンからハンカチを取り出して手早く腕に巻きつけて止血し、懲りずに今度はそっと左手を伸ばしてきた。シュリが今度は大人しくしていると、慰めるように頭を撫でてくれた。


 初めて感じた、小さな温もりだった。


「急に触れようとした僕が悪いんだから、泣かないで。これくらい平気だ。僕はカイゼルというんだよ、よろしくね」


 シュリが小さく頷くと、カイゼルは軽く目を見張った後、嬉しそうに笑った。


「しかし、可愛いなぁ。それに誇り高い子だ、そうでなくっちゃね」


 シュリは訳が分からなかった。


 今まで自分にこんなにも優しく話しかけてくれた者はいなかったし、もちろん『可愛い』などと言ってもらえたことはない。そして、お世辞にも自分が可愛いとは思っていない。傷つけてきた者を褒める神経も分からない。


 この少年の目は確かだろうか。ちょっと変な人かもしれない。それか危ない人だ。


 そんな事を考えていると、カイゼルは思案げに呟いた。


「⋯⋯バシュリスって言葉が、君にはしっくりくるよね」


 シュリは驚いた。バシュリスがどういう意味を持つのか分からなかったが、親につけられた自分の名前の一部が入っていたからだ。


 食い入るように見つめると、カイゼルも気付いた。


「バシュリスが気になるの? 昔の言葉だよ。気に入ったのなら、君の名前にしようか」


 誘われるようにシュリはつい頷きかけて、自分のそもそもの名前は、それではないと慌てて首を振る。


「じゃあバッシュとか⋯⋯男の名だね。ごめんよ、君は女の子だから⋯⋯うーん、じゃあシュリかな?」


 一も二もなくシュリは頷いた。偶然の一致のようだが、そもそもの自分の名前である。

 そして、はっと我に返る。

 プライドはどうした、と思ったが、カイゼルに軽々と抱き上げられて、そんなものは容易く潰えてしまった。


「僕と一緒においで、シュリ。僕なら君をこんなところで泣かせやしないからね」


 そう誘いながら、カイゼルは既に歩き出している。連れ帰る気満々なのが伝わってきたが、衰弱したシュリは腕の中から抜け出せなかった。


 情けない。恥ずかしい。あまりに惨めだ。

 それなのに、しっかりと抱き締めてくれた腕の力強さと温もりに、ただただ安堵の涙が落ちた。


 死にたくない、とまた思ってしまった。

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