アステルに辿り着いた少女
この世界では、魔物が街道を歩き、人々は冒険者ギルドに命を預けて生きている。
街に辿り着けるかどうかは運次第──そんな世界で、私は今日も生きるためだけに歩いていた。
アステルの街に着いた時、もう足は棒みたいだった。
喉は乾ききり、胃は空っぽで痛い。
服は何日も変えていないから汚れていて、ほつれた袖が風に揺れるたびに惨めさが胸に刺さる。
でも止まれなかった。
止まったら、本当に終わる気がした。
記憶を失ったあの日から、私はずっと一人だった。
名前以外は全部霧の中に消えてしまって、縋れる場所も帰る場所もない。
「……今日こそ仕事を見つける……」
声に出すと、少しだけ強くなれた気がした。
だから笑おうとしたけれど、唇が震えただけだった。
アステルの市場は、私には眩しすぎた。
魚の匂い、焼き菓子の甘い匂い、香辛料の刺激的な匂い──
全部が混ざって、頭がくらくらする。
食べたい。
でも食べられない。
お金がないから。
──少しくらいなら、盗ってもバレないよ。
「……ッ!」
心の奥で黒い声が囁く。
飢えと絶望が生んだ、私のもう一つの声。
それを押し殺すように、私はよだれを拭って店主に話しかけた。
「こんにちは! お仕事ありませんか!」
元気に言った。
元気に言わないと、誰も振り向いてくれないから。
「……悪いねぇ嬢ちゃん。その体じゃちょっと……あと、その……」
店主は市場の出口を指した。
その指の意味は、もう分かっていた。
汚れた服。
痩せた体。
記憶のない少女。
そんな私を雇う人なんて、いない。
「ご迷惑をおかけしました……」
頭を下げて市場を出る。
足が震えている。
でも泣かなかった。
泣いたら立ち上がれなくなるから。
「お金……お金……」
生活するにも、食べるにも、お金がいる。
でも働くには力がいる。
私にはその力がない。
それでも歩いた。
一歩、また一歩。
──どうせまた断られるよ。
「諦める……もんか……!」
黒い声と戦いながら、街の外れの孤児院へ向かった。
木造の建物で、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
その笑い声が胸に刺さる。
──幸せそうにしてずるいよ。
「……ッ!」
また黒い声が聞こえた。
私は押し殺した。
「働かせてください!!」
縋るように言った。
でも答えは決まっている。
「ごめんなさい。体が細すぎて……それに孤児として引き取る余裕もなくて……」
「……そう、ですか」
頭を下げて孤児院を後にする。
涙がこぼれそうだったけれど、絶対に泣かないと決めていた。
「次は……冒険者ギルド……」
働けるなんて思わない。
でももう選択肢がなかった。
「お願い……もう少しだけ動いて……私の足……」
感覚がなくなってきた足を、一歩、また一歩と進める。
──どうせまた断られるよ。
「諦める……もんか……!」
私は黒い声と戦いながら、前へ進んだ。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
アステルの朝は、いつも少しだけ騒がしい。
市場の呼び声、鍛冶屋の金槌の音、子どもたちの笑い声──
街は今日も生きている。
その中を俺は一人で歩いていた。
誰かと歩くより一人の方が楽だからだ。
「おばちゃん、串一つ」
「あいよ」
屋台の肉串を買う。
朝から屋台で飯を済ませる三十代の男なんて、普通なら寂しいのかもしれない。
でも俺には、このくらいの距離感がちょうどいい。
「アレン、いい加減世帯を持ったらどうだい? 三十過ぎの男が朝から屋台なんて恥ずかしいよ」
「おいおい、屋台のおばちゃんがそんな事いうなよな」
軽口を叩く。
叩ける。
人と仲良くなることはできる。
でも──深くなることはできない。
誰かを守る関係が怖い。
誰かに守られる関係も怖い。
それを失う痛みを、俺はもう二度と味わいたくなかった。
だから一人でいる。
その方が楽だからだ。
「男前なのに勿体ないよ」
「そうかね」
褒められても、胸が少し痛むだけだ。
誰かと一緒に生きる未来なんて、もう考えられない。
俺は肉を一口で平らげ、串を返した。
「ごちそうさん」
「今日もギルドかい?」
「ああ」
俺は冒険者ギルドへ向かう。
冒険者としてではなく──なんでも屋として。
その方が、誰も失わずに済むから。
「ようこそ、アレン・ヴァルステッド様。受付までご案内します」
俺が冒険者ギルドに入ると、ドア付近で立っていた受付嬢が畏まって礼をする。
「……」
俺はあまり、フルネームで呼ばれるのはあまり得意じゃない。
冒険者の日々を……あの日を思い出してしまうからだ。
「あの、なにか粗相をしてしまいましたでしょうか!?」
「あ、あぁ、すまない。次からアレンと呼んでくれると嬉しいよ」
「か、かしこまりました! アレン様!」
「あはは……ありがとう。じゃあ案内頼むよ」
新人受付嬢が慌てて頷き、奥への個室へと案内される。
「ミーナ・ロッセルをすぐに向かわせます。到着するまでそちらのソファでお待ちください」
「あぁ、ありがとう」
お待ちください、とはいうがいつも数分もしないうちにミーナは来る。
俺の対応で冒険者への案内に迷惑がいってないか、いつも不安になる。
「いらっしゃいませ、アレンさん。本日もよろしくお願いします」
「よろしく、ミーナ」
ミーナは十年以上の付き合いだ。
仕事モードの時はきっちりしているが、
友人モードの時は少し柔らかい。
艶のある金髪、丸みのある顔、年齢を感じさせない肌。
昔から変わらない、綺麗な人だ。
「こちらが本日のなんでも屋依頼。それと、こちらが特別依頼です」
「助かるよ。いつもありがとう」
「いえ、こちらこそ。アレンさんがいてくれるおかげで、この街は成り立っていますから」
ミーナは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ると、少し胸が痛む。
「……そうかね」
「そうですよ。住人の生活の手助けをするなんでも屋依頼。ギルドがアステルを守るのに必要な特別依頼。どちらもアレンさんじゃないと成り立ちません」
もらった依頼に目を通す。
なんでも屋依頼は簡単な屋根の修復手伝い。
特別依頼は最近この辺で見られる凶暴な魔物の討伐。
……こんなもんで役に立っているのか?
それに……贖罪になっているのだろうか。
「そうか……まあ役な立っているなら良かったよ」
「はい。……でも、最近依頼受けすぎですよ……断る事も覚えてください」
「仕事しないと落ち着かないんだよ。寝れなくなる」
ミーナはその言葉に、ほんの一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「……まだあの声が聞こえるんですか?」
「そんな事はない、今はな」
「あの……私が言うのも違うかも知れませんが、彼は──」
「昔の話はいいだろ」
「……すみません」
「……いや俺も悪かった」
気まずい雰囲気の中、ミーナは仕事モードに戻り依頼書を整える。
「ギルドは、元冒険者だとしてもアレンさんを戦力として見ています。でも……私は、無理だけはしてほしくないんです」
「無理なんてしてないさ。俺はただ……やらなきゃいけないだけだ」
「……はい」
その言葉は軽く言ったつもりだった。
だがミーナは痛いほど真剣に受け止めていた。
……だから昔の話は嫌いなんだ。
「……分かりました。では、今日もよろしくお願いします」
「よろしく」
俺はその後、気分を切り替えるためにミーナと世間話を少しした後、共に部屋を後にする。
ギルドの外までミーナが見送りに来てくれた。
いつもならお気をつけてで終わるはずなのに、
今日はミーナがその場で立ち止まった。
「……アレンさん。ひとつ、言わないといけないことがありました」
その声は、仕事モードではなく、十年来の友人としての声だった。
「ギルド長からのお願いです。……人を増やしてほしい、と」
「……またその話か。悪いが、無理だ」
即答した。
ミーナはそれでも目を逸らさず、言葉を続けた。
「お願いします……もう正直……見てられないんです……」
ミーナの声が震えている。
仕事としてのお願いではなく、友としての悲鳴だった。
「私も……ギルド長も……アレンさんが、毎日無理してるの……分かってるんです……」
その言葉に、俺は思わず目を逸らした。
「……なら見なければいいだろ」
言った瞬間、自分でも最低だと思った。
でも、これ以上踏み込まれるのが怖かった。
ミーナは唇を噛み、首を横に振った。
「そんな事……出来るわけないです……」
その声は、泣きそうだった。
十年以上の付き合いの中で、ミーナがこんな声を出したのは数えるほどしかない。
胸が痛む。
でも向き合えない。
向き合ったら、また誰かを失う気がした。
その時──
「こんにちは!! 私はリオ! リオ・フェルミナです!!」
ギルドの空気が一瞬止まった。
ミーナが驚いて振り返る。
俺も振り返った。
あまりにも元気な声。
なのに、その体は今にも倒れそうだった。
声は生きようとしているのに、体は死にかけている。
そんな矛盾が、胸に刺さった。
白髪の少女。
痩せた体。
汚れた服。
必死に笑おうとしている顔。
しかし──その目だけは、まだ折れていなかった。
俺はその目を見て、自然と顔を逸らしてしまった。
体は元気なのに心は死んでいる自分が恥ずかしくて。
「えっと……リオさん、でいいのかな? ごめんなさい、今は採用していなくて……」
「……そう……ですか……あ……あ、ありがとうございます!」
彼女は笑顔のまま、ゆっくりと沈んでいった。
声は元気なのに、足は震えていく。
──見てられないってのは、こういう事か。
気づいたら、口が動いていた。
「確か一人雇って欲しいんだったな」
「えっ……アレンさん?」
ミーナが驚いて俺を見る。
リオは希望を失いかけた目で、必死にこちらを見ていた。
「雇用してやる……ただ外で働けるようになるまでだ」
そう言い切った瞬間──リオの顔が明るくなった。
「はい!! はい!! ありがとうございます!!」
その笑顔が眩しすぎて、俺はまた顔を逸らした。
大丈夫だ。助けるだけ。
大丈夫だ。仲間じゃない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
心の中で必死に繰り返しながら、俺はリオを家へ案内した。
はじめまして。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
拙い文章で申し訳ありませんが、もしよろしければ次も読んでくださると嬉しいです。
※ちょくちょく誤字脱字修正や、読みやすい文に修正をしていこうかと思います。




