開かずの部屋の真相――烏丸ユイの場合
「ユイさん、短い間でしたけど、お世話になりました」
つい数日ほど前に入ったばかりの新しい給仕さんは、荷物をまとめたボストンバックを肩に提げながら、私に深く丁寧なお辞儀をした。
このお辞儀は他でもない、私が初日に教えたものだ。
「はいこちらこそ。アラタさん、短い間でしたけど楽しかったです」
私も追うようにしてお辞儀で返す。
「お給金のほうは、指定されていた口座に振り込み済みですので」
「はい、ありがとうございます」
言ってアラタさんは、私の背後を気にかけるように視線を投げた。
そのアラタさんの様子に、自然と小さな笑みがこぼれた。
「ジロウさまにはちゃんとお伝えしておきますので、ご安心ください」
それを聞いたアラタさんは、ほっとした表情と共に困ったような苦笑を貼り付けた。
「なんだか加瀬さんには申しわけないっす。黙って辞める形になってしまって」
今は早朝。まだ彼も起床していない、普段ならまだ給仕役も起きていない時間帯だ。だからこれは仕事の範囲外。
「大丈夫ですよ。最後まで給仕の仕事に気を使ってくれていたと、良く言っておきますので」
私が振る舞うように言ってみせると、後頭部を片手で掻きながら、すみませんと笑って言ってきた。その上げられた手首には肘までにかけて包帯が何重にも巻かれている。
思わず私は慌ててそれから視線を外す。
「アラタさんはこれからどうするつもりで?」
ああ、と頷いて、上げていた腕を下した。そのおかげで、捲り上がっていた洋服の袖が重力に従って落ち、それを隠すようした。
「とりあえずは学校に復帰します。そんでそれからは……」
言葉をそこで切ったアラタさんに、思わずひやひやさせられる。それが顔に出ないように自然な感じで返すように聞いた。
「それからは?」
「それからは、大人になります」
そんななんとも当たり前で、というか、当たり前すぎて誰も答えないような単純で漠然とした言葉に、しかし、私には強い意思が込められているのだと感じた。
「人1人の人生背負って立っていられるような、そんな強い大人にです」
力強く、そして生き生きとしたその目に見つめられて、思わず目頭が熱くなった。
泣いてはいけない、ここを出る人間には笑顔で送る……それが私の仕事だ。
「そうですか、アラタさんならきっとできます。頑張ってください」
付け焼き刃のような安い励ましなのは自分でも分かってる。それでもなにも言わずにはいかなかった。
はい、頑張ります! もう一度力強く言いいながらアラタさんは洋館の扉を開け、この館を去っていった。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
扉が音立てて閉まってもなお、私は1人、玄関広間でしばらくの間頭を下げ続けた。
「…………さて、早く起きたことですし、お掃除でもしちゃいましょうか」
元々は自分1人でやっていたとはいえ、アラタさんがいるのといないのとではだいぶ違う。
感覚を取り戻すためにも掃除だけは進めておきたいところ。
一番ホコリが溜まっているところから掃除するのがいいだろう。
この館で今ホコリが一番溜まっているところといったら、あそこしかない。
「………………」
客室がホテルのようにいくつも並ぶ通路の一番奥、そこにある部屋の前に、私は今立っている。
その部屋は通称『開かずの部屋』。
その文字の羅列を頭に浮かべて、ふっと思わず鼻で笑ってしまった。
手の甲でコンコンと強めに扉を叩く。
「…………あ」
ノックしてから気づいて、扉の取っ手に手をかけ捻り、なんの躊躇もなく開けた。
私もすっかりあの子に感化されていたみたいだ。こんなんじゃこの先やっていけるのか不安だ。
相も変わらない自分自身に、思わずため息が漏れる。
「だって――――――」
扉を開けて中に入ると、窓から入った強い風が地面に集まっていたホコリを巻き上げ、私の視界を一瞬襲ってきた。
風が収まったタイミングでゆっくりとつむっていた目を開ける。
「そもそもこの部屋はただの空き部屋だもんね」
私の視界の先に広がるのは、何の変哲もない。
家具も小物も生き物の気配すらも存在しない、打ちっぱなしのただの空間。
その変に広く感じる空間を横切るように一直線に歩いていき、開きっぱなしの窓を閉めてカーテンを全開にする。
陽の光が窓のガラスを反射して私の顔にぶつかった。
「残念だ、彼の食事は本当に私の口に合っていたんだが」
日光に目を細めさせていた私の背後、部屋の入口から掛けられた声に振り返る。
「ジロウさ……先生、起きてたんですか」
彼は白衣を着ていた。
都立の総合病院精神科担当、加瀬ジロウ先生は、まあね、と軽く飛ばすように言いつつ部屋の中に入ってきては、観察するように空間を見渡した。
「で、彼の結果は」
先生にならって、というわけではないけれど、私もメイド服の装飾である頭の上のカチューシャを取った。
「先生の娘さんが引きこもりだと……」
なんの脚色もない治療結果を聞いて、なにが可笑しいか、かかっと大口開けて笑ってみせてきた。
「なるほど、そう落ち着いたか。大体は病人か、マッドサイエンティストの人体実験用モルモットだと結論付けられるのだが」
いやはや全く、と笑いを噛み殺して自身の顎を撫でる。
「これも彼が特殊な立ち位置に存在していたからだろうな、興味深い」
そのおどけた様子の先生に、私はむっとした。
「先生、それは精神科の医師として大変不適切な発言だと思います。大変不快なのでやめていただいても?」
あからさまな不快感をあらわにすると、先生は1つ息を吐いて、すまんすまんと軽く謝罪をしてきた。
「しかし、これでも素直に喜んでいるんだ。私の立てた『夢想セラピー治療』の裏付けができたことも勿論だが、なによりも彼が少なくとも前向きになってここを出たって事実が、ね」
夢想セラピー治療。
それは都内の名医が集まった医療協会で、加瀬ジロウ先生が立てた、主に重度なうつ病、脱力症患者への新たな治療方法。
――カリギュラ効果、というものがある。やってはいけない、してはいけないと外部から抑えつけられると逆に破ってしまいたくなってしまうあれだ。
それは人間の強い好奇心からなせるもので、この『夢想セラピー』とはその好奇心を利用した治療法なんだとか。
「先生、もうやめませんか」
私が手元を気まずく遊ばせながら恐る恐るといった感じで聞くと、先生は眉をひそめさせた。
「なぜか、理由を聞いても? ……それとも久遠アラタ君は、実は前向きになんてなっていなかったか」
「いえ、違いますけど……だって――――」
この治療法はいたって簡単。
誰もいない部屋の中に、あたかも誰かがいるかのように演出し、患者に箱の中を空想、夢想、妄想させるというものだ。
つまり、部屋の前に残飯をわざと置いておくのも、それをわざと回収させていたのも、窓を開けっ放しにしていたのも、全部患者に箱の中を夢想させるための演出。
なぜそんなことで治療になるのかは、理論を組み立てた目の前の加瀬ジロウ先生と一部の偉い医療従事者のみぞ知る。
「こんなのただ患者を騙しているだけじゃないですか。なんか私、罪悪感みたいなのを感じてしまって」
ここを今朝去ったアラタさんの笑顔はとても嬉しいものだった。でも同時に、ちくりと、なにか魚の小骨が胸につっかえているような気分もした。
「もっと他に彼を救えるやり方とかあったんじゃなかったのかなって」
私たちは腐っても精神科医だ。患者の心に常に寄り添って、心の病を治療してあげる、それが本来のあるべき姿なのではないかと私は思う。
「精神患者への投薬は現状を先延ばしにするだけ、根本的解決には至らない。それこそ騙しているようなものだろう」
「違います。そうじゃなくて、もっと、こう、話を聞いてあげるだけでも……」
少しは楽になるんじゃないか、そう言いかけて、やっぱりやめた。それだって投薬と同じ、先延ばしにするだけ。
やはりというか、先生はうつむく私を見て呆れたため息を巻いた。
「烏丸君。彼の症状は知っているな」
「はい……極度の不安やストレスから来る自傷行為と解離性健忘」
アラタさんは、ここに来るひと月ほど前に、自傷行為をして病院に運ばれた。
いくつものカウンセリングを受けたが、彼には自分が自傷行為をしたという記憶がなかった。
精神的に非常に不安定と判断した病院は、彼を仮退院と表し、加瀬ジロウ先生のセラピー治療行きとなった。
「その不安、ストレスはどこから来たものか分かるかね」
「……将来への不安、と聞き及んでいますが」
ちょっと自信なさげに答えたのは、私自身、腑に落ちていないからだ。
確かにあの年ごろになると、将来への不安も焦りも出てくるだろう。
しかし、そんなことで自傷行為をしたり、ましてやその記憶がなくなったりするだろうか。
案の定というべきか、先生は首をうんざりするように振った。
「違う、もっと根本的なところだ。想像力を働かせろと言ったんだよ私は。もっと奥底、そもそも将来に対して強い不安感を抱く要因となったものだ」
そんなの分かるわけがない。
先生は恐らく知っているのだろう、だからこうして私を試すような言い方をする。
その鼻につくようなのが嫌で、むっとして、さあ? 分からないです、と答えた。
先生も私のあきらめたようなそれがむしろ正解と言わんばかりに、呆れたため息も見せずに口を開いた。
「10年ほど前の一家惨殺事件」
「え?」
唐突に飛び出してきたその非現実な言葉に、一瞬耳を疑った。
「一応マスメディアには本人の人権を守るため、ということで実名報道はなされなかったけど、その惨殺事件で唯一助かった者がいた」
言わずとももう分かる。その助かった者というのが当の彼、久遠アラタ、その人なんだろう。
そんなことよりも。
「待ってくださいっ、私、そんな話初耳なんですけど……」
「言ってないからね。もう10年も前のことだし、言っても意味ない、わざわざ言わなくてもいいことだったから。それに、今の彼の前で言うのは非人道的だ」
「それってつまり…………」
私が言い終える前に、先生が隙間なく答える。
「久遠君は10年ほど前からずっとPTSDを患ってる」
PTSD。別名、心的外傷後ストレス障害。
強い恐怖体験や精神的ショックを受けたときに、それが大人になっても当時の恐怖などが甦ることがある。いわゆるトラウマというやつだ。
「まだ10才にも満たなかったただの少年が、自分の家族の惨殺死体を目の当たりにしたら、そりゃあPTSDにもなる」
他人事のように言いながら、先生はなおも続ける。
「母方の叔母に引き取られたが、初めの数年は本当にひどいものだったらしい。誰とも会話しない、独り言はぶつぶつと呟く、深夜徘徊は毎日の日課、果てには自殺未遂ときた」
肩をすくめて、軽く息を吐きながら話す。
どうしてこの人はそんな重たい事情をこんなにも軽く話せるのだろうか、私には到底理解できないし、したくもなかった。
「それでも久遠君はね、なんとか自分を騙して騙して今日まで生きてきたんだ。ゆっくり10年もの長い時間をかけて、無意識という箱の中にそのトラウマを隠して生きれるようになったんだやっと……」
うつむいて昔の思い出話をするように語る先生の顔は、しかし曇っていた。
「だが、それはただ騙していただけだ。解決にはなっていない」
「………………」
「彼はまだ過去に捕らわれていた。だから先を見据えることができない、未知の未来を夢想できない。いつまでも立ち止まったままだ」
ただ黙って聞いているしかできずに突っ立ったままの私に、先生は振り返って強く迫力のある目で訴えかけるように睨みつけてきた。
それは、私がこの先生の元に就いて、最初に説教された時と同じ目。
「君に……一緒になって泣いてやったり笑ってやるくらいしか出来ないような君に、そんな彼の全てを背負えるほどの覚悟と責任はあるのか」
「………………」
また、なにも答えることが出来なかった。
悲しいことに悔しいことに、応えることが出来なかった。
それはまだ、私が未熟であることの証。
「前にも言ったな、中途半端な同情は時に人を傷つける。同情というのは生半可な気持ちでしていいようなもんじゃないんだ。と」
「はい…………」
消え入るような声が出た。カチューシャを握りしめる手のひらが痛い。
「だから結局他人でしかない私たち精神科医は、なおさら手助けをしてやることくらいしかできない。心の病っていうのは結局、自分自身でなんとかするしかないんだ」
先生はもう一度この部屋の中をぐるりと見回してからゆっくりと瞼を閉じた。その光景はなんだか眠っている時のような顔に見えた。
安らぐような、気持ちよさそうな表情、まるで、夢でも見ているよう……。
「烏丸君。夢というのは残酷でなんとも脆い。根拠がないうえに裏切る、頼りのない空っぽな存在だ」
そう、ちょうどこの部屋のように。
「でもね、人というのは常に夢に支えられて生きている生き物だと私は思っているんだ……夢を見るからこそ、そもそもそれを形にしようと頑張れる、生きていく糧となる。だから人というのは、ソレがたとえ脆いものだと分かっていても夢を見続けるんだ、何度も何度も浮気して」
ゆっくりと目覚めるように目を開けると、くるりと背を向けて部屋の外へと歩いて出ていこうとする。
「だからそれを見せる手助けを、私たちはしているんだ。そう考えると、なんだかとっても私たちは慈善的活動をしているとは思わないか?」
扉の外で振り返り、おどけて言う先生の表情は晴れやかに笑っていた。
夢を見るから人は生きていける。
でも、夢というのはいつか覚めてしまうもの。
彼はおそらくまたここに来る。何年後か何十年後かは分からないけれど、きっと訪れる。
そして彼はすべてを知ることになる、そしてその時が彼の夢が覚める時だ。
その時の彼が果たして、人1人を背負えるほどの大人になっているだろうか。
「烏丸君、話が長くなった、朝食を用意してくれ」
「はい、ただいま」
部屋の中から返事をして、そして手元のカチューシャを頭にかぶる。
「先生」
ダイニングへ向かう道すがら、傍らで並走する先生を呼びかけると、ん? と、なに気もない表情で振り返ってくる。
「私も新しい夢を見ることにしました。――――大人になります。人1人背負ってもつぶれない、そんな強くて立派な大人に」
「そうか…………相変わらず頑固だな、君は」
鼻で笑ったように言って顔を元に戻す。しかし、そこには嘲笑だとか、バカにするだとか、呆れるだとかというものを一切含まない優しげなものだった。
――――いつか必ず夢は覚める。その時、彼がもしもまだ足踏みをして先に進めていない人だったとしたなら……。
その時は全力で、同情してやろうと思う。




