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第12話(最終話)「夢の終わり」

 僕の脳みそがそうやって必死に思い出したのは、金網が取れ枠だけになったフェンスと、その先にある、どこまでも続く青い青い空だった。



 晴れた日の空は何色か?水色とか、白とか青とか、そんな感じだろうか?

 それは認識。空の場合は青空という言葉があるので、晴れているから無条件に青と答える人もいる。実際に青色に見えている人もいるだろう。僕も今、空を青と表現した。

 認識とは人それぞれだ。この場合どれも間違いではないはずだ。

 また「晴れた日の空は何色か?」と言う質問に、それが夜なのか朝なのか、時間を明記していない時点で、深夜の黒と答えても間違いではない。

 夕暮れを想像すれば、赤となるだろう。

 認識がばらけるのは「晴れた日の空」というのが曖昧で想像しずらいうえに、情報としても完璧ではないからだ。

 なら真っ白のハンカチなど、認識がぶれる余地が無いものならどうか?

 誰がどう見ても白。100人が100人、見れば白色だと答える。

 もしここでこれを水色とか、まして青と認識するなら、それは誤認と言っていい状態だ。

 誤認とは何か?間違った認識だ。知識の不足や欠如。勘違いや見間違い。混乱や洗脳。それに至る理由はいくらでもある。

 ただその認識が誤認であろうとなかろうと、それをそれだと認識した時点で、思考はその情報に引っ張られる。

 実際その者にはそのように見え、そのように感じられているのだから。

 白いハンカチを赤いハンカチと誤認するとは、どういうことだろう?

 それは元々そういう色だと認識するのか、もしくは元は白いハンカチだが、今は何かしらかの理由によって赤くなっているという認識かもしれない。

 後者である場合、汚れていない真っ白なそれを、汚いと判断して捨てる可能性もある。

 これは潔癖症などにも通ずる。一度汚いと認識してしまうと思考で綺麗だ汚くないと考えても、どうしようもないのだ。

 認識するというのは、考えることの前段階だ。

 何かを見た時に即座に物事を脳が判断する。状況を把握する。外で晴れ渡った空を見上げる。晴れている。みたいな感じだ。

 外で晴れ渡った空を見上げながら、晴れていかどうかを思考する人はいない。

 真っ白なハンカチを見ながら、それが何色か考える者もいない。

 まず先に認識がある。何かを見てそれを映像として捉える。人はそこから考えをめぐらせる。ここからが自由意志というやつだ。視覚情報以外も同じ、認識という行為に自由意志は無い。

 そして認識が誤った場合、自由意志より前の段階で状況の把握が間違い、あとにくる自由意志も間違う。それだけのことだ。

 でも、たいていの誤認は現実に齟齬が生じればすぐに、それを誤認であると気づくだろう。

 例えば雨が降ってるのに降ってないと誤認したとする。家の中からでは分からない、太陽が見えるのに降っているという場合もある。ただ外に出てしまえば、すぐに気づく。体は濡れるし、皮膚の感覚ですぐ分かるだろう。

 お風呂で水なのに、お湯だと思って手を入れて冷たさに驚くことはないだろうか?お湯だと思ったら水だった。そこで誤った認識が正しい認識に置き換えられる。

 置き換えられたらどうなる?それまでとろうとしていた行動が変わる。

 認識が変わり、思考の中にあった土台が変わるから。思考をやり直し、その状況にそった行動をとる。

 お風呂でお湯だと思って水だったら入るのをやめるだろう。

 天気だと思って外に出たら雨が降っていた。出かけるのをやめるかもしれない。

 正しい情報とはそれだけ重要であると言うことだ。争いの中では相手に誤認させるためだけに、多くの資金と犠牲をはらうこともある。

 また暗示や催眠術、時間をかけての洗脳など、極端な状況を誤認させるための手法も存在し、これは自身に対して行う時もある。自己暗示や自己催眠というやつだ。これは脳が無意識に行う場合や、反復して思考することでそれに近い状態となることもある。

 暗示や洗脳が最も多用されているのが宗教だろう。

 本来この世界のどこにもいない「神様」や「創造主」などを、いると錯覚し宗教に救いを求めさせ「ありえない奇跡」をあると錯覚させる。

 他人がそれを否定しても、信仰心のない者の言葉など聞く価値もないと頭から否定して、世界の誤認を続ける。

 さて本題だ。

 何かを誤認していた場合、自由意志より前の段階で状況の把握を間違い。あとにくる自由意志も、おのずと間違う。

 普通ではない言動。常識では考えられない行動をとる。

 人前で着替えだしたり、ただの草を幽霊だといって騒いだりする。

 冷たい水が入っている風呂に、温まるために入ろうとするなどその典型だろう。

 誤認によって真実とは違う状況が頭の中に作られるからだ。本人は何の疑いも無く、それにそった行動をとる。

 人は真実ではなく、状況によって動くからだ。

 ある日を境に僕は、生還者がいるという状況を認識し、誤認した。

 それはありえることだろうか?

 誤認すること自体はありえることだ。

 どうしてそう言い切れるか。全ては僕の主観だから。僕に友達や話し相手がいないのも、その手助けとなっただろう。

 僕の頭がそういう風に、世界を捻じ曲げて認識することを誰も阻害できない。

 それに昔から僕の脳は、僕に都合のいい世界を見せていたんだと思う。

 それは間違い探しのように、ふとしたきっかけで僕も気づく時はあるけど、たいてい僕が気づかない程度のこと、それこそ後から思い返しても、勘違いや見間違いですませられる程度のことだ。

 周りから無視されていても、それを認識しない。

 陰口や悪口を言われていても、普通の言葉や日常会話だと誤認する。

 認識しないこと、誤認し続けることで守られる世界。世界ではなく心と言うべきかも知れない。そういうものがある。

 どうすればいいのか?真実を知るべきか?それは否だ。

 少なくとも僕はそれを望まない。

 なら、誤認によって生まれた世界を守る。どうすれば守れるのか?

 お風呂で水なのに、お湯だと思って手を入れて冷たさに驚く。そこで誤った認識が正しい認識に置き換えられる。

 この話を主軸に考えるなら、その水に触れなければいい。手を入れなければいい。水の冷たさを感じなければ、それをお湯だと永遠に勘違いし続けられる。

 ならその方法は?

 お湯に手を突っ込んだら常識的に考えて火傷する。だから、絶対にお湯には触らない。そう自分に言い聞かす。

 こうすれば、常識的に行動する限り、それを水だと気づかない。

 だが熱気が無い。湯気が出ていない。という視覚情報から目をそらし続ける必要がある。他人からの指摘にも気をつけなければならない。

 世界の常識を誤認するとは、そういうこと。

 無意識で行わない限り、まず不可能な思考だ。

 なら生還者のいる世界を守る方法は?

 答えは出ている。これも不可能だ。

 認識はもう、正しいものに置き換えられた。

 でも、それでも僕は「大多数の絶対幸福」のある世界を守りたい。

「アイトはさ、アイトは図書館で本を読んでたね」

「え?」

 突然の言葉にハッと我に変える。

「アイトはさ、おかしいよ」

「なにが?」

「自分がおかしいことに、気づかないところ」

 耳が痛い。でも僕は、自分がおかしいことは自覚してる。

 違う。ずっと自覚してるフリをすることで、あえて追求しなかったんだ。

「アイカお姉ちゃんを助けるために図書館で本を読み漁ってたって言うのに、アイカお姉ちゃんの病気に少しも詳しくないの。でも、偏った知識だけはある。何故かな?」

「それは……」

 その理由を僕は、知ってる。

「アイトはね図書館で物語を作っていたの。アイカお姉ちゃんに聞いてもらうために」

 やっと思い出した。あやふやだった記憶。

 アイカ姉さんが倒れる前の、バカみたいな熱意。

「でも、その物語を聞かせる相手は……アイカお姉ちゃんは、だから自分に聞かせた。そして信じ込んだ」

 やっと思い出した。アイカ姉さんが倒れた後の、絶望感と後悔も。

「理論武装したの、アイトは図書館で本を読んで作った自分の物語で、そうしないと、とても弱いアイトの心は、壊れてしまっていただろうから」

 そうだ。僕は弱いんだ。僕はバカなんだ。

「アイトは、自分の世界の救世主になったんだよね。壊れそうな心を、自分の世界を救ってたんだよね」

 ずっとずっと知っていた。ずっとずっと前から分かってた。

 だから、アイカ姉さんは……

「聞かせてよアイトがさ、ずっと考えてた話。アイカお姉ちゃんのためにずっと考えてた話。ずっと信じていたっていう、アイカお姉ちゃんを救う世界の話を」

「アサヒ」

 違うんだよ。僕の考えた世界に、救いはないんだ。

 とても弱い奇跡があるだけなんだ。

「私にも聞かせてよ。アイトの世界の救いの話」

 僕の口がとつとつと、語り始める。

 まるで言葉がこぼれて、その先から消えていくように。

「半年もしない内に、アイカ姉さんは死ぬ」

「うん」

「でも、大丈夫」

「……」

「世界は変わったんだ」

「……」

「人は死んでも」

「……」

「生還者となって」

「……」

「生き返るんだ」

「……」

「だから、だから」

「……」

「だから、家族四人で」

「……」

「家族四人で暮らせる日々が」

「ねぇ、アイトはさ」

「えっ?」

「アイトはさ、何をそんなに恐れているの?」

「えっ」

「生還者っていう死者の復活は、完全なものじゃないんだよね」

「何で分かるの?」

「アイトの話し聞いてたら、だいたいね」

「復活しても、歩けないし喋れないんだ。あと」

「そっか、アイトが怖がってるものが分かったよ」

 冷たい目のアサヒがいた。

「それは、死だよね」

「ううん死は消えたんだ。この世界において死は、克服できる現象なんだ」

「ううん、アイトは死を恐れてる。怖くて怖くて仕方ない」

「人はもう死を、悲しまなく、そして恐れなくなったんだ」

「死を、悲しまなくなった。悲しいねアイト。それでいいのアイトは?」

「え?」

 意味が分からない。

「その世界でさ、アイカお姉ちゃんの死に誰か泣いたの?」

 皆が泣いていた。「よかった」と言って泣いていた。

「うん、泣いてたよ」

「じゃあ、その世界でアイトはさ、アイカお姉ちゃんの死に泣いたの?」

 あの異常な日常がある場所で僕は。

「僕はアイカお姉ちゃんが死んだ時どうしようもなく泣きたかったけど」

「……」

「泣けなかったんだ」

「……」

「死んでも復活するから、だから何も悲しまなくていい……アイカお姉ちゃんは帰ってくるんだから」

「……」

「だから強く信じて、泣かなくてもいいて思った」

「そう」

「だから、泣かなかったんだ」

「そっか、大切な人になにかあった時、とても悲しいと、泣きたいと思ったのなら……そんな時は、泣けばいいのにね」

 でも泣かなくていいと家族が言った。

「アイカはいつか元気になって帰ってくるから、無理に泣く事はない」って

 医者も言った。

「病気と頑張って戦った君の姉さんは、神様から人生の続きをプレゼントされた。生き続けられるんだ。だから泣くのではなく喜んで、今の姉さんを迎えてあげようね」って

 そう言ったんだ。

 それが新しい世界の常識なんだ。ルールなんだ。

「姉さんは動けなく喋れなくなってしまったけど、そこには悲しむべきことは何一つとしてなくて、喜びがあるんだ。死ななかったから、生きてるんだから喜びがあるんだ」

「でも泣いてもいい。ううん、泣いて当然なの。でもアイトは、アイカお姉ちゃんがああなった時、ずっと泣くのを耐えてたよね」

 蘇る。生き返る。空っぽの状態で、帰ってくる。

 姉は生き返った。ただそれだけの事実がある世界。

 奇跡を信じる。未来を信じる。嘘を信じる。生還者を信じる。

 いつか心さえも帰って来ると、信じる。

 だから何も悲しまなくていい。

 だから泣かなくてもいい。

 だって皆、みんな生き返るのだから。

 生きて還ってくるんだから。

 悲劇なんて無いんだから。

「アイトはさ、いつから妄想を信じてたの?死者の復活なんて妄想を」

 いつから?いつからだろう?

 思い出せない。確か姉さんに何か言われて、それで……

 足が震える。体が寒い。

「いまアイカお姉ちゃんは、必死で生きていて、アイトのお父さんはそれだけのために働いてる」

 ただ、自分がしてきたことが、とても愚かに感じる。

「それなのになに?死んでも復活する?」

 でも僕は、生還者がいる世界を、姉さんと暮らせる世界を。

「いいアイト、死んだ人間はね。絶対に」

「やめてアサヒ」

 僕の言葉に対してアサヒは首を振る。

 ……やめてアサヒ

 アサヒはきっと、次に口を開いた時、僕の世界を完全に否定する。

 今さらだろうか、それでも僕は

 再び金網の向こうを見下ろす。

 フェンス越し、眼下には中庭のはずれの大きな花壇が見える。

 だとすれば、向こうの金網の無いフェンスの下は、焼却炉の近くかなと思う。あのあたりは石畳だったはずだ。

 あそこから飛び降りたら、人は死に生還者になるのだろうか?

 それは……

 ……どうするの?

 なにが?

 ……アイトは弱いままでいい。無理しなくていい。

 なに言ってるのアイカ姉さん?

 ……アイトが、私や生還者のいる世界お守るために、飛び降りたりするのかと思って。アイトが昔に話した、裸の王様みたいに。

 懐かしいね。裸の王様か、でもこの世界を守るなら僕は、そんな選択肢は選ばないよアイカ姉さん。

 ……そっか。飛び降りられるわけがないか。

 頭に響く声が消える。

 そう飛び降りられるわけが無いんだ。

 理由は二つ。僕の知る生還者のいる世界では、自殺者は減ってる。

 何故か?死の先にあるのが未知ではないから。

 単純な話。生還者を希望や奇跡といいながらも、誰もソレになりたくなどないのだ。だから自殺者は減った。

 これが僕の世界だ。僕の話したかった世界だ。

 死を否定し、生きることを強制する。死の先に極楽浄土や、輪廻転生などという独り善がりの幸せを作らない。死の先に救いや今以上の幸福があるなんていう、いかれた思想を語らない。

 あるのは自由の無い復活。あるのは大多数の絶対幸福というシステム。

 それが僕の世界だ。

「いいアイト、死んだ人間はね。絶対に、生き返ったりなんてしないんだよ」

 アサヒの声が、僕の耳に届いた。

「アイト、それは全部、アイトの夢だよ」

 それは、僕の世界を否定する声だ。

「アイトらしい不器用な夢。人を信じられなくて、世界を信じられなくて、完全な奇跡を信じられなくて、ハッピーエンドを信じられなくて、そんな中で生まれた。最低限の奇跡の夢。少しさびしい奇跡の夢」

 目の前の女性が、裸の王様である僕に最後の質問をする。

「どうしてそんな夢を見たの?」

 どうして?聞かれるまでもない。

 僕は弱い。何も出来ない。何でそんなことを聞くんだアサヒは。

「分かるよ。でもアイトが認めなきゃダメなことなんだよ」

 僕が認める?

「現実を捻じ曲げて見ていたアイトが、アイカお姉ちゃんの現状を認めるためにはさ、その感情を、受け入れなきゃダメなんだよきっと」

 その感情、僕が恐れて、逃げた感情。知ってる。

 それは、アイカ姉さんが倒れた後の、絶望感と後悔。

 そして罪悪感。

「死」がこの世から消えれば、全ての恐怖は、この世から消えると信じ、「死」を否定した。

「アイトはその感情と向き合わずに、物語に逃げた。今も逃げてる。自分は弱いと認めるフリをして本当の恐怖からは、一番遠い場所にいる」

「僕は怖かったんだ。死を初めて実感して、本当に大切な人の死を、間近で実感して、凄く怖くなったんだ。それがどうしても、どうやっても避けられないものだと実感したんだ。だから」

 思い出されるのは、夕暮れの下校中の風景。

「アイカお姉ちゃんは強いから、それでも最後は大丈夫って言ってたけど、信じられなくなったんだ。今までアイカお姉ちゃんは、そんな雰囲気は出さなくて……どんな苦しくても笑ってた。でも、あの時は違ったんだ」

 思い出されるのは、小学校と中学校の分かれ道近く。大きな交差点。

「そばに駆け寄ることも出来ないくらいで、大丈夫って言ってたけど、怖くて。恐くて、足がすくんで……アイカお姉ちゃんは笑顔で大丈夫って言ってくれたのに、僕のほうが泣きそうで、僕は弱くてバカで」

 そこでアイカ姉さんは血を吐いて倒れたんだ。

「次第にアイカお姉ちゃんの、その言葉も聞こえなくなって、とてつもなく不安になって、僕は何もせずにそこにいて……僕がもっと賢く、強い意志で動けていれば今……今もアイカお姉ちゃんは学校にこれていたかもしれない」

「それはないよ。アイト」

「でも、僕が」

「それはないってことだけは、断言できるよ。あの場にいた一人として、アイトのような子供ごときが、あの場でどんなに的確に動いても、アイカお姉ちゃんの今は変わらなかったって」

 強いまなざしで、アサヒが僕を見据えて言う。

「あの場には私達だけじゃない。多くの人がいた。覚えてる?夕暮れのあの場所には、私たちと同じように下校する生徒とか、車に乗ってる人とか自転車に乗ってる人とか、救急車を呼んだのだって、その中の一人だった。それでもね。あの場にいた皆がどんなに頑張っても、アイカお姉ちゃんの今は変わらなかったよ」

「何でそんな、こと言えるの?」

「それはね、アイカお姉ちゃん自身が言ってたもの……」

 それは知ってる。アイカ姉さんは言っていた。

「運が悪かったね。ごめんね」って。

 でも、だからって。

 そうだ僕は、その言葉で納得した素振りを見せておいて、でも心の中ではぜんぜん納得なんてしてなくて、あの日から僕は、運が悪いだけで終わってしまう、こんな世界を否定して、否定して……

 完全な精神錯乱状態。混乱状態。自身に対する洗脳。無意識における暗示。

 それこそが僕が生還者を信じた状態なのだろう。

 あの時の、あの言葉のあとからだろう。僕が生還者を信じていったのは、あのあと僕は図書館へと通い話を作るという作業に逃げた。

 完成した話は生還者の話しで、僕はまるで聖書に救いを求める狂信者のごとく、それを頭の中に刷り込んでいった。

 そして僕は、ずっと行っていなかった姉さんの見舞いに、ある決意をもっておもむいた。

 そうだ、僕が姉さんの見舞いに行った次の日だった。姉さんは急に病気を悪化させて、それで両親は予定していた転院を早め、転院がすんだころには姉さんは、既に重態で自由のほとんどを失っていた。

「転院する前、まだ話すことの出来た姉さんと、最後に会ったのは僕だった」

「そうだったね。何を話したの?」

 何を話したか?多分だけどアイカ姉さんは、それを悟っていたのかもしれない。自分の終わりが近いのを、だから。

「特に何も、ただ……僕がわがままを言って、姉さんを困らせただけだよ」

「そう」

 あの日の僕は

 覚えている。僕の不可解な行動。アレは泣きながら廊下を走っていく先輩を見た後の話だ。


 そんな心にもないことを笑顔で言って、薬と水が入った鞄を、姉さんのそばの椅子の上に置いた。


 僕はあの日あの時、大量に買った薬と水を鞄に入れて、姉さんの見舞いに行ったんだ。

 浅はかな僕が、買い集めた市販の薬、そんな物で姉さんが元気になるはずなんて無いのに、あの時から既に僕の頭はおかしかった。

「僕が姉さんを、あんな姿にしたのかもしれない」

「そっか」

 あの薬はどうなった?僕を安心させるためだろう。優しいアイカ姉さんは、いくつか飲んでくれた。

 その後、残った薬はどうした?

 持って帰った記憶は無い。持って帰るはずがないんだ。

 あの時の僕は、あの薬で姉さんはよくなる、なんてことを本気で思っていたんだから。なら、もしかして姉さんはあの後も、薬を?

「ぜんぶ僕のせいかもしれないんだ」

「そっか、それがアイトの悩みか」

 そうだとても自己中心的な僕の、僕の苦悩だ。

「そっか、そんなこと思って悩んでたんだアイトって」

「そんなことって」

 そんな事と言われてカッとする。

 だけどアサヒは笑う。今度のそれは、本当に自然な笑顔だ。

「相変わらずアイトはさ~色んなこと考えてるんだねぇ~。でも考え事ばっかだと、頭ハゲるんだよ~」

 それは昔、悩みを話したときに言われた言葉だと、はっきりと覚えている。

 そうだ僕は一度、アサヒに不安を打ち明け相談したんだ。

 生還者になったアイカ姉さんの事。未来、ずっと先の家族。

 あの時の僕は生還者についてどこまで話した?

 アサヒは今までの話で、生還者の意味について一度も聞いてこなかった。まるで生還者のことを、前から知っているようだった。

 そうかアサヒは……ずっと前から全部、知ってたんだ。

「アイトはさ勘違いしているよ。アイカお姉ちゃんが言った運が悪かったねって言うのはね、自分の病気のことじゃないんだよ」

 アサヒの独白が始まる。それはアサヒが抱えていた真実で、きっと僕に何度も話そうとしていたと思う。

 でも生還者という物語に逃げた僕を見て、アサヒはきっと僕を見守ることに決めたんだ。

「最後に私がお見舞いに言った時かなアイカお姉ちゃんはこう言ったの。自分の病気のことはずっと前から知ってたって、でも話して病院に連れて行かれるのが怖くて、病院に入れられるのが怖くて、病院に閉じ込められるのが怖くて、きっともう、この病気で終わりだろうから最後まで家で暮らしたくて、分かった気になってずっと我慢していたって、アイカお姉ちゃんは、自分でもバカみたいって思うって、そう言ってた」

 語られるのは僕の知らないアイカ姉さんの話。

「病気がそんなにすぐに、内臓をつぶすほど悪化するわけがない。病気はずっと以前からアイカお姉ちゃんを蝕み苦しめてた。アイカお姉ちゃんはずっと前から病気の兆候を知っていたの。それでも、皆に言わずに日常を楽しもうとしていたの。だからあんな結末になっちゃった。でも後悔はしてないとも言ってた。ずっと頑張って、我慢して日常を楽しんでいたから。楽しめたからって、でもね…アイトの前で、そして私の前で倒れてしまったこと、血まで吐いて、皆に怖い思いをさせてしまったことを、謝りたいって言ってた。運が悪かったねっていうのは、私たちに言ったの、だからごめんねって言ったの。血を吐いて倒れたのが学校や夜中なら、アイトの前でさえなければ良かったのにって、本当に怖い思いをさせてしまったって、そのことが運が悪かったって、タイミングが悪かったって言ってたんだよ。そして自分のせいだって、あの夕暮れの帰り道での出来事は、アイカお姉ちゃんの自業自得なんだって、これはアイカお姉ちゃん本人の言葉だよ」

 とても優しい。僕がよく知っているアイカ姉さんの話だ。

 あの頃と変わらない。とても強いアイカお姉ちゃんの話だ。

「そしてアイカお姉ちゃんは延命措置を拒んだけど、ご両親がそれを望んだ。これまで娘に何もしてやれなかったからこそ、何かしたいって思ったんだろうね。アイカお姉ちゃんは自由を失ったら、そのまますぐに死ねるぐらいがちょうどいいって、そう思ってたみたいだけど、さすがにそうもいかないみたいって笑ってた。両親に泣かれちゃったって、落ち込んでた。アイトにも私のわがままで、怖い思いさせたうえに、これからもきっと不安でつらい時間だけを与えるんだろうなって、それが最後の思い出になるんだろうなって暗い顔してた」

 僕が自分の心だけを必死に守ろうとしている時も、全部知ったうえで、ずっと……アサヒとアイカお姉ちゃんはずっと……僕のことを見守ってくれていたんだ。

 そしてアイカお姉ちゃんと一緒に、ずっと僕が物語という夢から覚めるのを、待っていてくれたんだ。

「ごめんねアイト今まで黙ってて、これが私が最後にアイカお姉ちゃんと話した内容だよ。全ては自業自得だから、私以外誰も悪くないからって、そう言ってたよ」

 静かにずっと、見守って待ってくれていたんだ。

 こんな臆病な僕を。

「どうしようもないんだって思えるくらいに、怖かったんだよね。アイカお姉ちゃんが自分のせいで入院して、今日の今にも死ぬんじゃ無いかって、思ってたんだよね。どうすればいいのかわからない、その状況が悲しくて怖くて。だから生還者というシステムを、人が死んでもいいシステムを考えたんだ。アイトはただひたすらに怖くて怯えて、だからそこに逃げ込んじゃったんだね」

 ずっと、逃げていた僕を。

「でももう、帰っておいでよ。向かい合う勇気は、まだまだ無いかもしれないけど」

 アイカお姉ちゃんは、まだ僕と会いたいと思ってくれているのかな?

「また、アイカお姉ちゃんのお見舞いに一緒に行こ」

 まだ間に合うのなら、もう一度アイカお姉ちゃんに会いたい。

 生きてるアイカお姉ちゃんに会って、それで。

 それで、それで。

 それで、どうしたいのか。

 どうしたらいいのか、分からないや。

 アイカお姉ちゃん。

「ははは、やっぱりハッピーエンドって難しいねアサヒ」

「なにそれ~」

 アサヒがいつもの口調で笑う。

 ずっと僕が逃げてきた、もの。

「どうしたいのか分からない。どうしたらいいのか分からない」

 そんな気持ち。不安。

 それは、この世界で生きると言うことだ。

 ハッピーエンドの存在しないこの世界で……

 生きるということだ。

「お帰りアイト……」

「うん……」

「ごめんねアイト」

 こうして裸の王様は、真実にたどり着いた。

 どこにでもある、真実にたどり着いた。

つぎはエピローグで、いちおうしゅうりょうです

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