中編
小学三年生になる頃、野球は私の生活の中心になっていた。
学校が終わればランドセルを家に置き、ユニフォームへ着替えてグラウンドへ向かう。
どれだけ嫌なことがあっても、野球の日だけは足取りが軽かった。
家では笑えなくても、グラウンドでは自然と笑うことができた。
そんな私に、初めて「友達」と呼べる存在ができた。
それがりょうまとりょうだった。
りょうまは、とにかく明るかった。
初対面でも遠慮なく話しかけてきて、誰とでもすぐに打ち解ける。
「愛人!終わったらキャッチボールしよう!」
その一言が、私たちの始まりだった。
一方のりょうは、口数こそ少ないものの、人の気持ちをよく理解していた。
私が一人でいると、何も言わず隣へ来て座る。
無理に話しかけることはしない。
その距離感が、私には心地良かった。
気が付けば、私たちはいつも三人で行動するようになっていた。
学校が終われば公園へ集まり、暗くなるまで野球をする。
試合で失敗した日は、お互いを励まし合う。
勝った日は、アイスを食べながら笑い合う。
私にとって、それは初めて味わう「仲間」という存在だった。
四年生になると、チームには個性豊かな仲間が集まってきた。
豪快なバッティングが持ち味のくわ。
誰よりも負けず嫌いなせき。
足が速く、外野を駆け回るこうき。
場を明るくするムードメーカーのでぐち。
そして、どんな練習も手を抜かないまさき。
練習は決して楽ではなかった。
監督は厳しい人だった。
ノックでは一本でも捕れなければ、何度も同じことを繰り返す。
声が小さければやり直し。
走る姿勢が悪ければ、もう一度グラウンドを走る。
「野球は技術だけじゃない。」
監督はいつもそう言っていた。
私はその言葉の意味を、まだ理解できていなかった。
それでも、監督の期待は少しずつ私へ向けられていった。
試合ではスタメンとして出場することが増えた。
守備ではミスが少なく、打席でも結果を残していた。
「愛人なら大丈夫。」
監督はそう言ってくれた。
嬉しかった。
でも、その言葉を聞くたびに、心のどこかが寂しかった。
監督は、できない子には時間を掛けて教える。
できるようになるまで付き添う。
でも、私は違った。
「できるから任せる。」
その一言で終わる。
もちろん期待されていることは分かっていた。
でも私は、もっと教えてほしかった。
もっと見てほしかった。
もっと褒めてほしかった。
それは今思えば、子どもとして当たり前の気持ちだったのだろう。
ある日の練習後。
みんなが帰る準備をしている中、私は一人でグラウンドに残っていた。
バットを握り、黙々と素振りを繰り返す。
一回。
二回。
三回。
気が付けば百回を超えていた。
手にはマメができ、皮が破れて血がにじんでいた。
それでも振るのをやめなかった。
家に帰っても、玄関の前で素振りをした。
夜になると、父がボールを投げてくれる日もあった。
街灯の明かりだけを頼りに、何度もボールを打った。
勉強では誰にも勝てなかった。
だからこそ、野球だけは負けたくなかった。
五年生になると、試合数も増え、チーム全体が強くなっていった。
今まで勝てなかった相手にも勝てるようになり、自信がついていく。
そんなある日、監督から言われた。
「愛人、お前はショートをやってみろ。」
ショート。
内野の要。
誰よりも広い範囲を守り、試合全体を動かすポジション。
最初は驚いた。
「本当に自分でいいのか。」
そんな不安もあった。
しかし、グラウンドに立つと、その景色は今までとはまったく違って見えた。
ピッチャーの表情。
一塁手の構え。
ランナーの動き。
打者の癖。
すべてが見える。
ショートは、ただボールを捕るだけではない。
チーム全体を見て、一球ごとに判断するポジションだった。
私はこのポジションが好きになった。
自然と声も出るようになった。
「ナイスボール!」
「ツーアウト!落ち着いていこう!」
気付けば、人前で話すことが苦手だった私が、一番大きな声を出していた。
野球は、少しずつ私を変えていた。
内気だった少年は、グラウンドの上だけは堂々と仲間へ声を掛けられるようになっていたのだ。
そして、このチームは、誰も想像していなかった景色を見ることになる。
それは、チームの歴史を変える、大きな挑戦の始まりだった――。




