トカイの城攻め、私は帰りたい
1565年2月。上ハンガリーの朝は、冷え切っていた。
ティサ川の水面はところどころ凍り、岸辺には白い霜が残っている。兵たちの靴は泥に沈み、馬は鼻息を白く吐き、荷車の車輪は進むたびに嫌な音を立てた。大砲を押す兵たちは肩で息をし、砲兵は火縄を濡らさぬよう外套の内側に抱えている。
その先に、トカイの城があった。
城壁は高い。門は厚い。見張り台には敵兵が並んでいる。こちらを見下ろしているように見えた。あちらは石の上、こちらは泥の中である。この時点で、神は少しばかり守る側に親切すぎるのではないかと思われた。
できれば、今日だけでよいので、攻める側と守る側を取り替えてもらえないだろうか。
私はそう思いながら、指揮杖を握り直した。握り直したところで手の震えが止まるわけではないが、震えているのが杖の方だと言い張る余地はあるかもしれない。
私の名はラザルス・フォン・シュヴェンディ。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世の命により、上ハンガリー方面の軍を任されている。フランスでも戦い、低地地方でも戦い、今またトカイ城を攻めている。周囲の者は、私を冷静沈着な将と思っているようだ。
本人の実態としては、朝の霜で滑って転ばないように必死な中年である。
戦歴というものは恐ろしい。一度生き残ると、次も生き残れるはずだと周囲が勝手に思い込む。生き残った理由が、たまたま矢が隣の者に刺さったからだとしても、である。
「閣下」
副官のヴォルフが、私の横で姿勢を正した。
「砲兵隊、配置につきました。工兵も堀の前進路を確かめております」
「そうか」
私は短く答えた。
短く答えると、何か深い考えがあるように聞こえる。実際には、寒さと緊張で歯が鳴りそうなので、なるべく口を開きたくないだけである。歯の音は、鎧の音よりもずっと頼りなく聞こえる。威厳を保つには、まず口を閉じるに限るだろう。
ヴォルフは私の横顔を見て、深くうなずいた。
「敵の出方を待つ、ということですね」
違う。
何も思いつかないので待っているだけだ。
だが、黙っていると作戦に見えることがあるらしい。沈黙とはありがたいもので、本人の腹の中が空でも、周囲が勝手に知恵を詰めてくれる。
私は城壁の右側を見た。
前日に工兵が、あの辺りの石積みが古いと言っていた。私はそれを覚えていただけである。もっとも、戦場では昨日の話を覚えているだけでも、立派な知略として扱われることがあるようだ。
「砲撃を始めろ」
私は言った。
「城壁の右側だ。崩れやすいところから叩け」
ヴォルフの目が鋭くなった。
「やはり、あそこですか」
やはり、ではない。
君の部下が昨日そう言っていたのである。
しかし、訂正はしなかった。名将ではないにせよ、自分の首を自分で差し出すほど正直でもない。
砲兵隊が動いた。
火縄が近づけられ、砲口が震えた。
轟音が来た。
地面が揺れた。
大砲の弾は城壁の右側へ当たり、石片を散らした。壁の表面が剥がれ、上にいた敵兵が身を伏せる。砲兵たちは素早く砲車を押さえ、次弾の準備に入った。火薬の煙が低く広がり、冷たい空気の中に苦い匂いが残る。
少しだけ、こちらが強く見えた。
私は安心しかけた。
安心というものは、戦場ではたいてい早すぎる。
城壁の銃眼から火が走った。
敵の大砲だった。
黒い弾がこちらへ飛んできた。最初は小さく見えたが、すぐに大きくなった。音が遅れて耳へ届いた。
次の瞬間、前方の土が爆ぜた。
兵が二人、吹き飛んだ。
盾が割れた。槍が折れた。馬が暴れ、御者が荷車から転げ落ちた。泥と血と木片が跳ね上がり、近くの若い兵が腰を抜かした。倒れた兵は腹を押さえ、声にならない声を漏らしている。
私は息を止めた。
これはよくない。
まことによくない。
戦場に来ておいて何を言うのかという話ではあるが、大砲というものは少し乱暴すぎる。人間同士の争いに、あれほど大きな鉄の塊を飛ばす必要があるのだろうか。撃つ前に一声かけるくらいの礼儀はないのか。せめてこちらが身を伏せる暇くらい与えてもらいたい。
「前列、散れ!」
私は叫んだ。
「砲口の正面に固まるな! 土塁の陰へ入れ!」
言いながら、自分が一番そこへ入りたいと思った。
だが、指揮官が真っ先に土塁の陰へ隠れると、後世の年代記が妙に詳しくなる恐れがある。書く者というのは、勇ましい勝利より、情けない姿の方を熱心に残すところがある。まことに油断ならない。
兵たちは動いた。
前列の兵が左右へ広がり、槍兵が低く構える。銃兵は泥の上に膝をつき、工兵は束柴を抱えて右へ回る。命令は通ったように見えた。
城壁から銃声が続いた。
鉛弾が飛んでくる。
一発が私の兜をかすめた。
耳のそばで鋭い音が鳴った。
私は反射的に首をすくめた。
その直後、背後の旗手が倒れた。旗竿を握ったまま膝をつき、兜の下から血を流している。
危なかった。
本当に危なかった。
いま首をすくめていなければ、私はこの場で神に呼ばれていたかもしれない。しかも、かなり乱暴な呼ばれ方である。神にも都合はおありだろうが、もう少し穏やかな使者を選んでいただきたい。
「閣下が敵弾をかわされたぞ!」
誰かが叫んだ。
違う。
怖くて縮んだだけだ。
「まるで読んでいたかのようだ!」
「さすがシュヴェンディ閣下!」
読んでいない。
読めるなら、まずこの戦場に来ることはなかっただろう。
だが、兵たちの目に力が戻った。さっきまで青ざめていた若い兵まで、歯を食いしばって前を向いている。
非常にまずい。
私の臆病が、なぜか兵たちの勇気として受け取られている。世の中には、もう少し穏やかな勘違いがあってもよいはずである。
砲撃が続いた。
城壁の右側に、こちらの弾が重ねて当たる。石が割れ、土が落ち、壁の一部に暗い傷が広がった。敵兵は銃眼から撃ち返し、城壁上から石を投げ落とす。前進する工兵の周囲に弾が跳ね、ひとりが肩を押さえて倒れた。
工兵たちは止まらない。泥の中を走りつづける。
私は見ているだけで胃が縮んだ。
あの場所へ走れと言われたら、私は足を痛めたふりをするだろう。いや、ふりで済めばよいが、恐怖で本当に痛くなるかもしれない。私の体は、主人の心根に似て、存外に臆病である。
その時、城門が開いた。
重い音が響いた。
中から騎兵が出てきた。
先頭の男は黒い鎧を着ていた。背が高く、体も大きい。曲刀を持ち、馬上で体をまっすぐに保っている。兜の下の顔は見えにくいが、声だけで十分に怖かった。
「帝国の兵ども! ここで止まれ!」
声が城門前に響いた。
工兵たちの足が鈍る。
あれはまずい。
騎兵が堀の前で工兵を斬れば、攻め口は崩れる。攻め口が崩れれば、城壁を破っても入れない。入れなければ包囲が長引く。包囲が長引けば、私は明日も明後日もこの城を眺めることになる。
それは避けたい。
何としても避けたい。
「槍兵、左から出せ!」
私は叫んだ。
「正面で受けるな! 斜めから馬を止めろ!」
本当は、正面から受けたら怖すぎると思っただけである。
けれど、命令としては意味があったようだ。槍兵たちが泥を蹴って動き、騎兵の進路へ角度をつけて並ぶ。銃兵が土塁の陰から銃口を向ける。
敵騎兵が加速した。
蹄の音が近づく。
泥が跳ねた。
黒鎧の男が曲刀を振り上げた。
最初の一撃で、味方の槍の柄が割れた。続く一撃で、別の兵の兜がはじけ、兵は泥の中へ倒れた。黒鎧の男は馬上で体を揺らさず、槍先を避けながら、外側から斬ってくる。力だけではない。人を斬る間合いをよく知っている。
敵は強い。
冗談ではなく強い。
私は心の底から思った。
あれとは戦いたくない。
しかし、黒鎧の男はこちらを見た。
見ないでほしい。
彼は馬首を私へ向けた。
「お前がシュヴェンディか!」
たぶん、そうである。
できれば違うということにしたいが、周りに味方が多すぎる。ここで人違いと言い張れば、敵より先に副官から妙な目で見られるだろう。
黒鎧の男が突っ込んできた。
私は後ろへ下がろうとした。
しかし、足元の泥が滑った。
危ない。
私は体勢を直そうとして、半歩だけ前に出た。
周囲から声が上がる。
「閣下が前へ!」
「一騎打ちだ!」
違う。
下がろうとして失敗しただけだ。
だが、もう遅かった。私は前に出た形になっている。黒鎧の男は笑い、曲刀を構えた。
「よい覚悟だ!」
ない。
覚悟はない。
あるのは後悔だけである。
私は剣を抜いた。抜くしかなかった。剣を抜かなければ、ただ斬られるだけだろう。抜いても斬られるかもしれないが、何もしないよりは少しだけましに見える。
黒鎧の男が馬上から斬り下ろした。
私は反射的に膝を曲げた。
曲刀が頭上を通った。
兜の飾りが飛んだ。
首の上が急に軽くなった。飾りだけで済んでよかった。飾りがなければ、私の頭の一部が減っていたかもしれない。
私はそのまま足を滑らせ、ほとんど転ぶ形で馬の横へ入った。
黒い馬の腹が目の前にあった。
近い。
近すぎる。
馬の腹、鐙、泥のついた脚。何もかもが大きい。私は起き上がろうとして、剣を邪魔にならないように前へ突き出した。
刃が馬具に引っかかった。
敵の馬が大きく跳ねた。
黒鎧の男の体勢が崩れた。
そこへ、横から味方の槍が入った。槍先が馬の胸元をかすめ、馬はさらに暴れた。黒鎧の男は馬上で踏みとどまろうとしたが、足が鐙から外れた。
彼は落ちた。
重い音がした。
私は泥の上で座り込んだまま、それを見ていた。
何が起きたのだろう。
私はたぶん、立派なことは何もしていない。転びかけ、剣を突き出し、馬具に引っかけただけだ。
だが、味方の兵たちは叫んだ。
「敵将を落としたぞ!」
「閣下が馬を狙われた!」
「一撃で騎兵の勢いを止めた!」
違う。
馬具に引っかかっただけだ。
それを説明したかったが、黒鎧の男が立ち上がったので、それどころではなくなった。
彼は落馬しても強そうだった。
鎧は泥に汚れている。だが動きは鈍っていない。曲刀を拾い、私を見た。目に怒りがある。怒らないでほしい。こちらもかなり被害を受けている。
「貴様……」
黒鎧の男が低く言った。
「最初から馬を狙っていたのか」
狙っていない。
「俺の斬撃を誘い、姿勢を下げ、馬腹へ潜るとは……」
潜っていない。
転びかけた。
「帝国には、こういう男がいるのか」
いないと思う。
少なくとも、私はそういう男ではない。
だが、私は黙った。
息が切れていたからだ。怖すぎて声が出なかったとも言える。すると黒鎧の男は、私の沈黙を別の意味で受け取ったようだ。彼の顔から怒りが少し消え、警戒が濃くなった。
周囲では、敵騎兵の勢いが落ちていた。
先頭の男が落馬したことで、後続が乱れたように見える。そこへ味方の槍兵が押し出し、銃兵が横から撃った。馬が倒れ、騎兵が泥へ落ちる。敵は強いが、突撃の勢いを失うと囲まれやすい。
「今だ!」
ヴォルフが叫んだ。
「押せ!」
味方が前へ出た。
私も立ち上がった。
立ち上がらないと踏まれそうだったからである。
黒鎧の男は一歩退いた。彼の周囲に敵兵が集まり、城門の方へ下がり始める。撤退だろうか。そうであってほしい。できれば、そのまま故郷まで帰ってもらいたい。
「門を押さえろ!」
私は叫んだ。
「敵を城内へ戻すな!」
言ったあとで、少し後悔した。
敵を城内へ戻さないということは、こちらが門へ近づくということだ。門へ近づくと、矢や石や銃弾が飛んでくる。私はなぜ、自分で危険な方向へ話を進めているのだろう。
しかし命令はもう出てしまった。
兵たちは動いた。
工兵が堀へ束柴を投げ込み、槍兵がその周囲を守る。銃兵が城壁上を撃つ。砲兵は崩れた壁へさらに砲撃を加えた。
城門前は乱戦になった。
敵兵は必死に守っている。門の内側から長槍が突き出され、上から石が落ちる。味方のひとりが肩を砕かれ、別の兵が顔を押さえて倒れた。銃声で耳が痛い。火薬の匂いで息がしにくい。泥は血で暗くなっている。
私は前へ進んだ。
本当は進みたくなかった。
だが、後ろから味方が押してくる。前に進まないと押し倒される。戦場では、勇気がなくても前に出ることがあるようだ。まことに迷惑な仕組みである。
城門のすぐ前で、敵兵が槍を並べた。
黒鎧の男もそこにいた。落馬したはずなのに、まだ立っている。曲刀を両手で握り、味方の槍を受け流している。
彼は私を見た。
また見た。
本当にやめてほしい。
「シュヴェンディ!」
黒鎧の男が叫んだ。
私は聞こえないふりをしたかった。
だが、周囲の兵が道を開けた。
なぜ開ける。
私を行かせるな。
黒鎧の男が突進してきた。
曲刀が横から振られる。
私は思わず後ろへ下がった。
その瞬間、足元の壊れた盾につまずいた。
体が後ろへ倒れる。
曲刀が私の胸の前を通り過ぎた。
あと少しで鎧ごと斬られていた。
私は背中から泥に落ちた。息が詰まる。だが倒れた拍子に、足が黒鎧の男の膝裏に当たった。
彼の体が傾いた。
そこへ、ヴォルフの剣が入った。
黒鎧の男は受けた。だが体勢が悪い。さらに槍兵が横から押した。彼は曲刀で槍を弾いたが、後ろへ下がった。
一歩。
さらに一歩。
黒鎧の男は門の内側へ押し戻された。
味方が叫んだ。
「閣下が誘った!」
「倒れながら敵の足を止められた!」
「今だ、門を奪え!」
違う。
転んだだけだ。
私は泥の上で起き上がりながら、心の中で必死に訂正した。だが声に出す余裕はない。声に出しても、誰も信じないように思われた。
味方が門へ殺到した。
槍がぶつかり、柄が折れ、短剣が鎧の隙間を狙う。狭い場所に人が詰まり、押し合いになった。城壁の上から敵兵が石を落とした。石は味方の兜に当たり、鈍い音を立てた。
それでも、こちらは止まらなかった。
私は門柱の横へ避けた。
そこが一番安全そうだったからだ。
その時、門の内側で鎖が切れる音がした。
大きな扉の一部が傾いた。
「下がれ!」
私は叫んだ。
完全に本能だった。
扉が落ちると思った。自分が下敷きになりたくなかった。ただそれだけである。
しかし、味方の前列は私の声で左右へ散った。
次の瞬間、内側の補強材が崩れ、扉の一部が落ちた。
敵兵が巻き込まれた。
門の中に隙間ができた。
その隙間へ、帝国軍が流れ込んだ。
歓声が上がった。
城門は破られたようだ。
私は壁に手をつき、深く息を吐いた。
助かった。
少なくとも、今は助かった。
だが、周囲の兵たちは私を見ていた。目が輝いている。よくない。とてもよくない。これはまた何かを誤解している目である。
「閣下は、扉の崩落まで読まれていた」
ヴォルフが震える声で言った。
「敵の騎兵、城門、内側の支え……すべてを利用して突破口を作られたのですね」
違う。
寒いし怖いし帰りたいだけである。
だが私は、疲れすぎて否定できなかった。
かわりに、ただ小さくうなずいた。
それがいけなかった。
兵たちの歓声がさらに大きくなった。
◇
そのころ、城内の石段の上では、守備隊長イブラヒムが門の混乱を見ていた。
彼の目には、帝国軍の将が泥に汚れたまま立っている姿が映っていた。
シュヴェンディは、砲撃を受けても退かなかった。
こちらの弾を、首の動きだけでかわした。
騎兵突撃を前へ出て受け、黒鎧の勇士を落馬させた。
倒れたように見せて敵の足を止め、門の崩落を読み、味方を左右へ散らした。
イブラヒムには、そう見えた。
偶然だとは思えなかった。
あの男は、恐怖を見せない。
あの男は、勝利を急がない。
あの男は、危険な場所に立ちながら、自分だけが助かる位置を選んでいる。
逃げ道を探すような視線さえ、イブラヒムには戦場全体を測っている目に見えた。手の震えをごまかすような仕草さえ、次の一手を待つ余裕に見えた。沈黙は怯えではなく、敵を誘う間であるように思われた。
イブラヒムは奥歯を噛んだ。
「外門は捨てる」
彼は部下に言った。
「内側へ退け。あの男の前で、狭い場所に兵を集めるな」
「しかし、まだ押し返せます!」
「違う。押し返せると思わされている」
イブラヒムは、門の前で静かに立つ帝国軍の将を見た。
シュヴェンディは動かない。
実際の私は、疲れて動けないだけだった。
だが、イブラヒムにはそう見えなかった。
「退け。これ以上、あの男に兵を読ませるな」
敵兵が内側へ退き始めた。
門の抵抗が弱まった。
帝国軍の兵たちは、一気に城内へ入った。
◇
私はその流れを見て、ようやく理解した。
外門は落ちたようだ。
トカイ城は、少なくとも一つ目の守りを失ったということになったらしい。
周囲では、兵たちが私の名を呼んでいる。ヴォルフは感動した顔をしている。誰かが皇帝の名を叫んでいる。
私は剣を下ろした。
手が震えていた。
寒さのせいということにしたい。
「閣下、次のご命令を」
ヴォルフが言った。
まだあるのか。
私は城内の通路を見た。暗い。狭い。敵がいるかもしれない。罠もあるかもしれない。つまり、入りたくない。
だが、兵たちは待っている。
私は深く息を吸った。
「隊列を乱すな」
私は言った。
「急ぐな。生きて進め。死んだ者は勝利を報告できない」
これは本音だった。
兵たちは真剣な顔でうなずいた。
また名言を言ったように受け取られた気がする。
私は心の中でため息をついた。
勝利というものは、もう少し静かで安全な形で訪れてほしい。
そしてできれば、私のいないところで訪れてほしい。




