渚より
数日後、空気は奇妙な静けさを取り戻しており、遠方で起きた破壊の記憶がまだ現実として実感しきらないまま、街はどこかぎこちない日常を維持していた。
ブリスベンの人々は噂と断片的な報告の中で状況を理解しようとしながらも、目の前の生活を手放すことができず、荒野の向こうで起きている出来事を半ば他人事のように受け止めていた。
だが、その日は違った。
モートン湾の水面は穏やかに揺れており、光を反射して眩しく輝いている。
その奥に、あまりにも不釣り合いな影がゆっくりと侵入してきていた。
漁に出ていた者たちがそれに気づき、双眼鏡を手に取って覗き込み、言葉を失ったまま動きを止める。
それは商船や漁船ではない………あまりにも歴とした“軍艦”だった。
やがてその姿は岸からも一目瞭然となり、港にいた者や高台にいた者たちが次々と海を見つめていく。
巨大な艦影が、湾内へと侵入してくる。
その動きはゆっくりとしているが、迷いは無い。
進路は明確、まるで最初からここへ来ることが決まっていたかのようだ。
やがて艦影は十分岸に近付き、その細部がはっきりと見える距離に入る。
重厚な艦首、上に高く伸びる艦橋、そして前方を向く巨大な砲塔。
………金剛型戦艦、榛名。
その艦は明らかに損傷を負っており、甲板には焼け跡が刻まれている。
いくつかの構造物は歪み、細く煙が立ち上っているが、それでもなお全体としての威容は失われていなかった。
むしろその傷が、この艦がここに至るまでに通過してきた戦いを物語っているかのようだった。
岸に立つ人々は、その存在をただ見つめている。
なぜここにいるのか、どうして侵入できたのか、そして何をするつもりなのか………その問いが形を取る前に、榛名の砲塔がギリギリと音を立てて動き出した。
ゆっくりと旋回する4基の砲塔、その動きはあまりにも機械的で、意図を隠す余地すらなかった。
──────艦砲射撃。
それを理解した者がいたかどうかは分からない。
だが、その現実を理解したとして、残された時間の猶予は、あまりにも短い。
次の瞬間、砲口から轟炎が迸り、遅れて轟音が空気を引き裂いた。
1945年8月26日
ブリスベン及びサウス・コースト(ゴールド・コースト)で複数発の核砲弾が炸裂。
推定死者数約25万人。
同日 キャンベラ
オーストラリア連邦議事堂、首相執務室の机は、机の上に積み上げられた報告書で埋まっていた。
廊下からは断続的に慌てた人々の出す雑音が流れ続けており、室内にいる者たちは誰一人として落ち着いた動作を保てていない。
オーストラリア首相ジョセフ・ベネディクト・チフリーは、その混乱の中心で立ったまま書類に目を通していたが、内容を読み進めるにつれて、その表情は明らかに変化していき、やがて認識と理解の間に生じるわずかな遅延が、動きを止める形となって現れた。
差し出された電文は短く、しかし異様な密度を持っており、余計な説明を排したその文面が、かえって事態の重大さを直接的に突きつけてくる。
ブリスベン。
その地名の後に続く言葉が、信じ難い内容を伴っているにもかかわらず、複数経路から同様の報告が届いているという事実が、それを否定する余地を奪っていた。
「……砲撃、だと?」
その声は抑えられていたが、明らかに平静を欠いており、周囲にいた者たちが一斉に視線を向ける。
「湾内に侵入した敵戦艦が、新型爆弾を弾頭に搭載したと思われる大威力砲弾で市街地を直接砲撃……被害、甚大……」
読み上げる言葉が、自らの口から発せられているにもかかわらず、どこか現実感を伴っていない。
ブリスベンが砲撃され、壊滅する。
それは理論上は起こり得る。
しかし、現実として成立するためには、あまりにも多くの「既知の概念」が崩壊していなければならない。
「……米軍は…英軍はどうした」
問いは反射的に発せられたものであり、答えを期待しているわけではなかった。
それでも、返ってきた言葉は残酷なほど簡潔だった。
「オーストラリアに展開する米英軍は先の交戦で壊滅状態であり………現状、両軍の有効な戦力は……存在しません…」
室内の空気が、さらに重く沈む。
チフリーは、ゆっくりと息を吐き、机に手をついた。
その動作は落ち着いているように見えたが、指先にはわずかな震えがあった。
「……単艦で、こんなことが可能なのか」
呟きは低く、しかし確実に状況を把握し始めていることを示していた。
戦艦の艦砲射撃で、都市が破壊される。
それ自体は、これまでの戦争の常識から逸脱しているわけではない。
だが、ここに至るまでの経緯が、それを単なる一時的事象として処理することを許さなかった。
「……次はどこだ」
その言葉は問いであると同時に、すでに始まっている連鎖への理解でもあった。
室内の誰もが、その答えを持っていない。
あるいは、持っていたとしても、それを口にすることをためらっていた。
チフリーは顔を上げる。
その視線は、もはや一都市の被害ではなく、大陸全体、さらにはその先の戦局を見据えていた。
「避難命令だ、沿岸部の主要都市は即時警戒態勢に移行、通信網の維持を最優先に────」
皆が慌てている。
だが、それは混乱ではなく、圧倒的に不足した時間の中で最善を引き出そうとする焦燥だった。
「内陸への分散疎開も検討する、重要施設は移設準備に入れ、政府機能の冗長化を───」
命令が次々と飛ぶ。
だが、それらはすべてとある前提に依存している。
“敵が次の一手を打つまでに、まだ時間がある”という前提に。
チフリーは、そのことを理解していた。
だからこそ、言葉は速くなり、思考は先へ先へと飛ぶ。
「……時間がない」
小さく呟く。
そして、その言葉はあまりにも的を射ていた。
2日後、シドニーの港湾部は、未だ日常の延長のように人の動きが続いていた。
その日常を乱すかのように、突如として政府から避難命令が発令されたが………上空に走った一瞬の閃光が、すべてを断ち切る合図となった。
それは雷ではなく、嵐でもない。
ましてや通常の砲撃の着弾とも違い、空間そのものが内側から裂けたかのような白い光が、視界のすべてを塗り潰した。
一瞬の無音。
だが、大気が押し潰される感覚だけが先に届く。
遅れて───衝撃波が街を叩く。
建物の壁面が不自然に揺らぎ、強烈な光と共に塗料が蒸散し煙に包まれる。
構造はそのまま破裂するように吹き飛び、ガラスは粉砕され、街路に並んでいた車両は玩具のように押し流される。
港の水面が持ち上がり、波が異様な形で周辺へと押し寄せ、桟橋や船舶を巻き込みながら崩れていく。
たかが一発の砲撃のはずだった。
だが、その結果は、砲撃という言葉では到底収まりきらない規模で広がっていった。
核分裂反応の爆心。
その中心から、膨張する光と熱が一気に外へと広がり、街の輪郭を塗り替えながら、空へと向かって立ち上がっていく。
やがてそれは、巨大な黒煙の柱となり、さらに上部で広がり始める。
空を覆うように膨らんでいくその姿は、遠方からでもはっきりと視認でき、都市そのものに一つの墓標を建てたかのようだった。
だが、その下では、より直接的な地獄が現出していた。
人々は、最初の瞬間には何も理解できず、ただ光と衝撃に押し倒された。
その後に訪れる熱と瓦礫の中で、ようやく事態を認識し始める。
叫び声が上がる。
それは個々の声でありながら、次第に重なり合い、一つの連続した音の塊となって街全体を満たしていく。
人々は走る。
どこへ向かえばよいのか分からないまま、とにかくその場から離れようとし、倒れた者を踏み越え、崩れた建物の隙間を抜け、煙と埃の中を手探りで進んでいく。
振り返る者もいる。
だが、その視線の先にあるのは、もはや見慣れた街ではなく、形を失い、燃え上がる何かでしかない。
第二射、遅れてやってくる爆風が再び空気を揺らし、立ち上がりかけた者を再び地面へと叩きつける。
煙と塵が太陽を覆い、空が暗くなり始める。
太陽光は粉塵で濁り、昼であるはずの時間帯が不自然な薄暗さへと変わっていく。
逃げる、逃げる、逃げる。
そこには統制も秩序も存在しない。
都市は、機能を失いつつある。
通信は途絶え、指示は届かず、救助も組織的には行われていない。
ただ、個々の意思だけが、業火の中で生存を試みていた。
そして、その総ての上に、巨大な雲が立ち上り続けている。
キノコ雲は、なお膨張を続け、その影が街を覆い、地上の混乱を一つの陰影として飲み込んでいく。
1945年8月27日
ニューカッスルからシドニー間の都市部で複数発の核砲弾が炸裂。
推定死者数約100万人強。
ホワイトハウスの一室では、机の上に並べられた電文と地図の間で、誰もが言葉を選びながら報告を躊躇っており、沈黙そのものが今の状況の異常さを示していた。
その中心に立つ大統領、ハリー・S・トルーマンは、差し出された報告書に目を通しながら、その内容を追うごとに視線が鋭さを増し、やがて紙面から顔を上げた時には、すでに問いを発する準備が整っていた。
「……シドニーも、か」
低く押し出すような声で確認する。
「はい、原子爆弾を弾頭にした戦艦の砲弾……言うならば、核砲弾の爆発と推定されます。これにより市街地の広範囲が壊滅し……」
説明は簡潔だったが、それがかえって現実の深刻さを際立たせる。
「オーストラリアの沿岸都市が連続して攻撃されているのだぞ……それを、我々はただ見ているだけか?」
問いは抑えられていたが、その奥にある焦燥は明確だった。
「何か手はないのか、艦艇、航空機、あるいは沿岸砲でもいい、あれを止める方法は────」
言葉は途中で途切れる。
答えが返ってこなかったからではない。
返ってくる答えが、すでに分かっていたからだった。
参謀長ウィリアム・ダニエル・リーヒが、一歩前に出る。
その動作は遅く、そして重い。
「……現時点で、有効な対抗手段は……存在しません」
室内の空気が、完全に静止する。
「海上戦力は損耗し、残存する航空戦力も攻撃前に撃退される可能性が高く、また敵の使用している兵器は従来の戦術概念の外にあります」
説明は淡々としているが、その内容は一つしか意味していない。
「……止められない、と?」
「……はい」
短い肯定。
それ以上の言葉は、不要だった。
トルーマンは、しばらく何も言わず、その場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと椅子に腰を下ろし、視線を落とす。
「……では、どうしようも無いというのか…」
同時刻。
荒れ始めた海面の上で、数隻のオーストラリア海軍駆逐艦が隊形を維持しながら、海上を突き進んでいた。
相手は一隻……だが、その一隻が問題だった。
榛名。
傷だらけのその艦は、なおも航行を続けており、外見上の損傷とは裏腹に、その戦闘能力はほとんど失われていないことが、すでにいくつかの戦闘で証明されていた。
駆逐艦の艦橋では、艦長が前方を睨みつける。
距離は縮まりつつある……だが、それは此方が“敵の射程内へ侵入する”ことを意味していた。
「全速、回避運動を維持しろ、散開しつつ接近する」
命令が飛び、艦隊は広がる。
それぞれが異なる角度から接近し、少しでも敵の射撃精度を乱そうとする。
それが唯一の選択肢だった。
「魚雷発射準備────」
だが、その言葉が最後まで続くことはなかった。
前方で、光が走る。
……発射炎。
その一撃は秒速数百メートルで飛来し、回避機動を取る駆逐艦の一隻を、何秒かの後に貫いた。
貫徹、そして水中核爆発。
艦体が持ち上がり、次の瞬間には中央から折れ、炎と破片を撒き散らしながら海面へと崩れ落ちる。
最早、戦闘と呼べるものではなかった。
アデレード郊外の幹線道路は同じ方向へ流れる人と車で埋め尽くされており、荷物を抱えた家族や最低限の持ち物だけを手にした者たちが互いに密集し、同じ焦燥の中で進み続けていた。
舗装の上には置き去りにされた荷物や故障した車両が点在し、進路は断続的に詰まりながらも流れ自体は止まらず、見えない圧力に押し出されるように前へと進んでいく。
空は晴れている。
だが、どこまでも続くその青さは安心を意味するものではなく、どこまでも逃げ場がないことを示しているかのようだった。
遠く街の方向は煙に覆われ始めており、その輪郭はすでに曖昧になりつつあった。
誰もがそれを意識しながらもあえて振り返らず、ただ前だけを見て歩き続けている。
その瞬間、空が光った。
それは今日初めてではなく、既に複数が街の方向で発生していた。
白い光が視界を塗り潰し、輪郭そのものを消し去る。
誰かが足を止める。
続いて別の誰かも動きを止め、流れがわずかに乱れる。
そして誰かがゆっくりと振り返る。
その動きは躊躇いを伴っていたが、一度視線が向けられた瞬間にもう外すことはできなかった。
そこにあったのは光ではなく、膨張し続ける破壊そのものだった。
火球が地面を覆うように広がり、その周囲のすべてを巻き込みながら黒煙を上方へと押し上げていく。
それが一つではなく、距離を置いて複数同時に。
巨大な雲が並ぶように立ち上がり、空を押し広げるように膨張していく。
その光景は非現実的でありながら、否定する余地のない現実として目の前に存在していた。
「……あぁ……」
誰かの声が漏れる。
だがそれは言葉にならず、意味を持たないまま空気に溶ける。
周囲でも同じように振り返る者が増え、前へ進んでいた流れが次第に止まっていく。
足が地面に縫い付けられたかのように動かなくなり、その場に立ち尽くす者が増えていった。
遅れて届く衝撃。
空気が震え、低く重い音が地面を伝わり、身体の内側に直接響くような圧力が押し寄せる。
誰かがその場に座り込み、別の誰かは立ったまま動かなくなる。
泣き声が上がるが、それもすぐに他の音に飲み込まれていく。
すべての意識が背後に立ち上るそれへと引き寄せられている。
いくつものキノコ雲が膨張を続け、その影が地平線を覆い空の色を変えていく。
絶望は叫びではなく、静かに広がる沈黙として場を満たしていった。
1945年8月29日
メルボルンで複数発の核砲弾が炸裂。
直接的な死者数推定約50万人。
同年8月30日
アデレードで複数発の核砲弾が炸裂。
直接的な死者数推定約5万人。
後日、戦艦榛名はタスマニア島、ホバートに強行接岸。
武装した同艦乗員が市内へ突入した。
通りは人で埋め尽くされ、掲げられたプラカードや旗が風に揺れるたびに、色と文字が視界の中で入り混じり、群衆全体が一つの巨大な意思の塊のように脈動していた。
ワシントンD.C.の中心部では、怒号と足音と拡声器の歪んだ声が重なり合い、抗議というよりも爆発寸前の圧力がそのまま外へ漏れ出しているかのようだった。
「報復しろ!」
「今すぐ叩き返せ!」
叫びは個々の声でありながら、次第に同じ方向へ収束し、やがて一つの連続した音の波となって街を満たしていく。
アメリカ合衆国の各地で同様の集会が発生しており、その規模と熱量はこれまでのどの戦時動員とも異なる性質を帯びていた。
それは恐怖の裏返しであり、理解できない脅威に対して何かを“しなければならない”という衝動が、そのまま怒りへと変換されている状態だった。
群衆の中に、一人の男が駆け込んでくる。
手には新聞社の速報紙、まだインクも乾ききっていない。
彼はそれを掲げ、周囲に向かって叫ぶ。
「オーストラリアがやられた!」
その言葉は、一瞬だけ空気を止める。
だが、次の瞬間には別の形で爆発する。
「何だって……?」
「シドニーも、ブリスベンも……全部だ!」
簡潔すぎる情報。
だが、その曖昧さがむしろ想像を増幅させ、群衆の中で最悪の形へと拡張されていく。
「ふざけるな……!」
「もう十分だ、徹底的にやり返せ!黄色猿を叩き潰せ!!」
声はさらに大きくなり、怒号は怒りを呼び、次第に制御不能な熱を帯びていく。
誰もが具体的な方法を知らない。
だが、それでも“徹底的な報復”という言葉だけが共通の合意として成立していた。
理性ではなく、感情が主導権を握っている。
そしてその感情は、次々と新しい情報によって煽られていく。
同時刻。
ホワイトハウスの内部では、外の喧騒とは対照的に、言葉の一つ一つが慎重に選ばれながらも、その内容は極めて冷酷な現実を突きつけていた。
トルーマン大統領は机の前に座り、差し出された報告書を読み進めていたが、その紙面に並ぶ文言はもはや個別の出来事ではなく、一つの流れとして連結されている。
「……オーストラリアの主要都市が壊滅」
低く読み上げる。
その声には感情が抑えられているが、抑え込むために必要な力そのものが、わずかに滲んでいた。
「政府機能は一部維持されているものの、通信断絶および治安維持能力の低下により、多くの地域で統制が失われている……」
報告は続く。
だが、その内容はすでに結論を示している。
「……無政府状態」
国家が存在していても、機能していない。
それは同盟国としての価値を根底から揺るがす。
「爆撃機の基地は…………復旧できるのか?」
「……現時点では、困難と判断されます」
即答だった。
「滑走路の損壊、港湾破壊による補給網の断絶、周辺地域の治安悪化……等により、航空戦力の展開および維持は不可能です」
説明が付け加えられるが、それは確認に過ぎない。
結論は変わらない。
「……使えない、ということか」
「はい」
トルーマンはしばらく沈黙し、報告書をゆっくりと机の上に置く。
外からは、かすかに群衆の声が届いている。
怒り、憤り、報復を求める声。
ニューヨーク壊滅による経済的ダメージは、政府の強権によってなんとか抑え込んだ。
それを邪魔する財界の大物は、既にニューヨークと共に吹き飛んでいる。
しかし、それによって生じた歪みが国民に影響を及ぼし、その影響は怒りに注ぐ油となる。
地獄は、未だ道半ばだ。




