ふたたび動き出す二人の運命
屋敷の正面玄関の前には丸く円を描くように石畳が敷かれた車寄せがあり、燕尾服を着た一人の老人が背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。車が近づいてくると老人は深く頭を下げて、ユウシロウを出迎えた。
車が停止すると、老人はドアを開け、あからさまな興奮を抑えようともせずに言う。「ユウシロウ様、ようこそおいでくださいました。覚えていらっしゃいますでしょうか? 執事のマミヤでございます!」細めた目にうっすらと感動の涙を浮かべながら、マミヤは客人の全身を上から下まで観察し、自分に言い聞かせるように何度もうなずいてみせた。「たいそうご立派になられて! ご連絡があった時は本当に驚きました。ふたたびお目にかかることができて光栄です」マミヤは喜びに震えるのをこらえつつ、もう一度深く頭を下げた。
その歓待は熱烈で、ユウシロウを演じているコウタは自分がまだ一言も発していないことに気づき、慌てて一礼を返した。
「ご無沙汰しております。もちろんマミヤさんのことは覚えています。丁寧なお手紙をくださり、ありがとうございました。しばらくの間、お世話になります」言葉の端々に慎重な距離感をにじませながらも、決してよそよそしくはならないように、ユウシロウとして答えた。
「さあさあ、どうぞ中へ! 坊っちゃまがお待ちですよ‼︎」
そう言うとマミヤは運転手がトランクから降ろした荷物に手を伸ばし、その年老いた外見からは予想できないほど軽々と持ち上げ、先導するように屋敷の中へと入っていった。
ユウシロウも速やかにマミヤの後に続いた。
それはまるで、建物ごと重要文化財に指定された博物館に足を踏み入れたかのようだった。大正時代に建てられたという母屋は、いかにも大正モダンといった和洋折衷の建築で、時代の息吹を今に残すような重厚で繊細な佇まいをしていた。広い玄関ホールの床には深い光沢を放つ大理石が敷かれ、正面には欅の木目が美しい大階段がゆるやかに弧を描いて二階へと続いていた。天井の中央に吊るされたシャンデリアの灯りが、壁に沿って配置された調度品の数々を輝かせていた。古いのに、どこか柔らかく、ぬくもりを感じさせるその空間は、長い時間の中で丁寧に手入れされてきたことを物語っていた。
こんな豪邸の中で実際に生活している人がいることが、コウタには信じられなかった。この空間だけ時間が止まったまま、数分前までいた外の世界からは完全に隔離されていた。一足踏み進めるごとに目に入ってくるそのどれもがコウタを圧倒した。
思わず感嘆の声を漏らしそうになるのを飲み込み、ユウシロウは言う。「なにもかも、あの頃のままですね」
「ええ、本当になにひとつ変わっておりませんよ。花瓶の位置も同じままです」マミヤは誇らしそうなほほえみとともに答えた。
コウタはソラシマ家の事情について事前に学習していた。この家の歴史だけでなく、屋敷の内装や見取り図まですべて頭の中にしっかりと叩き込んできた。だが写真と実際に自分の目で見るのとではまったく違っていた。
マミヤは大階段の前で立ち止まり、振り返った。
「旦那様はお仕事の都合で出られておりますが、ご夕食までにはお戻りになられます。お荷物はいつものお部屋に運んでおきますので、お困りのことがあれば、なんなりとお申し付けくださいませ」
「あぁ、西棟の二階の南向きの客間だね?」
ユウシロウの言葉にマミヤの皺深い口元がほころんだ。「左様でございます……さあ、坊っちゃまが東屋でお待ちです。覚えていらっしゃいますか? 小さい頃、お二人が秘密基地にしていたあの東屋でございます」
「ええ、もちろん覚えています」ユウシロウはそう答えると、懐かしさにえみを浮かべながら、玄関ホールの奥へと歩みを進めた。だがすぐに引き返し、マミヤの耳元へ顔を寄せ、小さな声で尋ねる。「それで……容体はどうなんですか?」
マミヤは背筋を伸ばしたまま、「ご本人はなんでもないように振る舞っておりますが……」とだけ返して首を振ると、それ以上はなにも言わなかった。
ユウシロウはマミヤの肩に手を乗せ、励ますように軽くぽんぽんと叩いた。それから、ふたたび大広間の方へと歩き出した。
豪華な金のレリーフの額に収められた一族の肖像画が壁面に並ぶ応接間を左に横切り、ダイニングルームとサンルームが続く東棟へと進む。庭へ張り出したサンルームには、夏とは思えない柔らかな陽差しが満ちていた。淡いクリーム色のタイルを敷き詰めた床の上では、大小様々な観葉植物の鉢が一揃えのラタンチェアを取り囲み、南国の温室のような雰囲気を醸し出していた。ユウシロウは庭に面したガラスの引き戸のひとつに手をかけると、音を立てぬよう静かに開け、石畳の中庭へと出た。
目指す東屋は、石畳の先に広がる芝生のさらに向こうの林の奥にある。
ユウシロウの足取りがすこしずつ速くなっていくのをコウタは感じる。まるで見えない台本を手に握りしめているようだった。林の奥の東屋で待っているのは、幼き日の思い出と病に伏す幼馴染との再会、そしてコウタがまだ知らないユウシロウという役。
ここが、これから三十日間、コウタがホシザワ・ユウシロウとして生きる舞台なのだ。
*
依頼を請けることを了承した翌日、コウタの自宅に大きな荷物が三個届いた。
ひとつの箱には、一枚の紙と膨大な量の資料を収めた分厚いファイルが入っていた。
紙には今回の依頼内容が書かれてあった。
依頼内容:ホシザワ・ユウシロウとしてソラシマ家で三十日間滞在すること
禁止事項:
・この資料を屋敷へ持ち込むこと
・携帯電話を含め、一切の私物を屋敷へ持ち込むこと
・外部と接触を取ること
・父親もしくは執事の許可なく、屋敷から無断で外出すること
・素性を明かすこと
・ソラシマ家およびユウシロウについて調べること
報酬:上記を遂行できた場合、金参佰萬圓を現金にて支払う
その内容は明確だったものの、とても控えめで、謎かけのようにさえ思われた。いかなるセリフや具体的な行動の指示も書かれていなかった。また、書類の作成者の身元につながるようないかなる情報も見つけられなかった。
ファイルのひとつはユウシロウに関するものだった。ユウシロウの生年月日や家族構成はもちろん、趣味、学歴と現在通っている大学で受講している講義の一覧、大学卒業後の目標、食べ物の趣向、癖、好きな動物、忘れられない思い出の良いものと悪いもの。誕生から一年ごとにまとめられた年表は、それだけで自伝が書けるほど詳細な内容だった。歴史学者の論文か探偵事務所の報告書のように、ユウシロウについてのあらゆる情報が徹底的に調べあげられていた。
もうひとつはソラシマ家に関するものだった。ソラシマ家の歴史。屋敷の見取り図と写真。ハルツグとマサツグ、マミヤに関する情報は、ユウシロウが知っているであろう範囲に留まっていたが、それでも相当な量だった。
ふたつの箱には大きなスーツケースがひとつずつ入っていた。
中身を見てコウタは唖然とした。そこに詰まっていた品々のどれもが高価なものであることは、たいした知識のないコウタにも一目瞭然だった。仕立てのいいジャケット、上質そうなシャツ、上品な艶が輝く革靴、そして年代物らしい腕時計には有名な高級時計会社の名が刻まれていた。どれも庶民には手の届かない、上流階級の子息が身につけていそうな品々だった。試しに一枚のシャツに袖を通してみると、コウタの体を採寸したのではないかと疑いたくなるほどぴったりと合った。鏡を覗くと、そこには知らない男が、健康的で溌剌とした知的な佇まいの男が立っていた。
スーツケースの中には衣類だけでなく、身繕いの品をまとめたポーチ、万年筆やメモ帳などの筆記用具、そして数冊の本が、ファイル同様、きっちりと几帳面に整理されて入っていた。そして、そのどれもがユウシロウの内面を反映するような、落ち着きのある趣味の良いものだった。添えられていた注意書きには、これらの荷物をひとつとして入れ替えることなく、すべて屋敷に持ち込むようにと書いてあった。
奇妙だったのは、それらが今回のために用意された新品には見えず、愛着をもって丁寧に使われている痕跡があることだった。まるで旅行者の荷物が間違えて配達されたてきたようで、コウタは他人の持ち物に許可なく触れるようなためらいを感じた。
これらの荷物を用意した人物が見せたこだわりは、コウタに戸惑いと同時に不安を抱かさせた。入念に用意された衣装と小道具の数々は、この計画をなんとしてでもコウタに遂行してほしいという執念の表れだった。三百万円という報酬は、三十日間、役を演じ切ることへの対価であり、どんなことがあっても間違えてはならないという警告でもあったのだ。
*
西洋風の白い東屋は年月の重なりを纏いながら、どこか儚げな気配を残して庭の一隅に佇んでいた。六角形の屋根からは紫色の小さな花が垂れ下り、支柱には蔦が絡んでいた。内側にはレースのカーテンが取り付けられていて、木漏れ日の中で風に揺れていた。その幻想的な姿は遠い昔に見た夢の一場面のようだった。
ユウシロウは足音を立てずに、ゆっくりと近づいていった。
コウタは送られてきた資料の中にあった一枚の写真を思い出していた。そこには二人の少年の姿が収められていた。
一人は、生き別れの双子かと思われるほどコウタにそっくりなユウシロウ。目鼻立ちや輪郭だけでなく、体つきまでもよく似ていた。だが、その身なりはずっと品があり、より利発そうで、写真からでも育ちの良さが滲み出ていた。
もう一人は、まだ十歳にもならないであろうハルツグ。白い肌に黒く長い髪、聡明さをたたえたほほえみ。少女のような見た目をしたその少年の不思議な妖艶さは、大人のコウタでもどきりとしてしまうほどの美しさだった。
写真の中にあった面影を求めて、ユウシロウは東屋に近づいた。そっとレースのカーテンをめくり上げ、中を覗いた。だがそこには誰もいなかった。中央に置かれた三人がけのハンギングチェアの上には開いたままの本があった。ほんのすこし前まで誰かがそこにいた気配がたしかに残っていた。
コウタは背後に気配を感じ、後ろを振り返ろうとした。だがその瞬間、誰かが背中を強く押した。体がふわりと前に傾き、ハンギングチェアへと倒れ込んだ。クッションの上に体が沈み込むと同時に、黒い影が覆い被さった。顔を上げ、振り返った先には、がっしりとした体格の青年があった。日焼けした肌、鋭い輪郭、そして片方の眉を上げてニヤリと笑う目にはあからさまな挑発があった。
コウタの心はざわめいた。
——これがあのハルツグ?
写真の中にいたあの美少年からは少女のような面影はすっかり消え去り、自分を見下ろして立つ青年は男らしい力強さを放っていた。堂々とした立ち姿には、優しさと乱暴さが共存するような不思議な魅力があった。
コウタはごくりと唾を飲み込んだ。
芝居は始まっていた。だがここには観客も脚本も存在しなかった。そして相手役の青年は、まるですべてを見抜いているかのように腕組みをして、こちらを見つめていた。
「……ハル……ちゃん?」ユウシロウの口から出てきたのは、とてもか細い声だった。
その声は感動的な再会となるべき場面にしてはいささか物足りないものだったが、その一言は舞台上の合図のように確実に、青年の目に懐かしさと歓喜の光を灯した。
「ユウくん‼︎」
次の瞬間には、ユウシロウは長く太い腕に抱きしめられていた。密着した胸からは、今にも破裂してしまいそうなほどの体温と鼓動が迷うことなく伝わってきた。180センチはあるだろう大きな体は、ユウシロウを抱きしめたまま震えていた。
「ああ……本当にユウくんなんだ! 俺はずっとこの日を待っていたんだ……まるで夢みたいだ!」低く太い声が耳元で震えた。それからハルツグはゆっくりと体を引き離し、その大きな手でユウシロウの肩を握りながら、もう一度しっかりと顔を見つめた。目には涙がうっすらと浮かんでいた。
そのまなざしは力強くも無防備で、その純粋さはコウタに息をするのを忘れさせるほどだった。
コウタはうろたえかけるが、なんとか自分を取り戻し、ハンギングチェアから起き上がると、ハルツグの正面に立った。
「……すっかり大人になっちゃって。体だって僕よりも大きいじゃないか……」ユウシロウは負けないくらいの純粋さで見つめ返しながら、ぎこちない手つきでハルツグの頭を撫でた。
するとハルツグは大きな体をもじもじと動かし、子供のように照れて笑った。
「ユウくんは全然変わってないね……」
その言葉にコウタは安堵し、ようやく役者としての自信を取り戻す。彼は今、舞台の真ん中にユウシロウとして立っていた。
ユウシロウは遠い日を懐かしむように目を細め、ハルツグの頬にそっと手を当てる。そして、その手をそのまま首の後ろへ回し、ハルツグの頭を自分の方へと引き寄せた。こつんと額がぶつかり、二人の顔はまばたきもできない距離にあった。
「しかも……こんな男前になって」
成長を褒めてみせると、ハルツグの顔は赤くなった。
——こんなに立派な体をしているのに、反応はまるで少年のままだ。
コウタは思わず笑ってしまいそうになった。
「本当に帰ってきてくれたんだね。嬉しいよ……」
「ああ。一カ月だけど、これまでのことをたくさん話そう」
二人はぎこちなく言葉を交わした。しかし、そのぎこちなさは不快なものではなく、むしろ、あとで楽しむためにわざと残しておくように、近づいては離れた。
その瞬間から物語は動き出す。カーテンの隙間から、陽の光が舞台の照明のように二人の頭上に降り注いでいた。
外界から隔離された世界。上流階級の青年たち。感動的な再会の瞬間。十年の時を経てふたたび動き出す二人の運命。
そしてコウタは、これが友情の物語であることを理解する。