episode1
この世界は、数千万の“モブ”と、選ばれた一部の“勇者”によって構成されている。
人々は勇者の誕生を祝い、世界の平和を願う。
勇者が魔王を倒し、世界を救う。
――誰もが、そう信じていた。
だが真実は違う。
その平和は、名も無き“モブエージェント”達によって、裏で“作られて”いた。
その存在を知る者は少ない。
『最古の村』
通称――“聖剣が眠る村”。
歴代の“村人B一族”は、代々その聖剣を守り続けてきた。
勇者のために。
世界のために。
そして、いつか訪れる魔王討伐の日のために。
◇
王都セレスタの大神殿には、数え切れないほどの人々が集まっていた。
白い石柱が立ち並び、天井には女神の姿を描いた巨大な絵画がある。
神官達が祈りの言葉を唱え、騎士達が剣を掲げ、民衆は固唾を飲んで中央の少年を見守っていた。
少年の名は、アルト。
平凡な農村で生まれた、十六歳の少年だった。
だが今日、この瞬間から彼は平凡ではなくなる。
女神に選ばれた勇者。
世界を救う者。
そう呼ばれる存在になる。
神殿の中央に立つアルトの足元に、淡い光が広がった。
光はゆっくりと柱のように昇り、やがて一人の女性の姿を形作る。
透き通る銀髪。
慈愛に満ちた瞳。
白い衣。
そこに現れたのは、女神だった。
民衆からどよめきが起きる。
「女神様だ……」
「本当に降臨なされた……」
「勇者が、選ばれたんだ……!」
アルトは震えながら膝をついた。
女神は穏やかに微笑む。
「アルト」
「は、はい……!」
「あなたは勇者として選ばれました」
その声は優しく、神聖で、聞く者すべての心を震わせた。
「東の果てに魔王が目覚めました。このままでは、いずれ世界は闇に包まれるでしょう」
神殿が静まり返る。
アルトは唇を噛み、震える拳を握った。
「あなたなら出来ます。世界を救ってください……勇者様」
その言葉に、アルトは顔を上げた。
少年の瞳には恐怖があった。
だが、それ以上に覚悟があった。
「はい! 女神様!」
アルトは胸に手を当て、叫ぶ。
「必ず魔王を倒し、世界を救ってみせます!」
次の瞬間、神殿は歓声に包まれた。
人々は涙を流し、抱き合い、祈りを捧げた。
勇者が生まれた。
希望が生まれた。
世界は救われる。
誰もがそう信じた。
女神は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、勇者アルトを見つめる。
そして、心の中で小さく呟いた。
(さて……あとはエージェント達が上手いことやってくれるわね)
◇
同じ頃。
王都から遥か北。
深い山々に囲まれた、小さな村があった。
地図にはほとんど載っていない。
旅人が偶然辿り着くこともない。
だが、この村には世界でもっとも古い歴史がある。
始まりの時代。
初代勇者が旅立つ前から存在していたとされる村。
人々はそこを『最古の村』と呼んだ。
そして一部の者だけが、こう呼ぶ。
“聖剣が眠る村”と。
村の中心には、古びた祠がある。
苔むした石段。
錆びた鉄扉。
見張りもいない。
豪華な装飾もない。
だがその奥には、伝説の聖剣が眠っている。
勇者が魔王を討つための剣。
そう伝えられている。
だが、それは半分だけ正しい。
聖剣の本当の役目は、勇者が手にする前にある。
魔王を弱体化させること。
勇者が勝てる状態まで、世界最大の災厄を削ること。
その役目を代々担ってきたのが、村人B一族だった。
◇
村の地下には、巨大な会議室があった。
地上から見れば、そこはただの納屋にしか見えない。
農具が立てかけられ、干し草が積まれ、鶏がのんびり歩いている。
だが床板の一部を外すと、地下へ続く階段が現れる。
その先にあるのは、世界の裏側だった。
壁一面には地図が貼られている。
王国全土。
魔王領。
街道。
海路。
山脈。
村、町、砦、迷宮、魔物の巣。
そして、勇者アルトがこれから辿るであろう道筋。
机の上には大量の書類が積まれていた。
【勇者候補アルト 基礎能力報告】
【魔王軍幹部配置予測】
【聖剣起動条件】
【民衆希望値推移】
【一年間育成計画案】
そこに集まっているのは、どう見ても普通の村人達だった。
腰の曲がった老婆。
無精髭の漁師。
酒場の女将。
鍛冶屋。
羊飼い。
薬師。
畑帰りの男。
だが彼らはただの村人ではない。
世界各地に存在するモブエージェント達を束ねる、最古の村の幹部達だった。
「来たぞ」
天井近くの小窓から、白い鳥が滑り込んできた。
鳥は真っ直ぐに会議室中央の机へ降り立つ。
その足には、小さな筒が結ばれていた。
村長が筒を外し、中の羊皮紙を広げる。
村長は白髪の老人だった。
穏やかな顔をしているが、その目だけは鋭い。
羊皮紙に書かれた文字を読み、村長はしばらく黙った。
その沈黙だけで、部屋の空気が重くなる。
「じいさん」
漁師の男が口を開いた。
「今回の女神からの指令……ちぃーと難易度高くないか?」
村長はゆっくり頷いた。
「うむ」
酒場の女将が眉をひそめる。
「何て書いてあるんだい?」
村長は羊皮紙を机に置いた。
そこには、短くこう記されていた。
【勇者たった一人で魔王を討伐させよ】
会議室が静まり返った。
誰も喋らない。
羊飼いの男が持っていた湯呑みを落としかける。
薬師の老婆が深いため息を吐く。
漁師の男は天井を仰いだ。
「……こりゃ、何千人のエージェントが動くことになるやら」
「勇者一人で魔王討伐?」
女将が頭を抱える。
「女神様、また無茶言いやがるねぇ」
「勇者の同行者は?」
「なしじゃ」
「回復術師は?」
「なしじゃ」
「盾役は?」
「なしじゃ」
「荷物持ちは?」
「なしじゃ」
「……正気かい?」
「女神様はいつも正気じゃ。ただし、現場の苦労はあまり考慮されん」
村長の言葉に、会議室の何人かが苦笑した。
女神は世界を守ろうとしている。
それは間違いない。
だが女神の指令は、基本的に美しい。
美しく、神聖で、人々に希望を与える。
その分、現場に降りる頃にはだいたい無茶振りになる。
「勇者一人で魔王を倒した」
村長は静かに言った。
「この物語が成立すれば、民衆の希望値は最大まで上がる。世界は長く安定するじゃろう」
「その代わり、裏側は地獄だね」
「そういうことじゃ」
村長は壁の地図を見る。
「勇者アルトは本日、王都で女神の神託を受けた。明日、王都を出発する」
鍛冶屋の男が腕を組む。
「目的地は?」
「最終的にはこの村じゃ。聖剣を抜くためにな」
「最終的には、ってことは……」
「真っ直ぐ来させるわけにはいかん」
村長は地図に赤い線を引いた。
王都から最古の村まで、最短なら二週間。
だがその線はすぐに消された。
「勇者には旅をしてもらう」
村長は続ける。
「一ヶ月後、レベル二十」
地図の西部に印がつく。
「三ヶ月後、レベル五十」
南の迷宮に印。
「半年後、レベル七十」
北の魔人領に印。
「一年後、レベル九十九」
そして最後に、最古の村へ印が置かれた。
「勇者が一年をかけて成長し、世界中の希望を背負い、この村で聖剣を抜く」
会議室の全員が、その意味を理解した。
勇者の旅は、本物でなければならない。
民衆が信じられる物語でなければならない。
あまりにも早く魔王を倒してしまえば、ただの奇跡に見える。
奇跡は人を驚かせるが、支えにはならない。
人々が本当に求めているのは、苦難を越えた希望だ。
だから勇者には旅が必要だった。
傷つき、迷い、成長し、それでも前に進む時間が必要だった。
「各地のモブエージェントに通達」
村長の声が低く響いた。
「勇者を育てろ。だが、過保護にするな。死なせるな。だが、苦戦はさせろ。勝たせろ。だが、簡単には勝たせるな」
「相変わらず矛盾だらけの仕事だね」
女将が笑う。
「それが我らの仕事じゃ」
村長は淡々と答えた。
「勇者を完成させる」
◇
会議室の隅で、一人の青年が静かに話を聞いていた。
黒髪。
灰色の瞳。
背は高いが、存在感は薄い。
気づけばそこにいて、目を離せばすぐに忘れてしまいそうな青年。
名を、シド。
村人B一族の現当主候補だった。
彼は壁にもたれ、黙って地図を見ていた。
村長が視線を向ける。
「シド」
「はい」
「お前の出番は、まだ先じゃ」
「分かっています」
シドは短く答えた。
「勇者がレベル九十九に到達し、聖剣を抜く条件が整う。その直前に、俺が魔王城へ向かう」
「うむ」
「聖剣を使い、魔王を勇者が討てる状態まで弱体化させる」
「その通りじゃ」
シドの視線が、会議室奥の扉へ向かう。
その先には、地下祠へ続く道がある。
聖剣はそこに眠っていた。
表向きには、勇者が抜くまで誰も触れられない伝説の剣。
だが村人B一族だけは違う。
聖剣は勇者の武器である前に、村人B一族の仕事道具だった。
魔王の魔力を削る。
権能を断つ。
再生力を落とす。
勇者が勝てる、ぎりぎりの状態に調整する。
それがシドの役目だった。
「シド」
村長が言った。
「今回の魔王は、歴代でも上位じゃ。おそらく勇者がレベル九十九になっても、そのままでは勝てん」
「はい」
「だからこそ、お前の調整が要になる」
「はい」
「だが忘れるな。魔王を倒すのは勇者じゃ」
シドは静かに頷いた。
「俺は勇者ではありません」
その声に迷いはなかった。
「名もなき村人Bです」
会議室が少しだけ静かになった。
それは卑下ではない。
誇りだった。
英雄にはならない。
歴史には残らない。
人々に称えられることもない。
だがそれでいい。
勇者が世界を救う。
その裏で、勇者が世界を救えるようにする。
それが村人B一族の誇りだった。
◇
「では、作戦を開始する」
村長の一言で、会議室が動き出した。
「東部誘導班」
「はいよ」
山菜採りの老婆が手を上げる。
「勇者が王都を出て三日後、東の山道を一部崩せ。ただし完全封鎖はするな。“今の勇者では危険だが、成長すれば通れる”程度じゃ」
「了解」
「西部村落班」
「任せな」
酒場の女将が笑う。
「一ヶ月目の成長イベントを用意せよ。盗賊団、飢饉、魔物襲撃。ただし重ねすぎるな。勇者の精神が折れる」
「じゃあ盗賊団と魔物襲撃を分けるよ。飢饉は三ヶ月目に回す」
「よい判断じゃ」
「迷宮調整班」
鍛冶屋が手を上げる。
「宝箱の中身を見直せ。勇者は最終的に聖剣を使う。不要な高火力武器は置くな」
「了解。大地の槍とか入ってたら?」
「外せ」
「代わりは?」
「回復薬、精神安定香、女神の祝福石あたりじゃな。勇者一人旅では消耗管理が最重要じゃ」
「分かった」
鍛冶屋は手元の書類にメモを取る。
「北部魔王軍監視班」
漁師の男が顎を撫でた。
「リヴァイアサンはどうする?」
「半年後の海上試練に使う。倒させる必要はない。弱らせた状態で勇者に退けさせろ」
「了解。ちゃんと勇者が倒しやすいように弱らせておく」
「倒させるなよ」
「分かってるって」
村長は最後に、机の上の小さな青い石を手に取った。
通信魔石。
世界中のモブエージェント達と連絡を取るための魔道具だった。
村長が魔石に魔力を流す。
青い光が地下室に広がる。
「全支部へ通達」
村長の声が、世界中へ飛んだ。
「今代勇者育成計画を開始する」
通信魔石から、次々と返答が届く。
『東部支部、了解』
『西部酒場班、了解』
『南方迷宮班、了解』
『北海漁業班、了解』
『王都門番班、了解』
『商人組合裏方班、了解』
『孤児院感情誘導班、了解』
『薬師連合、了解』
『モブエージェント各班、配置につきます』
普通の世界なら、誰も気づかない声だった。
だがその声が、勇者の旅を作る。
勇者の成長を支える。
世界の平和を、裏から積み上げる。
村長は静かに目を閉じた。
「勇者が世界を救うその日まで」
そして、告げた。
「我らモブは、世界の裏で働く」
◇
翌朝。
王都の門が開いた。
勇者アルトは一人で立っていた。
まだ少し大きすぎる旅装。
腰には普通の鉄剣。
背には小さな荷物。
神殿から授かった女神の加護はある。
だが彼はまだ、世界を救うにはあまりにも未熟だった。
見送りに来た人々が叫ぶ。
「勇者様!」
「どうか世界をお救いください!」
「ご無事で!」
アルトは何度も振り返り、深く頭を下げた。
「必ず戻ります!」
その声は震えていた。
だが、前を向いていた。
門の上では、一人の門番がそれを見下ろしていた。
門番は通信魔石に小声で話す。
「こちら王都門番班。勇者、出発しました」
『了解。第一誘導班、配置につけ』
「なお、勇者の歩幅は想定より小さい。到着予定、二時間遅れ」
『了解。最初の魔物遭遇地点を調整する』
「それと……」
『どうした』
門番は少しだけ笑った。
「勇者、かなり緊張している。最初の敵は弱めで頼む」
『心得た。“勝てた”という成功体験が必要だな』
「そういうことだ」
門番は通信を切った。
そして、遠ざかる勇者の背中に小さく呟く。
「頑張れよ、勇者様」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
◇
最古の村。
地下祠の前に、シドは一人で立っていた。
石扉の奥には聖剣がある。
今はまだ抜かない。
今はまだ、その時ではない。
勇者はこれから一年かけて成長する。
多くの人と出会い、多くの敵と戦い、多くの涙を知る。
そして最後に、この村へ辿り着く。
その時、聖剣は勇者の手に渡る。
だがその前に。
シドは聖剣を持ち、魔王城へ向かわなければならない。
勇者が勝つために。
勇者が世界を救うために。
シドは石扉に手を当てた。
「一年後か」
呟く声は静かだった。
恐怖はない。
高揚もない。
ただ、任務を待つ者の顔だった。
「それまでに、勇者様がどこまで強くなるかだな」
背後から村長の声がした。
「気になるか?」
「はい」
「勇者を信じられんか?」
「いえ」
シドは首を振った。
「勇者だから信じるんじゃありません」
「ほう」
「一年間戦い続けて、それでも前へ進める人間なら、信じる価値があります」
村長は少しだけ笑った。
「お前らしいな」
シドは石扉から手を離した。
「俺はその人が魔王を倒せるようにするだけです」
「うむ」
「それが、村人Bの仕事ですから」
外では、朝日が昇っていた。
王都を出たばかりの勇者は、まだ何も知らない。
自分の旅が、どれほど多くの名も無き者達に支えられるのかを。
自分がいつか聖剣を抜くその日まで、どれほど多くのモブ達が道を整えるのかを。
何も知らないまま、勇者は歩き出した。
それでいい。
勇者は前を向けばいい。
裏を見る必要はない。
世界が求めているのは、希望なのだから。
そしてその希望を守るために。
名も無きモブ達の、一年にわたる戦いが始まった。




