第一回 織田信長の生きた時代の銭事情
織田信長といえば尾張の国の半分にも満たない支配地域にも関わらず、伊勢湾の商取引を掌握し経済の力で尾張を統一。
上洛後は堺、琵琶湖の海運も抑え圧倒的な経済力で常備軍や火縄銃を揃え他勢力を圧倒します。
織田信長と銭(経済)は分けて話すことはできないと言っても過言ではないでしょう。
では本文行きます。
当時流通していた貨幣を精銭と鐚銭があります。精銭は宋や明といった政府が作った正式な官制通貨、鐚銭は破損や摩耗した官制通貨に加え中国や日本で作られた私鋳銭です。
官制通貨の中でも宋銭と明銭は扱いが違っているので分けて考えます。
多少乱暴ですが宋銭、明銭の代表として永楽銭、鐚銭の3つが流通しているとします。
建前上は精銭=鐚銭、銭の形をして真ん中に四角い穴があればどれでも1文ですが、実態は宋銭>永楽銭>鐚銭となっています。
これだけならとても簡単なのですが宋銭の価値が時代と地域によって異なります。
宋銭の扱い方によって便宜上、博多・瀬戸内・土佐・堺・京都を西国、京より東を東国と分けます。厳密にすれば薩摩も別枠で分けないといけないのですが今回は関係ないので割愛します。(実は調べきれなかっただけとも言う)
価値の変遷
・信長が生まれる前 1534年以前~
西国
宋銭>超えられない壁>永楽銭>超えられない壁>鐚銭
東国
宋銭>>永楽銭>超えられない壁>鐚銭
・信長幼少期 1542年以降
西国
宋銭>>>>永楽銭>超えられない壁>鐚銭
東国
宋銭>永楽銭>超えられない壁>鐚銭
・信長青年期 1551年末から1556年ごろ
西国
宋銭>永楽銭>超えられない壁>鐚銭
東国
宋銭≒永楽銭>超えられない壁>鐚銭
・信長青年期 1565年以降
西国
宋銭≒永楽銭>>鐚銭
東国
永楽銭>宋銭>>鐚銭
1569年、信長 銭の交換レートを制定。
永楽銭と宋銭の一部>鐚銭
私見ですがこんな感じです。
各項目を簡単に説明します。
日本では皇朝銭の普及失敗以降は貨幣鋳造を止めており貨幣鋳造技術が失われていたため銭は1170年台に平清盛が大規模に輸入して以降ずっと輸入に頼っていました。
1404年に勘合貿易が始まり明から明銭を輸入し始めます。
ですが日本では新しい永楽銭に対し信頼を置ききれなかったようです。特に博多近辺では1050年ぐらいから宋銭を使用しており、350年使い続けた実績のある宋銭を好んだのは仕方ないのかもしれません。堺も同じく清盛以降200年以上の実績のある宋銭を好みました。
1485年、西国の大内氏が 意訳「みんな嫌がらずに永楽銭を使え」「支払は永楽銭で行うが受け取り拒否は許さん」と撰銭令を出しおおむね成功します。
武力と経済圧力をチラつかせた上で、素直に従った商人にも恩恵があるようにしました。
このように商人の間では宋銭人気が根強く、永楽銭をしぶしぶ使っていたことがうかがえます。
1500年、室町幕府も撰銭令を出します、意訳「精銭でなければいけない理由はなんですか?」「鐚銭じゃダメなんですか?」と。
大内氏ほどの軍事力も無く、経済力も無く、権威も失墜していたため、毎年出しますが効果はいまひとつでした。
・永楽銭と鐚銭の間に超えられない壁を設置しています。鐚銭を受け取るかどうかで命のやり取りにまで発展することが多々あったためです。
分かり易くするために例えを考えました。
円が存在しない世界と仮定、宋銭をアメリカドル、永楽銭をユーロ、鐚銭の品質はばらつきが激しいので人民元、変造500ウォン、パチスロのメダルの混在とします。
海外のマのつく愉快な仲間たちや国内のヤのつく自由な人たちとの取引でアメリカドルかユーロではなく人民元で支払いを行おうとした場合どうなるかを想像してみて下さい、また彼らが人民元で受け取れと言ってきた場合、拒否したらどうなるか想像してみて下さい。
・東国に宋銭と永楽銭の間に超えられない壁を入れてない理由は、東国の経済規模が西国に比べ小さくもともと宋銭の流通量自体が少なかったこと、経済規模が小さく西国から格下とみられていたため、宋銭が入らなくなってからは堺や京近辺の商人が東国と取引をする際に宋銭を受け取り永楽銭や鐚銭を押しつけました。宋銭は出ていく一方で永楽銭や鐚銭しか入ってこないため、鐚銭よりマシな永楽銭を中心に使わざるをえなかったためです。
1542年、興福寺が「永楽銭をそろそろ認めてもいいのではないか」と宋銭=永楽銭を宣言。
・寺社という権力者が宣言することで永楽銭の価値が相対的に上がっていきます。
・東国では宋銭はさらに減り日常で使用されることはほぼなかったと考えられます。西国との交易用通貨ぐらいの認識になります。
1551年、日本の経済にとっての大事件がおきます。この事件の影響により貫高制から石高制に移行します。また秤量通貨であった金銀が貨幣になります。
大寧寺の変が勃発。
大内義隆自刃。大友宗麟と弟の大内義長が勘合貿易継続を図るも大内氏後継者として認められず失敗。毛利氏により大内氏滅亡。毛利氏、勘合貿易復活を目論むもやはり失敗。
勘合貿易がなくなったため日本経済の需要を満たすだけの銭が確保できなくなりました。
機会があれば勘合貿易によってどれだけの銭が入っていたかをやりたいと思います。
大内氏滅亡により倭寇取締組織消滅、勘合貿易消滅により大内氏・博多商人と取引のあった大陸側の貿易商人・非合法貿易商人を問わず大量失職。
失職者が倭寇に転職します。いわゆる後期倭寇です。
教科書も各資料もネット情報も海賊だろうが密貿易だろうがみんな倭寇と一括りにされているため読んでいてもわかりにくいことがあります。せめて海賊を倭寇として密貿易は密貿易で分けて書いて欲しいと切に願います。
話がそれましたね。すいません。
倭寇(海賊)が急増したため、海の安全は脅かされ海上交通に支障がでるようになり、沿岸都市に略奪を働く輩も増えたため治安が悪化します。
これを重く見た明政府は海禁政策をとり勘合貿易以外の貿易もストップ。日本に入る銭がさらに減少します。
明政府が海賊倭寇ともに密貿易系の倭寇も討伐し始めたのでアンダーグラウンドの銭まで日本に入らなくなりました。
・西国で、宋銭の価値をある意味保障していた大内氏滅亡のため宋銭の価値が下がります。
1565年、前述の通り銭が足りません。
銭が入って来なくなった時から日本各地で私鋳銭が大量に作られて出回るようになりました。
永楽銭と鐚銭の交換レートを設定し鐚銭も認めようという動きが出ます。
この年に伊勢で永楽銭=鐚銭7枚とする記録が出てきます。暗黙のルールだったものが明文化されるようになります。
・鐚銭の超えられない壁を撤去します。鐚銭がかなりの割合を占めるようになりました、よほど酷い鐚銭でない限り受け入れられるようになります。
・東国では宋銭はただの古い銭として認識され価値が下がります。
精銭が足りないエピソードとして次の出来事があります。
1568年、信長が資金援助することで、延期になっていた正親町天皇の嫡男である誠仁親王の元服の儀が執り行われました。
ところが正親町天皇からクレームが入ります。「鐚銭ばっかり」だと。
さすがに全て鐚銭ということはなかったと思いますが、かなり鐚銭が混ざっていたことは間違いありません。
朝廷への献金は精銭で行うことが常識でしたし過去の献金もそうでした。直近では正親町天皇自身の即位の礼の際は時の実力者たちの三好長慶、朝倉義景が1000貫、毛利元就が2000貫相当を献金しています。
自身の経験もあるので鐚銭が混ざっていたことは衝撃だったと推測します。
当時の武家では一番銭を持っているであろう織田家が精銭だけで揃えることができなかったことが深刻さを浮き彫りにしています。
※毛利元就を2000貫相当としたことは別の話で説明したいと思います。
経済を背景に勢力を伸ばしたのに、肝心の経済を回す精銭が不足するという非常事態に信長は手を打ちます。
1.いわゆるカツアゲです。
1568年、堺等に矢銭を要求し当面の精銭を手元に置きます。
2.鐚銭を公式に認めます。明から銭が入ってこなくなってから日本全国で私鋳銭を鋳造しまくったためこのころには鐚銭はかなりの量になっていました。
1569年、信長は撰銭令を出しました。
永楽銭、宋銭のうち数種類を精銭と制定。
鐚銭を3段階に分け精銭との交換レートを制定
これにより大量の鐚銭を正規に使用させ量を確保します。
3.高額通貨作成
砂金や銀塊を金貨・銀貨として流通させようと試みます。
金と銀の話は別の機会に書こうと思います。
これによって市場の混乱は少しずつ収束していきます。銅銭が一つに統一されるのは1680年までかかるのですがもはや江戸時代の話になるので切り上げます。
信長が生きた時代の銅銭の話は以上になります。
次回は金と銀の話か宋銭と銭の信頼度の話を検討しています。
精銭と鐚銭が混在する中では立場の強い者は弱い者に対してより良い銭を要求し悪い銭を受け取らせます。流通から外れた農村部では摩耗しきって真ん中に四角い穴があいている丸い形の銅といったとても銭とは呼べない物や、混ぜ物をしまくってむしろ鉛と呼んでもよいレベルの銅銭が出回っていたそうです。
別の見方をすれば持っている銭の質・量・割合でその人物や組織がどういうものか分かるともいえます。
ただの若造に見えて支払う銭が精銭中心だったらそれだけで若者が只者ではないと察せられますし、繁盛している店に見えても支払時に周りの店に比べ鐚銭の割合が大きい場合はその店に何か良くないことが起こっていると推測できます。
また、悪い銭を押し付ける能力によってその大名の実力を図ることができます。
税という形で大名には大量の銭が入ります、当然質の悪い銭も入ってきます。よい銭だけで支払う事はできないので悪い銭で支払うことが起こります。大名の力が強ければ悪い銭を押し付けることは簡単ですが、力が弱いと抵抗されます。
室町幕府は大量の鐚銭を抱えていましたのでそれで支払いをしないといけません。しかし、なかなか受け取ってもらえません。商人たちにとって鐚銭の受け取り拒否をしても対して問題のない存在とみなされていたといえるでしょう。
博多商人たちは大内家から永楽銭や鐚銭を押し付けられることを(他と比べれば)抵抗なく受け入れました。これは受け取りを拒否して大内家の不興を買うことを恐れたともいえます。
取引にどの銭を使うかによって相手をどう思っているか、どうみなしているかが伝わります。全て公平に扱うことが不可能、であるならば、重要度の高い人物には良い銭を渡しますし、立場相応の銭を渡してしまうのは仕方ないのです。
どの銭を使うかによってその案件の本気度も伝わります。例えば人に何か依頼する場合、普通に鐚銭混じりで支払うより精銭のみで支払うほうがどれだけ重要視しているかが伝わります。
こういった話は時代小説なんかでも出てこないので、出てきてもいいんじゃないかな?なんて思った次第です。