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第11話「どこにでもある日常を、「煉獄」と読んでみた」

 僕は息を呑んだ。返って来るアサヒの言葉に、一瞬だけ恐怖を感じて、それでも意を決して、話しを始めた。

「アサヒは生還者って知ってるよね」

 その時ちょうど、時を隔てるようにチャイムが鳴った。



「ちょっと、チャイムが邪魔で聞きにくかったけど~、え~と生還者って言ったんだよね~?」

「うん、そうだよ。知ってるよね?」

 そう答えるとアサヒはうつむいた。

 アサヒの沈黙。その静寂は僕を不安にさせる。

 ただ静寂はほんの一瞬だった。顔を上げたアサヒが思いついたというように喋り出す。

「生還者~それって災難にあって生きて帰ってきた人の総称だよね~」

「そう言う事じゃなくて、そうなんだけど」

 出鼻を挫かれた僕に、アサヒは「ふふっ」と笑って続ける。

「あっ、じゃあれだ~」

「知ってるの」

「アイトの家にいる子だよね~。どうしたの~少しは元気になったりした~?」

「そうだ。そう、いるんだ僕の家に」

「そりゃ~いるよ~」

 質問のしかたが悪かった。だけどアサヒは、僕の望んでいた答えを返してくれた。

「生還者か~アイトも大変だね~、お世話~」

「う、うん」

「動き回らないのは、それはそれで気は使っちゃうし~、ほったらかしって訳にもいかないもんね~」

「アサヒの家だって大変だろ」

「そんなことないよ~。内の子は元気だもん、家でゴロゴロしたり、外でもゴロゴロしたりだよ~」

 その光景を思い出すように、笑顔で答えるアサヒ。

 だがその答えは、常軌を逸していた。

「なに、言ってるんだ?」

「なにって、まぁ、そうだよね~。お父さんにお世話任せてる私が、言っちゃだめだよね~」

 何かがおかしい。

 いや、それは最初からだ。

 アサヒは間違っても、アイカ姉さんのことを「アイトの家にいる子」なんて言わない。

 言う筈がない。

「私もアイト見習って、朝のエサあげしてもいいんだけど~」

 エサ?エサって言ったのか?

「お父さんはお父さんで、結構楽しくやってるみたいでさ~、役割取っちゃたらだめかな~っていうのもあるんだよ~。お父さんって、猫好きだから~」

「えっと、猫?」

「うん猫さん、お父さんは猫好き~。私はちょっとだけアレルギーがある。ネコさんの話~、違った?」

「なに言ってるんだ?僕は、生還者の話をしてたはずだ」

 う~ん、と困ったように考えるアサヒ。でもすぐに前後の話を思い出したのか、落ちついて言葉を返してきた。

「うん、そうだけど~。アイトが私の家も大変だ~、みたいに言ったんだよ~」

「言ったけど、だからって何で猫の話に?」

 不思議そうな顔をしているアサヒは、首を傾げながら言った。

「アイトの家にいる猫さんの話から~内にいる猫さんの話に移っただけだよ~。変じゃないよね~」

「僕の家にいる猫?」

 僕の家に猫なんていない。さらに言えばアサヒの家で猫を飼ってるという話も……

 いや、アサヒと猫の話なら知ってる気がする。

 思い出した。

 ずっと前にアサヒが猫を追いかけていって、迷子になった話だ。

 あれはいつの話だ?それにあれはアサヒの飼い猫じゃない。

「どうしたの~?忘れちゃったの~?」

「そうかもしれない」

 思い出せるのは暗い路地裏で、潰れたから捨てたというように何もないところで朽ちていくだけの小さな命。

 でもあの子は……

「それはウソだよ~、毎日お世話してるんだよ、忘れるわけないよ~」

 はっと我に帰る。今もアサヒは僕の家にいるという、猫の話をしている。

 アサヒの家の猫を僕は見たことがないのか?

 だめだ。猫の姿が全く思い出せない。

「アサヒは知ってるの、それがどんな猫か?」

「うん、アイトが拾った時に私もいたからね~。足と口を怪我してて、動けないんだ。あと、うめくような声でしか鳴けない。アイトがアイカお姉ちゃんの部屋で飼ってる猫さんだよ~。」

「そんな猫を僕が?」

「うんアイトが見つけてきたんだよ~。きっとアイトがいなかったら、その子は死んでたよ~。まさにその子の救世主だよアイトは~」

 自分のことのように嬉しそうに語るアサヒ。

 でも、覚えてないんだ。いや、知らないんだ。記憶があやふやな頃の事だろうか?

 それにしても周りに興味を持たない僕が?信じられない。

「それでアイトはその子の世話をしてるの~。毎日、朝に食パンあげてるんだよね~、水を含ませてやらかくしたり、色々と工夫して~」

 何か変だ。生還者はどこへいった?

 生還者はそこに居たんだ。確かに僕の目の前に居た。

「献身的だよね~。本当、尊敬しちゃうよ~生還者ちゃんは幸せものだよ~」

 ここでやっと、僕が聞きたかった言葉がアサヒの口から出た。

 それは生還者。奇跡につけられた名前。

「その生還者って?」

 でも、僕が知っているそれとは、違う者の名だった。

「うん、アイトが飼ってる猫さんの名前だよ~。生還者。死んでもおかしくないってくらいボロボロの野良猫だったけど~、今じゃアイカお姉ちゃんのベットを占領してる~。生きて帰ってきた存在、だから生還者。変わった名前だけどかっこいいよね~。まるで、生きていることに感謝してるって意味みたい。生に感謝する。で生感謝なんちて~」

「誰がそんな名前を?」

「アイトだよ~」

「僕の家の、アイカ姉さんの部屋の、ベットの上には、生還者がいる」

「うん、そうなるね~」

 そんなバカな話、あるわけない。

 そんなバカみたいな話。

 じゃあ朝の僕は、ただ猫の世話をしていたって言うのか?

「どうしちゃったのアイト~?いつもおかしいけど、今はいつも以上におかしいよ~」

 いつも以上に辛辣なアサヒに言われる。

 世界が無茶苦茶だ。

「……猫の、その生還者の世話は母さんが?」

「うん、そうだと思うよ」

 元々ある記憶と合致する。年頃の娘であるアイカ姉さんの世話は、母が一人でやっている。僕ができるのは食事の世話程度だ。

 頭が痛い。

「大丈夫?アイト」

 信じるなと、僕の心が言う。

 世界には難民がいて、アキヨ首相はその難民に色々な法案を作った人で、ただの善意の人で、ただのバカで、僕はそんな人間大嫌いで、偽善者だと思う、そんな人物はいらなくて、生還者は必要で、いるべきで、生還者は姉さんを救う奇跡で、姉さんという存在で、姉さんが生きるためには必要で、だから僕の家には生還者がいて、でもそれはアサヒが猫だと言って、猫の名前で……

 どういう事なんだ?

 アサヒの話が僕の世界を否定している。

 アサヒの世界が僕の話を否定している。

 なら、アイカ姉さんは今どこにいるんだ?

 家にいるのが猫だというなら、アイカ姉さんは、どこにいるんだ?

 姉さんのベットの上にいるのが猫なら。

 母さんが世話をしているのが猫なら。

 姉さんは、今どこにいるんだ?

 ♪~♪~♪~♪~

 その時、僕のポケットにある携帯電話から、聞きなれない音が流れ始めた。

 こんな着信音だったんだと思った時。目の前のアサヒの雰囲気が変わった。

「来たね」

「え?」

「知らせが来たみたいだよアイト。電話に出なよ」

「え?」

「早く出なよ、アイト」

「えっと」

「私のことはいいからさ、電話に出なよ」

「うん、でも」

「後悔したくなければ、電話に出るべきだよ。アイト」

 アサヒの声は、とても静かで、それでも確かな信念を感じた。


 それは、うそぶいた王様に一人の少女が、たった一言の真実を告げるという物語。

「ねぇ、王様は何で……」

 それはパレードの途中、立ち込めた終焉の気配。

 あの時、裸の王様は少女の口にした言葉に。

「……何で裸なの?」

 急に怖くなって走り出したんだ。

 全て聞き終える前に、全て理解する前に、壊れるんじゃないかというくらいに、心臓が脈打っても関係なく。

 ……ねぇ、王様は何で裸なの?……

 走って……走って……走って……

 それでも、耳の中で木霊する少女の言葉。

 裸の王様は、少女に真実を告げられた時、きっと少女の前から、駆け出したんだと思う。

 それは羞恥心なんかじゃない。

 ただ少女の言葉に、全てを否定されるのが怖かったからだ。

 認めたくなかったから、ここには素晴らしいものがあって、その素晴らしいものは、皆が共有できるものだと、信じていたから、だから王様は、その場から駆け出して……

 駆け出して……駆けて……

 きっと、誰の静止も聞かずに、そのまま

 高みより飛び降りて、自殺したんだ。

 これが、裸の王様の最後だ。

 これが、物語の結末だ。

 こうして真実さえ知らぬまま、真実を認めぬまま、自分の中の真実を守って、裸の王様はひとり死んで、物語は終わるんだ。

 これはハッピーエンドだろうか?

 いや違うだろうな。

 そうこれは、アイカ姉さんが嫌いな類の話だ。

 アイカ姉さんはハッピーエンドが好きな人だった。

 でも僕が作る話はいつも大抵がバットエンドで……

 アイカ姉さんは僕の作るそういった話を聞くたびに困った顔をしていたな。

 だから次こそは、アイカ姉さんが心から喜ぶような、ハッピーエンドの話を作ろうと思ったんだ。

 それは僕の渾身の話で

 誰も不幸にならない話しで

 人の死に関する話で

 アイカ姉さんにこそ聞いて欲しくて

 それは僕の考えた「大多数の絶対幸福」の話なんだ。

 奇跡の起きた世界で、人は死から救済される。

 そんな物語。

 きっと、きっとアイカ姉さんは、聞き終えた後こう言うんだ。

 困った顔をして、笑いながら言うんだ。

「奇跡の話なのに、どこか悲しい。アイトらしい話だね」

 と……


                     第11話

              「どこにでもある日常を、

                     「煉獄」と読んでみた」



「その電話の番号知ってるのってさ、私を除けばアイトの家族だけだよね。だとすれば、今学校で授業中だってのは分かるんだよ。なのに電話をかけてきた。理由知りたくない?」

「授業サボってるのがばれたとか」

「どうやってばれるの?ううん、ばれたとしてもアイトの両親はそんなことじゃ電話なんてしないよね」

 確かにそのとおりだ。

 でも何故だろう。この電話に出ると、取り返しのつかないことになりそうで

 それがとても、怖いんだ。

 頭の中で誰かの声が聞こえる。

 ……この音で電話が鳴ったら、どこにいようと絶対に出るんだ。

 これは誰の声だろう?いつの記憶だろう?

 ただ僕は、この電話が鳴るのをずっと恐れていた気がする。

「アイトはさ、今の自分に満足してる?」

「えっ?」

 口調はそのままに、話題が変わる。

 電話は今も鳴っている。

「忘れてしまった日々とか時間とか、思い出したいって思ったことはないの?」

 思い出したい記憶。

 例えばなんだろう?姉さんが死んだ前後のあやふやな記憶か?

 今日の職員室のような、脳が勝手に忘れた日常か?

 いや違う。昼のあの時間、先輩といた時間を僕は、思い出したいと思う。

 頭の中で今も明滅する光景は、僅かながらに思い出した記憶と思い出したいと願う記憶のかたまり。

 どうしてここまで先輩との記憶にこだわるのか、自分でも分からない?

 いや、単純な理由なら思いつく。それはとても悲しい理由。さびしい理由だ。

 友達のいない僕が、たまたま縁が出来た名も知らない先輩と話した。

 向こうがどんな感情だったか分からないけど、僕は楽しかったんだと思う。

 そう、ただそれだけのことなのだ。

 それは餓死しそうな空腹の中で、たまたま手に入れた質素なパンをとてもおいしく感じるような、そんな餓えた者の感情。

 だから昼休みの記憶は、どこにでもあるような日常を、かってに僕が美化しているだけなのかもしれない。

 だから。そんな記憶は、そんな記憶は。

 こんなことは初めてだ、僕は……

 左ポケットに手を入れる。触りなれないそれを取り出す。

 携帯電話。これに電話がかかってきたのは、試しに鳴らしたのを除けば、これが初めてだ。

 通話ボタンを押して耳にソレを当てる。

「良かった、やっと繋がった」

 ソレは切羽詰ったというような声だった。

 男性の声だ。

 聞きなれた声だが、あまりに慌ててるせいで誰だかわからない。

「アイトよく聞け。落ち着いて聞くんだ」

 男性の声はそう言うと、息を整えるように一拍間を取った。

「アイカのことだ。たった今病院から連絡があった」

 次に聞こえた声は落ち着いた声。

 聞きなれた声だ。

「アイカの容体が急変した」

 僕はその声を聞いた途端、携帯を耳から離した。

 遠くになって聞き取れなくなる男性の声。

 でも僕の心は落ち着かない。

 体が震えている。心臓が激しく脈打っている。

 いや脈打ってるなんて生易しいものじゃない。

 飛び出しそうなほど、揺れて暴れている。

 全身の振るえと汗が止まらない。眩暈もする。

 呼吸が荒くなる。呼吸がまともに出来ない。

「どう、久しぶりに聞いたんだよね、お父さんの声。色々と聞きなよ。私が言っても信じないもんねアイトは、でも……」

 その中でアサヒの声だけが鮮明に聞こえた。

 ソレを聞いた瞬間、僕は携帯の電源を切った。

「早いね。もういいの?」

「うん、無言電話だったから」

 とっさに出た言葉がそれで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 自分が何を言ってるのかさえ分からない。

「そうなんだ。ふーん。そっか無言電話だったか」

 悟ったような顔でアサヒは言う。

 とても悲しそうに、彼女は空を見上げた。

「無言電話になっちゃうんだ。アイトには」

 アサヒは震えていた。

 暑いくらいの日差しの下で、アサヒは空を見上げて震えていた。

「アサヒどうしたの?」

「じゃあ、話を続けよっかアイト」

 アサヒが僕に向き直る。表情は不自然なほど自然な、いつもの笑顔だった。

「私も質問返していい?」

「うん」

「生還者って何?」

「えっ?」

「アイトがいう生還者って何かな?さっきあたしが答えた時、違うって顔してたよ。だから教えて、アイトのいう生還者について」

 アサヒが僕に、真実をたずねる。

 だとしたらこれは必然で。

 だとしたらこれは

 僕が望んだ終焉だ。

 僕は屋上の一角を見る。屋上にあがってすぐの場所からは見えない。屋上の死角。

 屋上の入り口である建物の日陰へと、回りこむように来た事で見えるようになった場所。

 そこはフェンスがあるのに、肝心の金網がはまっていない。

 金網の部分が取れて枠だけが残っている。とても無用心で、危険な場所だ。

 それはきっと、空へと続く扉なのだと思う。

 そこから一歩踏み出せば、踏み出した者は……

「聞かせてよアイト、生還者っていうものの話。どこかに忘れてきた土産話のかわりにさ」

 アサヒが再び聞いてきた。

 でも僕は別のことを考える。昼休み。場所はここ屋上。

 でも思い出せない。

 どこかに忘れてきた土産話。

 昼休みになにがあった?

 思い出せる。それは先輩と話してる。

 真っ赤な顔。不思議そうな顔。

 優しげな、姉さんを思わせる顔。

 先輩が突然怒り出した。

 それでも僕は、昼休みのそれは、その時間は

 楽しかったと思う。

 忘れたくないと思う。忘れたくなかったと思う。

 かつての僕も、覚えていようと思ったはずだ。

 でもなんでだろう?

 思い出はあるのにそこには、今も

 声がないんだ。

 先輩とのやり取りには、どの思い出にも、形はあるのに声がない。

 無音の思い出。

 まるで録画に失敗したような、思い出せない。

 先輩がなにを言っていたのか?

 僕がどう返したのか?

 思い出せない。

 約束があった。気がする。

 でも

「忘れなさい」と言われた気がする。

「忘れませんよ」と答えた気がする。

 そんな、決して忘れたくなかっただろう、どうでもいいことを、思い出していた。

「話してよアイト。生還者ってなに?」

「僕が言った、生還者っていうのは……」

 ダメだ話したらダメだ。

 ここで話したら、生還者は、生還者がいる世界は絵空事になってしまう。

 生還者はいるんだ。事実としているんだ。存在するんだ。

 皆が知ってる事実なんだ。

 ここで話したら、アサヒに否定されたら。

 全てが終わってしまう。

 全てが無くなってしまう。

 口に出して話した瞬間、検証されてしまう。

 耳で聞いて現実との齟齬を見せられ完全否定されてしまう。

 世界を守らなければならない。

 生還者がいる幸福な世界を、アイカ姉さんがいる世界を

 守らないといけないんだ。

「どうしたのアイト?」

「僕にはねアサヒ、夢があるんだ。願いかな。もう一度会いか姉さんと話したい、そしてもう一度、アイカ姉さんの笑顔が見たいんだ」


 あれ?矛盾が生まれる。


 それは朝のアイカ姉さん。

 アイカ姉さんとの思い出を、もっと作りたい。

 無理だと思ったけど、姉さんは生還者になったから可能なんだ。

 僕はアイカ姉さんの笑顔がもう一度見たくて、あれ?

 それは、小さな嘘のほころび。

 僕は朝に、姉さんの笑顔をすでに見ている気がする。

 でも、生還者は笑わないはずだ。

 何かがおかしい?

 いや、おかしいのは何もかもだ。

 生還者がいる幸福な世界とはなんだ?

 皆が知っている常識?皆とは誰だ?

 それは顔の思い出せない人たち、ここは顔のない世界。

 アイカ姉さんだけが生きる世界?アイカ姉さんだけのための世界?

 でも、いない。アイカ姉さんは、どこにいる?

「アイカ姉さんは?」

「どうしたの急に?」

 このまま家に帰っても僕はきっと、アイカ姉さんに会えない。

 僕のいる世界の常識が崩れだしているのが分かる。

 だから、この質問は……アイカ姉さんともう一度会うために必要なんだ。

「アイカ姉さんは……今どこに?」

「本気で言ってるの?寝たきりの状態だよ」

 それは知ってる。生還者だから、姉さんは動かない。

「家に、僕の家にいるんだよね」

 そうだ、僕の家には変わった名前の猫がいる。でも、それと同時に生還者になった姉さんもいて……

 そうすれば世界の矛盾は消える。

「そんな訳ないよ」

「え?」

「だから、あいとが自分の家にいるのかって聞いたから、そんな訳ないよって答えたの」

 世界が再び崩れだす。

 いや、もう気づいていた。全てが遅いのだと。

「アイカお姉ちゃんがいるのは、都会の病院の無菌室の中だよ。もうその中でしか生きられないんだよ。ううん、その中であっても、ただ生かされてるだけなんだよ」

「生かされてるだけ?」

「うん、生きてるだけ」

 アサヒが話すのは、おおらかなイメージの彼女には似合わない、とても暗い話。

「ぼんやりと意識はあるらしいけど、動けない。歩けない。喋れない。呼吸も食事も排泄も一人じゃできない」

 記憶がフラッシュバックする。

 白い病室で眠るアイカ姉さんを、大きな窓越しに見ている。

 遠い遠い存在。手の届かない存在。

「今も、ベットに繋げられて生きているの」

 転院。都会の病院。延命治療。

 どこかで聞いた言葉が、流れ込んでくる。

「そんな、お父さんとお母さんは」

「この状態を医者にお願いし維持してるのは、当然そのアイトの両親だよ。そのためにアイトのお父さんは別の場所で、がむしゃらに働いてる」

「そんな」

「それでも、アイカお姉ちゃんの体はもって……半年だったかな」

 家族四人で暮らせる生活にはかえられない。そう言って

 言って。言って……言って?

 言って。だから、この状態なのか。

 これが、家族四人で暮らせる生活なのか。

「今、私が言った言葉は、ほとんどアイトの受け売りだからね」

 姉さんがいなくなって、壊れる筈だった僕の世界。

「そんな、僕は」

 そうだ、あの日。姉さんは僕たちの前で血を吐いて倒れて。

「大丈夫だから」って、

「いつもの事だから」って、

「いつもどおり、ちょっと入院すれば、すぐ戻ってこれるから」って、

 そう言っていた。

 そう笑って言っていた。

「いつもの大した事のない病気」

「いつもの大した事のない症状」

「だって、こんなの慣れてるから」

「何でもないから」って、でも。

 アイカ姉さんはそのまま……

 だから、僕は

「僕は……」

 壊れてしまっていた……のか。

 壊れて……

 それを理解した瞬間、頭の中に今日の自分の行動がよみがえる。

 どう考えてもおかしな思考をしていた。

 ただただ生還者の存在を肯定するためだけの、不自然な思考。

 最後には、生還者を否定させないためだけに、口をつぐんでいた。

 そこにあったのは、もはや世界なんて呼べるものではなかった。

 ただひたすらに独善的な、自己の妄想にすぎなかった。

 駄々をこねることで親に自分の理屈を通し、自分の願いだけを叶えようとする。

 そんな、まさに子供だった。餓鬼だった。

 それに気づいた時、僕の脳は、いや僕の精神は、真っ白になって

 思考するのをやめて

 感情を発露させる事もやめて

 アイカ姉さんのことも忘れて

 ただ、停止した。

 そして次の瞬間、逆再生が始まる。

 記憶の逆再生。アサヒとの語らいが声もなく巻き戻る。

 巻き戻り、巻き戻り、巻き戻り、止まる。

 僕の脳みそがそうやって必死に思い出したのは

 金網が取れ枠だけになったフェンスと

 その先にある、どこまでも続く青い青い空だった。

あとすこし

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