ついて良い嘘と悪い嘘
芝生の上に寝転び、頭の後ろで腕を組んでくつろぐハルツグは、まるでファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようだった。しっかりと筋肉のついた体の上には整った顔が乗っていた。黒くて長い睫毛、すっと通った鼻筋、太くて濃い眉。記憶の中にあった可憐な少年は、コウタの想像をはるかに越えた、洗練された大人の男に成長していた。長く伸びた脚を無造作に組み、ページの折れた本を膝の上に載せたまま、上機嫌で空を眺めていた。自然体であるにもかかわらず、すべてが計算されたかのようなポーズだった。
見事な体躯の青年の横に並び、コウタは萎縮してしまいそうだった。男として勝てる要素はどこにもなかった。
白いシャツとハーフパンツのセットアップが、きれいに焼けた小麦色の肌をさらに健康的に見せていた。
「ユウくん、どうしたの?」不穏な様子を感じ取ったのか、ハルツグが不思議そうにこちらを覗き込んだ。
「いや……ハルちゃんが元気そうだから……」ユウシロウは心の中の不安を隠しながら、なんでもないように言った。「病気で伏せってるって聞いてたけど、まるで嘘みたいに元気そうじゃないか。本当に大丈夫なのかい?」そう言ってから、まるで元気なことが嬉しくないような言い方になってしまった、とコウタは後悔した。
だが、ハルツグは大きな笑い声を上げた。
「それ、じぃが言ったのか? 俺が病気だって⁉︎ それはユウくんを誘い出すための作り話だよ」
「それじゃあ、病気っていうのは……」
ハルツグは唇を細く引き上げると、目をつぶったまま、小さく首を振った。
「なんだ、そうだったのか!」ユウシロウは大きなため息とともに吐き出した。「マミヤさんも人が悪いな。ついて良い嘘と悪い嘘があるだろ……」
ユウシロウは安堵からそう言っただけだったが、ハルツグは今にも捨てられそうな子犬のような顔をして、うつむいた。
「俺が病気じゃなかったら、会いにきてくれなかったのか?」
そんなことはない、とユウシロウはすぐに否定したが、ハルツグの顔には失望の色が消えずに残った。
コウタの胸は一瞬にして締めつけられた。そして締めつけられた胸からは、本物の友愛の気持ちが溢れ出てきた。
ユウシロウは手を伸ばし、ハルツグの額に垂れた前髪の一束をやさしく耳にかけた。
「長いこと手紙も出さずにごめんね。ハルちゃんのことはずっと気になっていたんだ……」
「いいんだ。こうして会いに来てくれたんだから。それだけで俺は十分だ……」
過ぎ去った日々にぬくもりを探すようにして、ふたりは見つめ合った。
木々が風に揺れ、紫色の花びらがひとつ、ハルツグの肩に落ちた。
締めつけられてまだ痛む胸を押さえたまま、ユウシロウはその花びらをそっと摘み上げた。
ハルツグは無理やり失望を遠ざけるようにしてほほえみ、続ける。「なあ、全部聞かせてくれよ。これまでのユウくんのこと。どこで、なにをしてたんだ? 昔みたいに、俺の知らない世界の話、いっぱい聞かせてくれよ」
*
そこでコウタは送られてきた資料に書かれてあったユウシロウの年表をなぞり、すこしずつ話し始める。父親の仕事で欧州の国々を点々としてきたこと。その時々の苦労と笑い話。大学で専攻している学問について。家族の近況。どれだけ離れても度々訪れた、この屋敷とハルツグへの郷愁の思い。
ユウシロウの口から語られることのすべては、コウタにはどんな懐かしさも呼び起こさない、まったく知らない男の半生にまつわるでまかせである。コウタ自身は海外旅行はおろかパスポートさえ持っていなかった。しかしでまかせあるがゆえ、その裏にあるユウシロウが見たであろう景色を想像力で再現してみせようとした。
良い役者と悪い役者を区別するものは、どれだけ虚構に命を吹き込むことができるかであり、それは役者個人が持つ想像力に左右される。台本に書かれてある台詞を覚えるのが人より早かったり、誰よりも大きな声ですらすらと台詞を言えることは、役者の真価とはなんの関係もない。想像力という触れればすぐに破れてしまう薄い膜の積み重なりこそが、役に真実味を与えるのである。コウタはそのことをよく理解していた。
役者の持つ想像力によって、得意げになって嘘を話していると、見えない舞台の照明が自分の上に降り注いでいるのをコウタは感じる。最初は不安でもあった。ハルツグが自分の話に懐疑的になったり、突っ込んできたりしないかと心配したりもしたが、ハルツグは大げさに驚いてみせたり、先を急ぐように急かしたりはするものの、おおむね静かに耳を傾け続けていた。
調子を掴んだコウタは一層饒舌になってしゃべる。ここはユウシロウの独断場だった。相手役であり、たった一人の観客でもあるハルツグは、自分の独白を待っていた。それは言葉にしがたい快感をコウタにもたらした。
ユウシロウが自分の話を終えると、「今度は俺の番だ……」と言って、ハルツグは自分の話を始めた。そのほとんどがハルツグに関する資料と内容が一致するものだったが、ユウシロウは大げさに驚いてみせたり、先を急ぐように急かしたりしつつ、同じように静かに耳を傾け続けた。
しかしあるところで、彼の胸はふたたび締めつけられた。
「ユウくんが引っ越してから、いとこたちが頻繁に遊びに来るようになったんだ。俺が寂しい思いをしていると思った父様が呼んだんだろうな。だけど正直、いとこ達のことはあまり好きじゃないんだ。あいつらいつも偉そうにしていて、俺をなにも知らない子供みたいに扱うんだ。それってすごく失礼だろ? だから、もう来るな、って言ってやったんだ。俺は一人で本を読んでいる方がいい、って。父様は全然わかってなかったんだ。この家からほとんど出たことのない俺にとって、友達はユウくんだけだってことを」
悲しいことに、最後の言葉をハルツグがまったく悲しくなさそうに、ただ事実を述べるように言ったので、コウタは返す言葉を見つけられなかった。彼はただどぎまぎして返す。「おじさまも、それだけハルちゃんのことを思っているということだよ……」
ああ、なんと的外れな返答だろう! コウタは自分に苛立つ。彼は大切な場面で、適切な台詞を返すことができなかったのだ! ユウシロウは誠実な男だ。そして、そんな彼の誠実さが垣間見えるはずの場面で、コウタは臆病になり、ハルツグの心に寄り添うような気の利いた一言をかけてやることに失敗したのだ!
しかしそれでも舞台は進む。ハルツグは別の話題へと移り、コウタは訂正する機会を失ったまま、慌てて彼の一人舞台を追いかける。
ハルツグの話が終わる頃には、夕闇があたりを包み始めていた。ふたりの元にマミヤがやってきて、夕食の準備が整ったことを告げた。
*
ソラシマ家当主であり、ハルツグの父親であるマサツグは、夕食での会話を完全に掌握していた。立派な髭をたくわえ、軍人のような威厳を持つ大柄の男は、ユウシロウに意見をさりげなく求め、ひねりの効いた冗談を挟み、次から次へと話題を変え、大きな身振りでまわりを巻き込んだ。管弦楽団の指揮者のように情熱的に、華麗に、繊細にやってのけた。高い天井から釣り下がる重厚なシャンデリアと、十人がけの長テーブルに並ぶ真鍮の燭台の灯りに照らされたマサツグは、本物の舞台の上にいるようだった。
自分の父親よりも年長であるはずのマサツグが巧みに作り出す軽快な雰囲気にコウタは驚いた。
だがコウタを驚かせたのはそれだけではなかった。マサツグは夕食に寿司を用意させたのだが、それは寿司職人を屋敷に招き、目の前で握る形式のものだった。このような出前を知らなかったコウタは面喰らった。上流階級の夕食ということで、耳にしたこともないようなメニューが出てくるのではないか、テーブルマナーに粗相はないか、疑われるような振る舞いをしてしまうのではないか、と心配していたが、それは別の意味で無意味に終わった。
白衣を身につけた年配の職人が注文に応じて寿司を握る。マミヤがそれらを各自に配膳する。ヨーロッパの古城にあるようなダイニングルームで食べる、目の飛び出るような値段であろうネタの、目の飛び出るような旨さの寿司はなんとも奇妙なものだった。
父親の前で、ハルツグはユウシロウと二人でいた時以上におしゃべりになった。醤油で濡れた指をちゅぱちゅぱさせ、はばからずに腕白さを披露した。写真の中に見た、少女のような見た目をした聡明そうな少年の印象はとっくに消え去っていた。ハルツグは父親の複製のような手振りを交え、「ユウくんは世界中を見てきたんだって! きっと父様でも知らないようなことをいっぱい知っているんだ!」と力説した。
マサツグは腕を組みながら、感心して言う。「十年離れていただけで、ユウシロウくんがこんな立派な青年に成長するとは。それにますます男振りが上がったんじゃないか? どうだハルツグ、お前が一番よく分かるだろう?」
「うん。すごく頼れる感じになった! ねえ父様、ユウくん、めちゃくちゃかっこよくなったよね?」とハルツグは言って、ユウシロウに崇拝者の熱いまなざしを向けた。
この時もまた、コウタはユウシロウになりきることができなかった。そのまなざしの中に、ただの幼馴染以上のなにかがあるのを感じ取り、どぎまぎし、ただの幼馴染として、はにかんでみせることしかできない。さきほどの不手際が薄く伸ばした墨のようにまだ心の中に残っていた。ここでも気の利いた一言を返すことができない自分に苛立ち、テーブルの下で握りしめた拳に力を入れた。
まるで舞台の初日のようだった。台詞は頭に入っているのに、身体も心もついてこなかった。演じきれない自分。見抜かれないようにするだけで手一杯の自分。そんな焦りが、ユウシロウの笑顔を鈍らせていた。
*
食事が終わり、居間でくつろいでいると、マミヤがどこからか一冊のアルバムを持ち出してきた。金糸の刺繍が施してある茄子紺の表紙を開き、ぱらぱらとめくると、あるところで手を止め、「あぁ、ありました」と言って三人の前に広げた。
ハルツグに続いてコウタもアルバムを覗き込んだ。そこには屋敷の庭の噴水の前に立つ二人の少年たちの写真があった。ひやりとして、思わずコウタはハルツグの顔色を伺ってしまった。ハルツグの顔に怪訝な表情が浮かんでいないのを確認すると、写真に顔を近づけた。そして今一度、依頼主が自分を指名した理由に納得した。そこに写っていたユウシロウは幼い頃のコウタにそっくりで、これでは自分の母親でさえ見間違えるだろう、と思った。
十年の歳月が経ったとはいえ、この屋敷の人々がコウタのことをユウシロウであると疑わないのも当然だった。これだけ似ているという安心は、品質保証書のようにコウタの気を大きくさせた。そこでようやく彼はすこしだけユウシロウを取り戻すことに成功し、これまでよりも一歩足を前に踏み出す。「本当に懐かしいですね。ハルちゃんが乗っているこの自転車よく覚えていますよ」
「本当? これは俺のお気に入りの自転車だったからなぁ。だけど……」とハルツグは答えて、言いとどまった。
「そうでした!」とマミヤが思い出して、声を上げた。「この後、ユウシロウさまが坊ちゃまの自転車にお乗りになって、転んで、左の二の腕を切ってしまったんでしたね。急いで先生を呼んで、縫ってもらいましたが、あの時はご両親になんとお詫びすればいいかと肝を潰したものでございます……」
その言葉を聞き、コウタは無意識のうちに左腕を右手で覆い隠していた。怪我をしたことのないコウタの左の二の腕に、ユウシロウの傷跡があるはずなかった。つるんとした肌は、今ここにいる人物がユウシロウではないという決定的な証拠だった。なにか上手いことを言ってこの場を切り抜けなければと考えるが、今回もまた彼は適切な台詞を見つけることができない。その箇所をこすってごまかしながら、ばつ悪く、にやりとする。
そんなコウタに助け船を出すように、ハルツグは安堵した口調で言う。「だけど、傷跡は残らなかったみたいだね! まるで怪我なんてなかったみたいにきれいだ!」
「……そうなんだよ」ユウシロウは力なく答えた。
するとマサツグが、「本当だな! よほど先生の腕がよかったのだろうか」と顎鬚を触りながら、感心して言った。
マサツグもハルツグもマミヤも、ユウシロウのことを疑念の目で見ている様子はなかった。もちろんそれは喜ぶべきことであり、安堵もしたのだが、同時にコウタの心中は複雑だった。ユウシロウだけが唯一の友人であるとハルツグが言った時。崇拝者のまなざしをハルツグが向けた時。傷跡を指摘された時。肝心な場面において、コウタは気の利いた台詞を返すのではなく、ただの笑顔、それも途方にくれた結果の笑顔で応じることしかできなかった。それが役者として一番安易な逃げ道であると理解していたからこそ、彼はいっそう自分に苛立った。
*
ゆうに2メートルはある黒檀のホールクロックが二十一時を告げた。屋敷の中に響いたその音は、まるで舞台の幕間の鐘のように、今日という芝居の一区切りを知らせているかのようだった。
「そろそろ部屋で休みなさい、ユウシロウくん」マサツグはやさしくもはっきりとした口調で勧めた。
「まだいいじゃないか」とハルツグは引き留めた。だが、まだ時間はたっぷりある、と父親に諭されると、子供のように唇を尖らせて、渋々うなずいた。
マサツグはユウシロウの両肩に手を置き、左右の頬に一回ずつフランス式のキスをしてから、足りない物があればなんでもマミヤに頼むよう言った。ユウシロウは温かい歓迎にもう一度感謝の気持ちを述べると、ハルツグにもフランス式のキスをして、「おやすみなさい」と西棟の二階にある客間へと引き上げた。
ユウシロウにあてがわれた客間は由緒正しいホテルのスイートルームのようで、部屋続きになっている専用の浴室だけでもコウタの住むアパートよりも広かった。部屋には、普段寝ているベッドの倍はありそうな大きさのベッド、マホガニーのワードローブとライティングデスク、その傍らに読書用のランプと肘掛け椅子があった。内装に華美な装飾はないものの、見るからにアンティークであるひとつひとつの家具が芸術作品のように光を放っていた。
コウタは汗の滲んだシャツを脱ぎ捨てると、その勢いのままスーツケースの荷解きを始めた。衣類はワードローブにしまい、靴は部屋の扉の脇に並べ、本や細々としたものはデスクの上に置いた。几帳面なユウシロウらしく、すこしの乱れもないように注意してそれらを配置した。
荷解きが終わると、ベッドの縁に腰を下ろし、革靴と靴下を脱いで素足になった。シャワーを浴びるつもりだったが、するすると胸の奥から重たいものが抜けていく感覚がして、とたんに背中からベッドへと倒れ込んだ。ふかふかな掛け布団の上で大の字になり、天井を見上げながら、コウタは大きく息を吐いた。
初日をなんとか乗り切ったことに胸を撫で下ろしたが、すぐに今日の演技の出来の悪さが脳裏をかすめた。替え玉を疑われることなく一日を終えたことは、それだけで大成功のはずだった。屋敷の住人たちはコウタのことをユウシロウだと信じ切っていた。だが、コウタ自身がまだユウシロウであることを信じられていなかった。トウヤマ・コウタという人物が皮膚の下でまだ息をしていた。
この舞台では、ほんのわずかな間違いも命取りとなる。一歩でも踏み外せば、あとは真っ逆さま、奈落の底に落ちていくだけだった。
——今日は幸運にも足を踏み外さずにすんだが、明日も大丈夫だという保証はどこにもない。こんな未熟な、その場しのぎの演技では、一カ月を乗り越えることなんて到底できるはずがない。心からユウシロウになれなければ……明日こそ、完璧にやってみせる……
そう心の中でつぶやいたはずの声は、すでに夢の中へと沈み始めていた。
*
コウタが目を覚ましたとき、鎧戸もカーテンも閉めていない窓の向こうからまっすぐに朝陽が入り込んでいた。天井の繊細な装飾を眺めながら、ここはどこなのだろうか、と自問した。部屋の外で柱時計が鳴った。ぼーんぼーんと繰り返される鐘の音と共に、コウタの意識ははっきりしていった。九回目の鐘が鳴り終わると、部屋はふたたび静寂で満たされた。
「……しまった……」
つぶやいた声はふかふかの枕に吸い込まれていった。十二時間近くも眠ってしまったことに気がつくと、体が勝手に飛び起きた。
バスルームに駆け込むと、急いでシャワーを浴び、全身から昨日の疲労を洗い流した。バスローブに身を包み、髪を乾かすと、ワードローブを開け、さてなにを着るべきか、とコウタは悩む。
再会の場面の衣装だけは指定があったが、これからは持ち込んだ衣装の中から自分で選ばなくてはならなかった。コウタは着る物にあまりこだわりがなかったが、今ここにいるのはホシザワ・ユウシロウという男で、彼は裕福な家庭に育ち、教養と品性と洗練された趣向を備えた男だ。懐かしい屋敷に帰ってきて心もくつろいでいるはずだ、とコウタは考え、薄緑色のポロシャツとチェック柄のショートパンツを選んだ。靴は硬い革靴から柔らかいスエードの物へ履き替えた。時間を気にしないようにと、あえて腕時計は外した。
昨日よりもリラックスしているがユウシロウらしい品を保つ装いに、コウタは鏡の前で襟元を整えながら小さくつぶやく。「今日は大丈夫だ、ユウシロウ」
深呼吸をひとつして、ユウシロウは部屋を出た。屋敷の中は静まり返っていて、長い廊下には足音が吸い込まれていくようだった。ゆるやかにカーブを描く大階段を一階へと下りると、ダイニングルームとは反対側の廊下から軽やかな笑い声が聞こえてきた。
それはハルツグの声だった。
その声には、昨日聞いたものとは違う、甘く幼い響きがあった。それはなぜだか胸を奥ざわつかせる響きを含んでいた。
——なにをしているのだろう?
気がつけば、好奇心が音のする方へと足を向かわせていた。
笑い声は白い扉の向こうから聞こえてきた。ユウシロウは扉の前で立ち止まり、10センチほど開かれた隙間へとゆっくりと耳を近づけた。ハルツグの笑い声に混じって、ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音が聞こえた。
コウタは一瞬ためらったが、好奇心と見知らぬ不安に突き動かされるように、そっと扉の隙間から中をのぞいた。
そこは床も壁も真っ白なタイルで敷き詰められた、まるで病院のように無機質なバスルームだった。だが、天井近くの細長い窓から射し込む朝の光が、その空間に一種の神聖さを与えていた。光はゆるやかに拡散し、時折、壁面を銀色にきらめかせた。
バスルームの中央には猫足のバスタブがあり、その中には泡に埋もれた裸のハルツグの姿があった。目を閉じ、頬をゆるませ、まるで幼子のように楽しんでいた。その髪を、背の低い椅子に座ったマサツグが丁寧に洗っていた。父親は無言のまま、分厚い掌で息子の頭を撫でるように洗っていた。その動きは慈愛にも似た静けさを帯びていたが、同時に、背徳の儀式のようでもあった。青年と呼ぶには十分な年齢に達したハルツグが、父親に髪を洗われ、目をつぶって子供のように笑っていた。その無防備な姿を父親は愛しくてたまらなそうに見つめていた。そこには羞恥も距離も存在していなかった。親子の愛情は日常と禁忌の境界線を跨いでいた。
——見てはいけない!
直感が背中をぞくりと駆け抜け、コウタは咄嗟に身を引いた。音を立てないよう、息を殺し、一歩後ずさりした。
扉の向こうからは、水の音と笑い声が遠く、歪んで聞こえた。
コウタはなにも見なかったように踵を返し、大階段の前へと戻った。
——この親子は普通じゃない!
それはコウタには耐え難い光景だった。ほんの一瞬目にしただけだったが、それでも異様さを理解するには十分だった。甘やかしとも支配とも違う、狂信的な愛情で父親と息子は繋がっていた。




