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一日目 303号室

終礼の挨拶と同時にチャイムが鳴る。

私は、一分もしないうちに廊下へ飛び出した。


向かう場所があった。


本当はバスを使った方が楽だ。でも、待ち時間さえ惜しくて、いつも走って行ってしまう。


十分ほど走り続けると、白い病棟が見えてきた。


中へ入って簡単に受付を済ませ、そのままエレベーターで三階へ向かう。


目指すのは303号室。


『水野透』と書かれたプレートの前で立ち止まり、軽くノックをした。


「汗だくだね。また走ってきたの?」


前髪の隙間から汗を滴らせ、息を切らしている私を見て、透は呆れたように笑った。


窓から吹き込んだ風で、透の真っ直ぐな髪が揺れる。


もともと細い目がさらに細くなり、口元から八重歯が少し覗いた。


「はい、どうぞ。飲んで」


透はベッドの上で上体を起こし、水を差し出した。


相変わらず穏やかに笑っている。

けれど、その表情には少しだけ呆れた色も混じっていた。


毎日十六時半頃になると、息を切らした女子高生が病室へやって来るのだ。さすがに慣れたのだろう。


「君さ、僕より先に死んだら意味ないでしょ」


水色の病衣から伸びる腕は細い。

点滴の跡が、うっすらと残っていた。


「大丈夫だよ。このくらいじゃ死なないし。たかが十分くらいだから」


ペットボトルのキャップを閉めながら、私は笑ってみせる。


透は小さく笑って、それから窓の外へ目を向けた。


琥珀色に染まった空が、静かに広がっている。


「今日ね、窓を開けたら、電線にものすごい数の雀がいたんだ。びっくりしたよ。でも、可愛かったな」


何でもない話を、透はまるで宝物みたいに話す。


病室の中で起こる出来事なんて、たかが知れている。

それでも透は、何かを見つけては嬉しそうに伝えてくれるのだ。


「体調、大丈夫なの?」


私はそう聞いた。


「ん? 大丈夫だよ。今日はいい感じ」


一瞬だけ。


ほんの一瞬だけ、透の瞬きが遅くなる。


けれど、すぐにいつもの柔らかな表情へ戻った。


透は右手で胸の辺りを軽く叩いてみせる。

まるで、本当に何でもないみたいに。


病室の横には心電図のモニターが置かれていたけれど、今は外されていて静かなままだった。


「お医者さんにもね、調子いいって言われたんだ。……まあ、僕が大丈夫って言っても、信じないでしょ。君は」


「当たり前でしょ」


透はクスッと笑って、布団の端をいじる。


「だよね」


少しの沈黙が落ちた。


風がカーテンを膨らませ、夕日の光が透の横顔をやわらかく照らしている。


「……心配してくれるのは嬉しいけどさ。僕のことは、僕が一番分かってるから」


透は静かな声で言った。


「君が辛そうにしてる方が、僕はよっぽどしんどいかな」


優しい声だった。


でも、“自分の体のことは自分が一番分かっている”というその言葉は、この状況ではあまりにも重い。


透はそれ以上何も言わず、ただ夕焼けを眺めていた。


「そっか」


私はそれだけ返した。


なんて返せばいいのか、分からなかったから。


二人の間に、静かな時間が流れる。


夕日は少しずつ沈み、病室を染めていた橙色も、ゆっくり紫へ変わっていく。


遠くでナースコールの電子音が鳴り、やがて消えた。


ふと、思い出したように透が手のひらを上に向ける。


「ねぇ、今日の飴は何味?」


その目は、子どもみたいにきらきらしていた。


私はポケットの中から、紫色の包み紙の飴をひとつ取り出す。


透の顔がぱっと明るくなった。


包み紙を丁寧に剥がし、口の中へ放り込む。


少し震えている指先は、握力が弱くなっているせいかもしれない。


それでも透は、何食わぬ顔をしていた。


「……うん、おいしい」


ころころと飴を転がしながら、透は目を細める。


まるで子どもみたいな顔だった。


十七歳の、余命宣告を受けた人間には、とても見えなかった。


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