癸亥事変
癸亥とは……1863年の干支である。この年に起きたクーデターのことを癸亥事変と呼ぶ。こちら側での戊申戦争に該当し、”戊申”も1868年の干支から名づけられている。
関東での反乱、江戸藩松平家が独立したなどとほざいている。しかも周りの藩も同調しつつある。……このままでは国家を揺るがしかねない大騒動へと発展する。大坂庁府の役人たちは優柔不断な者だらけ。だがさすがの彼らも決断をせざるを得なかった。……きっと関東側でも、大軍を見せつけられればあきらめるに違いない。
皇族親政を訴えていた親王の香武義輝も、同じく東征を主張する。彼の心うちにはこのような考えがあった。改めて民衆に武威を見せることにより、香武庁への忠誠を誓わせよう。”やはり庁府は強い”と思わせることが大事だと。
影のフィクサーである上西宗家は、珍しく義輝卿に同調。手に入れた絶対権力を今更失いたくはないし、敵に攻め込まれれば矛先が自分に向かうのが予想できる。徹底的に関東を叩きのめすべしと考えた。……ただし念のため、息子の上西宗順を博多へ帰らせ、九州の動向に目を光らせることにする。
……いざ博多藩へ帰った宗順卿を待ち構えていたのは、すぐにでも庁府から立場を離すべきとする藩士らの意見だった。地方では大坂の頽落にあきれ返っており、すきあらば江戸藩へ組しようと考える者らが多いという。……町人の中へ紛れ込んでみると、口々に”大坂はいまにつぶれる””江戸を応援するよ”といった声で満ち溢れていた。……宗順卿は事態を悟る。数々の失政で、信頼は地に落ちている。
急ぎ父へ手紙を送り、大坂から引き上げるように意見した。
江戸藩松平家独立から一ヶ月後、5月吉日。大坂庁府では江戸へ向けて軍勢を発した。東海道を義武帝次弟の香武義菊が、中山道を香武義輝がそれぞれ公称1万兵。他には高田藩龍北家など5千兵が新潟から攻め、会津藩大方家など5千の東北勢が白河方面より攻め込む。ただし集められた諸藩の兵らは本気で戦う気がなく、仕方なしに集められたようなものだった。内心、江戸藩にくみしたい気持ちでいっぱいだ。
大坂の守備として、康朝卿時代に新設された庁府護衛隊(通称:新軍)が配置についた。明るい笑顔で軍勢が出るのを見送ったのだろうが……ことは起こった。東海道軍が箱根へ、中山道軍が松本についたころ。岡山藩池田家を中心に、出雲藩や広島藩など中国地方の諸藩が決起したのだ。一路大坂を目指す。指揮するのは岡山藩家老の浦崎正忠(後の陸軍大臣)という。対して大坂でまともに戦えるだけの装備を持っているのは、西洋式訓練を行い最新式兵器をもっている新軍しかいない。庁府の役人らは、新軍トップの十和田元雪に泣きついた。
……香武庁の歴史があっけなく終わろうとは。私もこの話を聞いて驚いた。
新軍は裏切り、反乱軍……いや正しくは”日本国連邦政府”の指揮下に入った。新軍は康朝卿が退いての後、特に不遇をかこっていた。そのうち庁府のやることなすことに心が離れ、ならばと新しい国造りのために尽くそうと、あらかじめ浦崎氏ひいては発起者の今江小次郎に申し出ていたらしい。
天皇の香武義武は拘束。翌日、天皇の位から退くことが公示された。名も義武から義静と改め、退位の旨を公にする。
こうしてほぼ無血のうちに、大坂城は明け渡された。