第二十節:『力業』
獰猛な肉食獣に睨まれたとき。
人は純粋な恐怖で、思考が止まるのかもしれない。
「――まずハお前にゃ、ゆうにゃん」
「――ぁ」
瞬間、舞台の上で立ち上がった真っ赤な『捕食者』の姿が掻き消え――気づけば、彼女が振り上げた長い脚が僕の目の前で踊り、漠然と脳裏に『死』の一字が色濃く浮かぶ。
このまま何も理解することなく、首を撥ね飛ばされて命を散らすのだろうと――
「――ちッ」
「――ッ」
――しかし、その強烈な蹴撃が僕の首根っこに触れた瞬間、極小時間の拮抗の末、『純潔』の意思が辛うじてその衝撃を弾き返した。
接触部に閃光が迸り、衝撃波が爆風を生じて広間全体の空気を粉々にするかのように広がり、攻撃を弾かれた彼女はくるくると空中で回転しながら舌打ちして空間の中央にスタッと降り立つ。
「……どんナ手品にゃ。あーしの蹴りデ、ぶっ壊せネえものなんてないはズなのににゃァ」
「今の勇原は無敵なんだよ。その代わり、何にも出来ねーけどな」
「へエ。そういえばさっキからピラピラ振っテるその紙切れ……何か妙な力と気配ヲ感じるにゃ?」
「口の利き方に気を付けろよ。かの有名な『魔法少女』の、魔宮木イツキのお手製のスペルカードだぜ」
「みゃみやぎ、いつきの……?」
だがそこで『魔宮木イツキ』の名前に反応したかのように、彼女はピクッと眉を跳ねさせる。
その反応の意味は分からなかったが、彼女はすぐに小さく首を頷かせて、ボソリと独り言のように呟く。
「……縁なコともあルものにゃ」
「なんだよ?」
「……にゃンでもない。それよリ、ゆうにゃんに今攻撃が効かなイのにゃら……暇つブしに、もう一匹の鼠デも虐めておくとするかにゃァ?」
「――ッ!」
その残酷な宣告と共に、彼女は次なる獲物を探してゆらりと辺りを見回す――が、広間を一巡して、当惑したように小首を傾げる。
「……どこ行ったにゃ、あの鼠袋」
「――ここだよ、へんなねこ」
「にゃ――ァ!?」
――同時、彼女の背後から唐突に姿を現したコーラルピンクの陰々蛇さんの拳が、続けざまにその無防備な背を撃ち抜いていた。
『憤怒』の魔法による身体能力の強化は凶悪だが、その副作用の五感の鈍化のデメリットはさしもの『捕食者』も拭い切れない。案の定、反応が遅れた彼女は『隠密』の異能者による先制の連続攻撃を許すことになり――その華奢な身体が広間に並ぶ楽器の数々を無残にをひしゃげさせながら吹き飛んでいく。
楽器の死骸の中で、しかし一人傷一つ付いていない、生命力の権化のような『捕食者』は即座に怒鳴りながらがばっと起き上がり、地を蹴って自分を吹き飛ばした少女に向かって猛然と駆け出していく。
「――クソ鼠ッ!!どこカら這入り込んだのか知らにゃイが……お前さっキから、ほんッッッッと邪魔クソにゃァッ!!」
「……っ!」
不意打ちは出来ても、しかしそれは正面から殴り合えるということを意味しない。
一度認識されれば、『憤怒』と『色欲』の重ね掛けによる身体強化があろうと、強大な『捕食者』にとっては容易にその命を刈り取れる『被食者』でしかない。
容赦の無い、『捕食者』の迅速かつ凶悪な殺意が、身構える陰々蛇さんの下に為す術なく振るわれて――
「――【陰々蛇の現在位置、座標A3に置換】」
「……ッ、なんにゃァ!?」
――同時、隣の闇﨑さんが口早に囁いたその言葉が響いた瞬間、陰々蛇さんの姿が掻き消え、その殺意の蹴撃を振り撒こうとしていた『捕食者』の背後に、瞬間移動のように陰々蛇さんがその位置を変位した。
前述のように、認識されていれば『捕食者』の正面に立つ者は何人も無力な被食者に成り下がる。――でもそれは、認識されていればの話。
途方もない地力の差があろうと、『隠密』『巻き戻し』――そして、『写像』による任意の位置座標の随時呼び出しを併用すれば、認識の隙間を掻い潜り……強大な『捕食者』とも、辛うじて渡り合える!
「――こっちだよ、へんなねこ」
「――ッッ!?」
――その瞬間、陰々蛇さんの二度目の背後からの先制攻撃が、再び『捕食者』の身体を激しく吹き飛ばしていた。
* * *
「『――つまりだな……オレらん中で、まともに猫又の野郎と張り合えんのは、陰々蛇だけってことなんだよ』」
作戦決行前、闇﨑さんは……正確には、彼女の言葉をそのまま持ち帰ってきた陰々蛇さんは、そう語った。
「『陰々蛇の『隠密』なら、どんなバケモンにだって最初の一発は確実に不意打ちを食らわせられんだ。いつもだって、あの姐さんすらこの紙袋の接近を気取れねーくらいなんだからな。学園『最強』にちょっかい掛けれるような馬鹿も、それが出来る能力を持ってんのもこいつくらいしかいねー』――だって。てれる」
「……それで?」
「『それでも、正面戦闘に持ち込まれたらやっぱり陰々蛇には勝ち目がねーよ。あの蹴りを一発でももらったらそれで一発KOのクソゲーだ。――だから、まともに戦わねー戦い方をする』」
「……」
「『『写像』の異能は、写真に写っている瞬間のあらゆる状態を記録して自由に取り出せるだろ?物の状態、人の健康状態、記憶状態、そして位置座標までもな』」
「――ぁ」
「『だから勇原、まずは作戦を始める前に、広間のいろんな位置にいる陰々蛇の写真を取っといてくれ。お前が撮り貯めた写真は、後でオレが上手く使ってやる』――だって。ぴーす」
そう言い終えて陰々蛇さんは、両手に作ったピースサインを紙袋越しに自分の頬に押し付けるポーズを取った。
それから僕らは『隠密』の異能によってこっそりと広間に忍び込み、その空間の様々な位置で、『位置座標の記録』となる陰々蛇さんの写真を予め撮影し回っていた(『写像』の異能は能力を行使して撮影した写真は勝手に現像されて現れるので、手持ちの携帯だけでも十分に扱えるのだ)。
――つまるところ、闇﨑さんの提案は常軌を逸した力業だ。
要するに、『写像』の異能で記録した位置をチェックポイントのように『いつでも移動できる位置』として扱い、この空間そのものをチェス盤として掌握するかのように、『捕食者』と戦う陰々蛇さんをまるで駒のように、リアルタイムで縦横無尽に移動させる。
――そしてそのゲームを、最善を引くまで『巻き戻し』の異能で何度もやり直すんだ。
* * *
「A1……B3……D2……陰々蛇、ついてこい」
右手首の腕時計をぎゅっと手の平で押さえながら、闇﨑さんは目の前で目まぐるしく動く戦況を鋭く細めた瞳でじっと凝視し、ブツブツと呪文のようにチェックポイント座標を呟きながら、手元の無数の写真――陰々蛇さんの位置座標が記録された写真を、素早く手繰っている。
――彼女が写真を手繰るたび、瞬間移動のように『捕食者』と戦う陰々蛇さんの位置が次々と切り替わる。
「やーいやーい、こっちだよ?」
「こンンンのクソ鼠ィッ……なんデあーしの攻撃ガ掠りもしなイにゃァ!?」
挑発するように手招きする陰々蛇さん、それに全身の毛を逆立てて激昂する『捕食者』の苛烈な蹴撃は、放たれた瞬間にたびたび空を切る。そしてその背後に瞬間移動した陰々蛇さんの拳が、何度も何度もその無防備な赤い背に突き刺さっている。
今も『憤怒』の魔法による感覚鈍化が継続する『捕食者』、その身体性能はただ動き回るだけでこの建物全体が崩れそうになるほどの常軌を逸したものに強化されているが、一発ごとがバズーカ砲のような攻撃力も、当たらなければ意味が無い。――つまるところ闇﨑さんが言いたいのは、そう言うことだ。
「はあ、はあ……クソッ、それでもどんな死にゲーだよ、ゲームバランスが極端過ぎんだろ……ッ!」
今も尚戦場の駒の位置を素早く変化させながら――一体これまで何度やり直しているのか分からないが――その負担で、手元の写真を手繰る闇﨑さんの額にはダクダクと脂汗が流れ始めている。
どれだけの脳疲労か分からないが、この拮抗状態の要を担う、闇﨑さんだけに負担を一過集中させる訳には行かない――そう思い、『純潔』の魔法の効果が切れて自由に身体が動かせるようになった僕は、手に取った『忍耐』のスペルカードを掲げ、その緑の光で自分と彼女の身体を包み込む――その瞬間だ。
「『苦難の受け皿』――ぐ……ぅッ!?」
途端に、ズキズキと右側頭部に強烈な頭痛が走って、僕はその衝撃でその場に倒れ込みそうになる。
クソ……これだけの負担を彼女に課せて、それでようやく、これなのか。
――これだけやって、まだ届かないというのか。
「はあ、はあ……あ、う……」
「ニャヒヒヒヒ……鼠の動きも、いよいよ鈍くなってきたかにゃァ?」
満身創痍に陥りかけているのは僕らだけではない――実際に戦場で動き回っている、陰々蛇さんもだ。
今だって気丈に眼前の『捕食者』に拳を向けているが、そんな彼女と相対する当の『捕食者』の目は、冷静さを取り戻したかのように冷ややかなものだ。
……当たり前だが、短時間での連続的な瞬間移動、その物理的負担を背負うのは戦場の駒の役割を担う陰々蛇さんだ。
合図もなしにいきなり運動状態を強制停止され、視界が一瞬で切り替わるという慣れない環境での戦闘を強いられ、かつ彼女には既に、先の『演者』戦での疲労が蓄積した状態。
――それに対し『捕食者』は、一向に疲労の様子を見せない。
「にャは……ソうら鼠、猫パンチにゃ」
「……っ!?」
そのとき、『捕食者』はまるで遊んでいるかのように、雑に握ったふにゃふにゃの拳を、背中で息をする陰々蛇さんに向けて放つ。それにビクッと身体を震わせて彼女はその場から飛び退るが、その拳の曖昧な軌道が行き着いた先は――あろうことか、地面だった。
「さっきカらお前は、決まっタ地面の上にたびたび現れてルにゃ。――ソれなら、これなラどうにゃァ?」
「クソ――脳筋が……ッ!」
「――せーの、えい。……だにゃ?」
隣の闇﨑さんが苛立たし気に舌打ちした瞬間、広場の中央の『捕食者』は、力一杯振り上げた拳を、真っすぐに地面へと振り下ろし――
――次の瞬間、建物全体の地面が粉々にひび割れて崩壊し、未曽有の地響きが街全体を覆い尽くすように広がり始めていた。




