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トカイの城攻め、私は帰りたい②

 

 城内の通路は、外から見たよりずっと狭かった。


 石の壁が左右から迫り、足元には割れた木片と落ちた槍が転がっている。門が破られたせいで煙が内側へ流れ込み、火薬の匂いと馬の汗の匂いが混じっていた。倒れた兵を踏まぬよう足を運ぼうとしたが、そんな余裕はあまりない。後ろから味方が押し寄せ、前からは敵兵が槍を突き出してくる。


 これはよくない。


 外も寒くて嫌だったが、内側は内側でたいへん嫌である。この城は、外から攻めにくく、中に入ってもなお生きにくい。作った者が、かなり慎重だったのだろう。


「前へ! 閣下に続け!」


 誰かが叫んだ。


 続かないでほしい。


 私も誰かに続きたいのである。


 だが、兵たちは私の背を見て進んでいるようだった。私は門柱の影に寄っていたはずなのに、気づけば先頭に近い場所へ押し出されていた。軍というのは、人を前へ運ぶ力だけは非常に強い。荷車よりもよほど頼もしいが、運ばれる側としては迷惑である。


 前方で敵兵が槍を構えた。


 三人。


 いや、煙の奥にさらに二人いる。


 彼らは鎧の上に暗い上着を着て、短い槍を両手で握っている。こちらの侵入を止めるため、通路の幅いっぱいに並んでいた。狭い場所では長すぎる槍は扱いにくいが、彼らの槍はちょうどよい長さに見える。そういう知恵を、できればこちらに向けないでほしい。


 槍先が来た。


 私はとっさに横へ避けた。


 槍が私の外套を裂いた。


 布が切れる音がした。


 高かったのに。


 いや、今は外套の値段を考えている場合ではないかもしれない。だが人間、死にかけた瞬間ほど、どうでもよいことを思い出すものだろう。命が危ない時に外套を惜しむとは、自分でも器の小ささに感心する。


 私は裂かれた外套を押さえようとして、手に持った剣を妙な角度で振った。


 その剣が、偶然、敵の槍の柄に当たった。


 乾いた音がした。


 槍先が横へ逸れた。


 後ろにいた味方の銃兵が、至近距離で火縄銃を撃った。


 轟音。


 敵兵の胸が弾けた。


 彼は後ろへ倒れ、煙の奥の兵を巻き込んだ。狭い通路で隊列が乱れる。味方の槍兵がそこへ押し入った。


「閣下が槍を払われた!」


「今だ、崩せ!」


 違う。


 外套が裂けたので驚いただけである。


 だが、結果として敵の槍は逸れた。外套の犠牲は無駄ではなかったということにしておこう。布一枚で命が助かったなら安いものだ。いや、やはり少し惜しい。


 敵兵が後退した。


 通路の先に小さな広場があった。城内の中庭へ出る手前の空間らしい。そこには、敵の弓兵と銃兵が待ち構えていた。


 まずい。


 そう思った瞬間、火が走った。


 銃声が重なった。


 前にいた味方の兵が倒れた。ひとりは兜を撃たれ、ひとりは肩を押さえて壁にぶつかった。矢も飛んできた。石壁に当たって折れた矢が、私の足元へ落ちる。


 私は思わず身を伏せた。


 地面に近づくと、泥と血の匂いが強くなった。


 できれば近づきたくない匂いである。だが、立っていると弾が来る。匂いと鉛弾を比べれば、まだ匂いの方がましだろう。


「伏せろ!」


 私は叫んだ。


「銃兵、壁際から撃て! 槍兵はまだ出るな!」


 これは、私が伏せた言い訳でもあった。


 しかし、命令として認識されたようだ。銃兵たちは石壁の陰に身を寄せ、火縄を構えた。狭い通路の中で銃声が返る。煙がさらに濃くなり、敵味方の姿がにじんだ。


 敵の弓兵が叫んだ。


 弦の音がした。


 矢が降った。


 一本が私の指揮杖に刺さった。


 私は固まった。


 矢は指揮杖の上の方に斜めに突き刺さり、羽根を震わせている。あと少しずれていれば、私の手に刺さっていたかもしれない。指揮杖は、今日だけで私の身代わりを何度務めるつもりなのだろう。忠義のある木である。


「閣下、杖を!」


 ヴォルフが叫んだ。


 私は矢の刺さった杖を見た。


 抜くべきか。


 抜かないべきか。


 抜こうとして手が震えれば、また余計な誤解を招くかもしれない。いや、震えなくても誤解されるのだから、もうどうでもよいような気もする。


 私は杖をそのまま掲げた。


 単に、どうすればよいか分からなかったからである。


 兵たちがどよめいた。


「敵矢を受けても、杖を下ろされぬ!」


「皇帝の命を掲げておられる!」


「進め!」


 違う。


 抜き方が分からなかっただけだ。


 だが、味方の士気は上がったように見えた。銃兵が次々と撃ち、槍兵が盾代わりの板を持って前へ出る。工兵が壊れた扉板を押し立て、中庭の入口へ近づいた。


 私は杖を掲げたまま、少し後ろへ下がった。


 慎重な指揮官に見える程度に、である。


 逃げるには早い。だが、前に出すぎるには命が惜しい。名誉と命の間には、ちょうどよい距離があるはずだ。今日の私は、その距離を必死に探している。


 中庭の入口で、敵の黒鎧の男が再び姿を見せた。


 まだいる。


 しつこい。


 いや、守備隊としてはまことに立派な心がけなのだが、こちらとしては早く退いてほしい。


 彼は肩で息をしていた。落馬の痛みはあるのだろう。それでも曲刀を構え、味方の前進を止めている。周囲の敵兵も彼に従い、崩れた隊列を立て直そうとしていた。


「来い、シュヴェンディ!」


 彼が叫んだ。


 来いと言われて行く者は、よほど勇ましいか、よほど考えがない者である。


 私はそのどちらでもない。少なくとも前者ではない。


 しかし、味方がまた私を見る。


 ヴォルフまで見る。


 やめてほしい。


 その目は、私に何か期待している目である。私は期待されると胃が痛む種類の人間なのだ。


 黒鎧の男が踏み込んできた。


 曲刀が上がる。


 私は横の壁に身を寄せた。


 狭い通路では、正面に立つより壁際の方が少しだけ安全に見えた。少しだけである。壁が私を守ってくれるなら、今すぐ爵位を授けたい。


 曲刀が振り下ろされた。


 石壁に当たって火花が散った。


 重い音が耳に響く。


 私の顔のすぐ横で、石が欠けた。


 破片が頬に当たった。


 痛い。


 ものすごく痛い。


 だが、首が残っているだけありがたいのだろう。人間、戦場では感謝の基準が低くなる。


 私は痛みに驚いて、思わず壁際に置かれていた壊れた盾を蹴った。


 盾は床を滑った。


 黒鎧の男の足元へ入った。


 彼の足が少し乱れた。


 ほんの少しだった。


 だが、ヴォルフはそれを見逃さなかった。彼は横から踏み込み、黒鎧の男の腕へ剣を打ち込んだ。金属が鳴り、曲刀の動きが鈍る。


「今だ!」


 私は叫んだ。


 これは半分、悲鳴だった。


 しかし、周囲には命令に聞こえたらしい。槍兵が一斉に押した。三本の槍が黒鎧の男を囲み、彼の退路を狭める。黒鎧の男は曲刀で一本を折り、もう一本を鎧で受けた。だが三本目が太腿をかすめた。


 彼がうめいた。


 血が泥に落ちた。


 黒鎧の男はなお倒れない。


 強い。


 本当に強い。


 私は心から、こういう男は味方にいてほしかったと思った。味方にいても怖いだろうが、敵にいるよりはましである。


 彼は一歩退いた。


 その背後には中庭があった。


 敵の兵が集まっている。奥には内門があり、さらに城の中心へ続く道があるようだ。そこへ逃げ込まれれば、まだ戦いは続くだろう。


 戦いが続く。


 それは困る。


 終わってほしい。


 非常に終わってほしい。


「中庭へ押し出せ!」


 私は言った。


「狭い所で止まるな! 広い場所で囲め!」


 これは、狭い場所が怖かったからである。だが、命令としては悪くなかったようで、味方は通路で詰まるのを避け、一気に中庭へ出た。


 中庭に出た瞬間、視界が開けた。


 同時に、危険も増えた。


 城壁の上から銃兵が撃ってくる。中庭の奥から弓兵が矢を放つ。石段の上では敵の指揮官らしい男が号令をかけていた。黒い外套に、白い羽飾りのついた兜をかぶっている。顔は細く、目が鋭い。


 あれがイブラヒムだろう。


 こちらをよく見ている。


 見ないでほしい。


 私は中庭へ出た途端、身を低くした。


 銃声。


 矢。


 石。


 叫び声。


 味方の兵が倒れた。敵の兵も倒れた。泥と雪が踏み荒らされ、そこへ血が混じって暗くなった。馬はいないのに、馬小屋のような臭いがした。汗、血、煙、革、鉄。それらが冷たい空気の中で重く残っている。


 私は近くの井戸の陰へ寄った。


 水を汲むための井戸である。


 今は命を汲むために使わせていただきたい。


 だが、井戸の陰へ寄った私の動きを、味方の砲兵が見ていた。


「閣下が井戸を押さえろと示されたぞ!」


 誰かが叫んだ。


 示していない。


 隠れただけである。


 しかし、工兵たちは井戸の周囲へ走った。そこは中庭の中央に近く、確かに足場がよく、周囲を見渡しやすかった。結果として、味方の銃兵が井戸周辺に集まり、城壁上の敵へ撃ち返し始めた。


 私は井戸の陰でしゃがみながら、少しだけ考えた。


 もしかして、私は隠れる場所を選ぶ才能だけはあるのかもしれない。


 いや、これは誇ってよい才能なのだろうか。


 少なくとも、年代記には書いてほしくない。


「閣下!」


 ヴォルフが駆け寄ってきた。


「中庭の中央を取れました!」


「そうか」


 私は立ち上がった。


 立ち上がりたくはなかったが、いつまでも井戸に寄り添っていては、井戸番と間違われるかもしれない。


 中庭の奥で、敵兵が内門へ下がっている。


 イブラヒムはまだ石段の上にいた。彼は黒鎧の男に何か命じ、兵を左右へ分けた。内門を閉ざすつもりだろうか。


 まずい。


 内門を閉ざされれば、また攻めることになる。


 私は攻めるのが嫌いだ。


 守るのも嫌いだ。


 つまり、戦が嫌いなのだが、今それを言うと身も蓋もない。


「銃兵、左の石段を撃て!」


 私は叫んだ。


「工兵は内門へ走れ! 閉じられる前に木片を挟め!」


 なぜそんなことを言ったのかは、自分でも少し不思議だった。たぶん、もう一度門を破る羽目になるのが嫌だったのだろう。人間、嫌なことを避ける時だけは頭が働くようだ。


 工兵が走った。


 敵の矢が降った。


 ひとりが倒れた。


 別の工兵がその手から木片を奪い、さらに走る。黒鎧の男がそれを止めようと前へ出た。曲刀が振られ、工兵の肩口を裂いた。工兵は悲鳴を上げながらも、木片を内門の下へ投げ込んだ。


 内門が閉じ始めた。


 だが、木片が挟まった。


 扉が止まった。


 わずかな隙間。


 そこへ味方の兵が槍を差し込んだ。


「押せ!」


 私は叫んだ。


「閉じさせるな!」


 今度は本当に命令だった。


 ここで閉じられれば、また砲を持ってこなければならない。砲を持ってくるには時間がかかる。時間がかかれば、敵は立て直す。敵が立て直せば、私はまた死にかける。


 それは絶対に避けたい。


 味方が内門へ殺到した。


 敵も押し返す。


 門の前で人が重なり、槍の柄が軋む。銃声は減った。近すぎて撃ちにくいのだろう。代わりに剣と短槍と斧が振るわれた。刃が鎧に当たり、鉄の音が続く。誰かの悲鳴が石壁に反響した。


 私は井戸のそばから動けなかった。


 動きたくなかったのではない。


 いや、動きたくなかったのも事実だが、それ以上に、どこへ動けばよいのか分からなかった。


 前へ行けば斬られる。


 後ろへ行けば見られる。


 横へ行けば狙われるかもしれない。


 戦場は、全方向に不親切である。


 その時、城壁上の敵銃兵が私を狙った。


 火が走った。


 私は音に驚いて、井戸の桶を引き上げる鎖に手をかけた。


 弾が井戸の縁に当たった。


 石片が飛ぶ。


 私は思わず鎖を引いた。


 桶が跳ね上がった。


 桶に残っていた水が、横にいた味方の火縄へかかった。


「あっ」


 私は声を漏らした。


 味方の銃兵が驚く。


 火縄の火が消えた。


 これはまずい。


 味方の火を消してしまった。


 私は、いよいよ処罰されるかもしれないと思った。


 しかし、次の瞬間、城壁から落ちてきた火矢が、その銃兵のいた場所へ刺さった。火縄がついたままだったら、火薬袋に燃え移っていたかもしれない。


 銃兵は青ざめた顔で私を見た。


「閣下……私の命を……」


 違う。


 桶を引いてしまっただけだ。


 だが、彼は深く頭を下げた。


 私は何も言えなかった。


 神よ。


 もし今のもあなたの御業なら、せめて私に先に教えていただきたい。毎回こちらの心臓に悪い。


 ◇


 中庭奥の石段で、イブラヒムはその一部始終を見ていた。


 彼には、シュヴェンディという帝国の将が、もはや人の動きではなく、戦場の流れそのものをつかんでいるように見えた。


 外門での動きもそうだった。


 そして今もそうだ。


 彼は井戸の陰へ下がった。臆したのではない。中庭の中央を取るためだった。そこは味方の銃兵が左右へ撃てる位置であり、敵の内門を見渡せる位置でもある。


 彼は内門を閉じさせなかった。あらかじめ工兵を見ており、木片を投げ込む時機を待っていたのだろう。扉が完全に閉じる前に、ほんのわずかな隙間を作る。それだけで、攻城戦の手間は大きく変わる。


 そして、極めつけに…


 イブラヒムは目を細めた。


 あの将は、火矢の落ちる時機まで読んでいたのか。


 味方の火縄を水で消すなど、普通なら愚行である。だが、その直後に火矢が落ちた。火薬袋に火が移れば、井戸周辺の帝国兵は吹き飛んでいただろう。


 偶然ではない。


 偶然であってよいはずがない。


 イブラヒムはそう考えた。


 シュヴェンディは一見、泥に汚れ、息を切らし、ただ生き延びているだけの男に見える。だが、その一挙一動が、こちらの手を一つずつ外していく。


 怯えているような肩の揺れは、周囲を油断させる仕草。


 逃げ道を探す視線は、次の争点を測る目。


 沈黙は、味方に自分で答えを悟らせるための間。


 苦しげな顔は、兵に「閣下も危地にいる」と思わせて奮い立たせるための芝居。


 イブラヒムは、背中に冷たいものを感じた。


「内門は保たぬ」


 彼は言った。


 側近が驚いた。


「まだ兵はおります」


「兵がいるだけでは足りぬ。あの男は、兵のいる所を狙ってくる」


「では、いかがなさいますか」


 イブラヒムは中庭を見下ろした。


 黒鎧の男はなお戦っている。だが、太腿に傷を負い、動きは鈍り始めていた。帝国兵は井戸を中心に広がり、内門へ圧力をかけている。


 このままでは、内門前で兵が潰れる。


「右の塔へ下がる」


 イブラヒムは決めた。


「内門を捨て、塔で時間を稼ぐ。夜まで保てばよい」


「外門も内門も捨てるのですか」


「捨てるのではない」


 イブラヒムは、泥に汚れた帝国の将を見た。


「あの男に、これ以上こちらの兵を見せぬためだ」


 ◇


 私は井戸のそばで、まだ桶の鎖を握っていた。


 手が濡れている。


 冷たい。


 冬の井戸水というものは、手を清めるにはあまりに不向きである。今なら、罪だけでなく指の感覚まで洗い流してくれそうである。


「閣下!」


 ヴォルフが叫んだ。


「敵が右の塔へ退きます!」


「右の塔?」


 私は顔を上げた。


 中庭の奥、内門の奥に石造りの塔がある。そこへ敵兵が下がっていくのが見えた。塔へ入られれば、また面倒なことになる。階段は狭く、上から撃たれる。どう考えても入りたくない場所である。


 だが、敵が退くなら、追わなければならない。


 追わなければ、また撃たれる。


 追えば、たぶん斬られる。


 戦というものは、選ばせる顔をしながら、ろくな選択肢を出してこない。


「逃がすな!」


 私は叫んだ。


「塔の扉を押さえろ! 中に入られる前に止めろ!」


 言ったあと、また後悔した。


 塔の扉を押さえるには、塔の近くまで行かねばならない。塔の近くには敵がいる。つまり危ない。私はどうして毎回、自分の口で危ない方角を示してしまうのだろう。指揮杖より先に、自分の舌を縛った方がよいかもしれない。


 味方が動いた。


 槍兵が内門前から右へ流れ、銃兵が井戸のそばから援護する。工兵は壊れた扉板を持ち、塔の入口へ向かった。


 敵は必死に防いだ。


 石段の上から矢が降る。


 塔の窓から銃声が響く。


 味方の兵が胸を撃たれて倒れた。別の兵の腕に矢が刺さる。工兵の持つ扉板に弾が当たり、板の表面が割れて破片が飛んだ。


 それでも、工兵たちは進んだ。


 立派である。


 私ならとっくに板を置いて帰っている。


 塔の扉が閉じかけた。


 その隙間に、味方の槍が差し込まれた。扉の向こうから敵が押し返す。槍の柄がしなり、兵たちの足が泥を掻いた。


 黒鎧の男が、最後尾で踏みとどまっていた。


 彼は負傷している。太腿から血が流れている。それでも曲刀を振り、味方を近づけない。彼の一撃で槍の穂先が飛び、もう一撃で兵の肩当てが割れた。


 私は息を呑んだ。


 あの男は、まだ倒れない。


 もはや敵ながら見事と言うほかない。見事なので早く倒れてほしい。敵の武勇を讃える心と、私の身を守りたい心は両立する。後者の方が少し強いだけである。


「銃兵!」


 私は叫んだ。


「黒鎧を狙え!」


 銃兵が狙った。


 火縄が光った。


 銃声。


 黒鎧の男の肩がはねた。


 だが彼は倒れなかった。


 曲刀を杖のように地へ突き、こちらを見た。


 その目が、私を捉えた。


 まことに困る。


 最後まで私を見るのか。


 黒鎧の男は、血を流しながら笑った。


「シュヴェンディ……名を覚えたぞ」


 覚えなくてよい。


 私は、できれば敵の記憶に残らぬ人生を送りたい。


 彼はもう一度曲刀を上げた。


 その時、塔の扉の内側から、イブラヒムの声が飛んだ。


「下がれ!」


 黒鎧の男は一瞬、動きを止めた。


「まだ戦える!」


「下がれ。お前をここで捨てるには惜しい」


 黒鎧の男は歯を食いしばった。


 そして、ゆっくり後退した。


 塔の扉が閉じる。


 味方の槍が挟まれ、折れた。


 扉が閉まった。


 重い音が中庭に響いた。


 私は、深く息を吐いた。


 よかった。


 いや、よくない。


 塔にこもられた。


 だが、少なくとも今すぐ黒鎧の男と斬り合う必要はなくなった。人間は目先の危険が遠ざかるだけで、つい感謝してしまう。後で面倒が増えるとしても、今生きていることの方が大事である。


「塔を囲め」


 私は言った。


「無理に入るな。銃兵を置け。工兵は火を使う準備をしろ。ただし、火薬庫が近くにないか確かめろ」


 これは、塔ごと吹き飛ぶのが嫌だったからである。


 ヴォルフは感心したようにうなずいた。


「敵に最後の突撃を許さず、火攻めも慎重に……見事です」


 そういうことになったようだ。


 私はもう反論しなかった。


 反論する体力がない。


 中庭には、まだ戦いの音が残っていた。負傷者が運ばれ、砲兵が外から新しい弾を運び、銃兵は城壁上を警戒している。雪と泥の上に血が広がり、壊れた槍と盾が散らばっている。勝っているように見えるが、勝利はずいぶん汚れているものだ。


 私は井戸の縁に腰をかけそうになった。


 だが、すぐ思い直した。


 指揮官が戦場の真ん中で腰を下ろすのは、余裕に見えるか、疲労に見えるか、判断が難しい。前者ならよいが、後者なら困る。もっとも、今の私は完全に後者である。


「閣下」


 ヴォルフが近づいてきた。


「塔の敵は、降伏を申し出るかもしれません」


「そうか」


「いかがなさいますか」


 いかがも何も、降伏してくれるなら大歓迎である。


 私は争いを好まない。特に、塔の階段を登って剣で争うような行いは、なるべく遠慮したい。降伏は美徳だ。敵にとっても、私にとっても。


「使者を出せ」


 私は言った。


「命を惜しむなら武器を置け、と伝えろ。無駄に死ぬ必要はない」


 これは本音だった。


 私自身、無駄に死ぬ必要などまったくないと思っている。敵にもその考えを分けてやりたい。


 ヴォルフは胸に手を当てた。


「慈悲深いお言葉です」


 違う。


 塔に入りたくないだけだ。


 だが、慈悲ということになった。


 世の中は、私に都合よく誤解することもあれば、命に関わるほど不都合に誤解することもある。できれば前者だけにしてほしい。


 やがて、塔の上に白い布が掲げられた。


 兵たちがどよめいた。


 降伏のしるしだった。


 私は今度こそ、心の底から安堵した。


 トカイ城は落ちた。


 少なくとも、この日の戦いは終わったようだ。


 兵たちは歓声を上げた。皇帝の名を叫ぶ者もいる。私の名を叫ぶ者もいる。城壁の上に帝国の旗が掲げられ、冷たい風に広がった。


 私はその旗を見上げた。


 旗は美しく見えた。


 だが、旗というものは安全な場所で見るから美しいのだろう。戦場で見る旗は、次に自分がどこへ行かされるかを示す道具でもある。あまり信用しすぎない方がよい。


 ◇


 その日の夕刻、トカイ城の広間で、守備隊の降伏が正式に受け入れられた。


 広間の床にはまだ泥が残り、壁には銃弾の跡がある。壊れた椅子が隅へ積まれ、暖炉には湿った薪がくべられていた。火は弱く、煙ばかり出している。


 私は椅子に座りたかった。


 できれば横になりたかった。


 だが、降伏を受ける指揮官が椅子に沈み込んでいては格好がつかない。仕方なく立っていた。立っているだけで名将に見えるのなら、世の名将の何割かは足腰の強い人間なのかもしれない。


 イブラヒムが前へ出た。


 彼は黒い外套を脱ぎ、剣を鞘ごと差し出した。顔に疲れはあるが、目は鋭いままだった。敗れた者の顔ではある。だが、折れた者の顔ではない。


「トカイ守備隊長イブラヒム」


 通訳が言った。


「城と兵を、貴殿に引き渡す」


 私はうなずいた。


 できるだけ威厳があるように。


 実際には、足が痛いので早く終わってほしかった。


「兵の命は保証する」


 私は言った。


「武器を置き、城外で監視を受けよ。負傷者には手当てを許す」


 イブラヒムは私を見た。


 じっと見た。


 やめてほしい。


 敵に見られるのは、味方に褒められるのと同じくらい落ち着かない。


「なぜ、塔を攻めなかった」


 彼は通訳を通じて尋ねた。


 入りたくなかったからです。


 そう言えれば、どれほど楽だろう。


 だが、私は口を閉じた。少し考えているふりをした。実際には、当たり障りのない答えを探していた。


「死なせずに済む兵を、死なせる必要はない」


 私は答えた。


 これは嘘ではない。


 ただし、私も死にたくなかったという大切な事情を省いただけである。


 イブラヒムは目を細めた。


「勝てる時に急がぬ。恐ろしい男だ」


 恐ろしくない。


 急ぐと危ないから嫌なだけだ。


 彼は剣を置いた。


「次に会う時は、もっと広い場所で戦いたいものだ」


 会いたくない。


 広い場所でも狭い場所でも、会いたくない。


「その時が来ぬことを祈ろう」


 私は言った。


 これは本心だった。


 イブラヒムは、それを余裕と受け取ったようだ。口元だけで笑い、下がっていった。


 周囲の帝国兵たちが、低く感嘆の声を漏らした。


「敵将に再戦を望ませぬとは……」


「閣下の言葉は重い」


「戦わずして心を折られたのだ」


 折っていない。


 祈っただけだ。


 祈りまで軍略にされるとは、神も少し困っておられるだろう。


 広間の外で、兵たちが勝利の声を上げた。


 私は窓の外を見た。


 夕暮れの空は冷たく、城壁の上に掲げられた旗が風を受けている。遠くにはティサ川が見えた。朝に見た時よりも、少しだけ穏やかに見える。


 その時、ヴォルフが一通の書状を持って入ってきた。


 嫌な予感がした。


 勝利の直後に来る書状というものは、たいてい次の苦労を連れている。よい知らせなら、もっと人のよい顔をした使者が持ってくるはずである。


「閣下、皇帝陛下の代理より急使です」


「今か」


「はい」


 私は書状を受け取った。


 封を切る。


 読み進める。


 読み終えるころには、体から力が抜けていた。


 内容は簡単だった。


 トカイ攻略の勢いを失うな。


 周辺の城と町を押さえよ。


 セレンチ方面の動きを見よ。


 サトマールの情勢も確かめよ。


 必要ならば、さらに兵を進めよ。


 私はしばらく黙った。


 ヴォルフが、期待に満ちた目で私を見ている。


「閣下?」


 私は書状を畳んだ。


 どうやら、勝ってしまったらしい。


 そして勝った者には、さらに働けという命が来るらしい。


 世の中は不公平である。負ければ危ない。勝てば忙しい。では、いったいどこに安らぎがあるのだろうか。


「兵を休ませろ」


 私は言った。


「負傷者を数え、弾薬と食糧を調べよ。明日、諸隊長を集める」


 ヴォルフはうなずいた。


「次の作戦ですね」


 違う。


 どう逃げるか考える集まりである。


 だが、それを言うわけにはいかない。


 私は窓の外の旗を見た。


 風の中で、旗は誇らしげに揺れている。


 まことに結構なことだ。


 旗は命令されても歩かなくてよい。寒くても血を流さない。敵に名を覚えられることもない。それでいて、勝利の象徴として一番高いところに掲げられる。


 私は、少しだけ旗がうらやましかった。


 こうして、トカイ城は落ちた。


 そして私は、帰るどころか、さらに奥へ進むことになった。


 どうやら、勝利とは、逃げ道を増やすものではないらしい。

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