銀盤踝 16
「ほわぁ! ほわぁ……ほわぁぁぁっ」
しばらく前から、まるで山鳩のように、ほわほわ、と鳴き続けていたサクラであったが、世界樹の間近に着陸してからは。
(まさか、魂が抜けでもしたのか? )
御用猫が不安になる程の有様で、くるぶしを胸に、口を開閉させるのみなのだ。
「これは、何とも……上空からも、もしや、とは思っていたのですが」
銀色に輝く湖の表面を、こつこつ、と拳で鳴らしながら、リチャード少年も、困惑する他は無いようだ。
大きく深呼吸して、御用猫は見上げるのだ。目の前の大樹を、世界樹とも呼ばれる、最古の植物。
外観は、樫の樹に似ているだろうか、ここまで近づいてしまえば、目測も及ばぬ巨大さであったが、ホノクラちゃんの話では、高さは千メートル、幹周りは二百メートルを超えるのだとか。
「どうにも、今回の旅は、驚かされてばかりだな」
ぐい、と歩みを進め、御用猫は、銀色の湖面に立ち上がるのだ。北の生まれである御用猫だが、凍結した湖で遊んだ経験はない。
(話には聞いていたが、ふふ、なる程、こういったものであったか)
御用猫は、我知らず、頬を緩ませながら、つるつる、と、足元の安定し無い湖面で、均衡を取ろうと、手を伸ばす。
「ホノクラちゃんよ、ひょっとして、この固まった湖のようなものが、これ自体が、森の銀、という事なのか? 」
彼の声に、今まで惚けていたサクラが、眼の焦点をあわせてくる。
「半分、正解、かな? 森の銀とはね、世界樹の、樹液なのさ」
するする、と、銀盤の上を滑りながら、ホノクラちゃんは両手を掲げる。
この、天を衝く巨大な樹木は、銀色に輝く湖から、生えていたのだ。なんたる光景であろうか、これは、流石の御用猫も、生涯一の絶景だと、認めざるを得ない。
「だけど、この湖の銀は、もう、変質してしまっているからね、森の銀として加工出来るのは……もう、分かったかな? 」
「なるほど、採れたての樹液でなければ、駄目って事か」
御用猫は、チャムパグンを米俵のように担ぐと、サクラの手を引き、ホノクラちゃんの後を追う。後ろでは、ぶるぶる、と震えながら付いてくるローエと、リチャードに縋り付くイリヤラインの姿も見える、森エルフである彼らにとっても、これ程の体験、二度と無い事であるだろう、てんてん丸が現れてから、こちら、何やら畏るばかりで、二人とも非常に無口であるのだ。
もっとも、片方は、演技であろうが。
森エルフと言えど、女とは恐ろしいものである。
何となく、その様な事を考えていたのも、御用猫の脳が、正常な、はたらき、を、半ば放棄していた為なのだろう。
ふわふわ、と、辺りを照らす祖霊の輝きが、次第に、皆に纏わり付き始めた。
近くに浮かぶ蛍火を指に乗せ、戯れに、御用猫が息を吹きかけると、まるで先導するかの様に、てろてろ、と進み始める。
導かれるままに、彼らは、世界樹に近付き、ぐるり、と、その巨大な幹を一周するのだが。
「……ふん、無いな」
「若先生、少し、登ってみてはどうでしょうか? 」
相談を始めた二人を、青い顔で眺めるサクラである。足元の湖を見て、少しばかり、楽観視してしまったのだろう。確かに、この、巨大な湖が、全て、森の銀だというのならば、案外大量に採取出来るものだと考えても、仕方ないであろうか。
そんなはずは無いのだ、森の銀が、売買もされぬ程に、価値があるのは、単純に、希少価値が高いから、なのだから。
この湖とて、千年やそこらで生まれたものでは無い、何万年、何十万年、世界樹が、世界樹たる証、ここで生まれ、今まで、ずっと、森を見守ってきた証なのである。
「やめておきたまえ、無駄足に終わるよ……森の銀は、枝葉で集めた魔力を、根まで降ろす過程で精製されるものだからね、そうして、少しづつ、滲み出し、足元を固め、支え、自らの体も、強化するのさ、どうだい、とても見事な、美しいものだろう」
「……その通りだ、人間よ、理解したのなら、疾く、後ろを向くが良い」
突如として、湖に響いた声であったが、サクラと森エルフ以外は、平然とした様子である。向こうも、本気で気配を隠す気は無かったのだろう、先程から、御用猫には、感じ取れていたのだ。しかし、殺意も、敵意も、感じられない。
「おや、戦士長かい、久し振り」
「傍観者よ、これは、まだ、許される勝手である、許そう、疾く、立ち去れ」
戦士長と呼ばれた黒エルフは、長い髪を三つ編みにした、背の高い男であった、普段は、柔和な顔つきなのだろうが、今は機嫌が悪そうだ、細い目を更に絞り、背後に控える四人の戦士に、指の動きだけで、何やら指示を出している。
「若先生、全員、かなりの、遣い手です」
額に汗を浮かべた少年が、ごくり、と唾を飲み込む。彼とて、黒エルフの伝説は知っている、百年前のいくさでは、黒エルフの戦士ひとり相手取るのに、呪い師二人と、騎士二十人を必要としたのだとか。
確かに、黒雀を見れば、納得のゆく戦闘力であろうか。彼らが人から恐れられ、そして、排斥されたのも、ある意味、当然だと言える。
人は、弱いのだから。
「ご、ゴヨウさん……」
きゅう、と御用猫の裾を掴むサクラは、まさに、それだ。
人は、あまりに弱く。
「……私は、この子を、助けたいのです、どうあっても、助けたいのです、ですが、一人では、無理なのです……だから、ゴヨウさん、お願いします、手伝ってください、この通りです」
そして、それを認める強さがあるのだ。
「なんだ、今回は、甘えないのか? 」
少し、意地悪そうな笑いを見せる御用猫に。
「責任は、甘えでとるものでは、ありませんから」
きっぱり、と言い切ったサクラは、普段どおりの、真っ直ぐな目を取り戻していたのだ。
初めて、くるぶしを手放したサクラは、それをホノクラちゃんに押し付け、リチャードから、彼女愛用の打刀を、肩下げベルトごと奪い取る。
「私の名は、サクラ マイヨハルト! まことに申し訳ありませんが、ここからは、一歩も、引く気は、ありませんから! 」
胸をそらした彼女は、黒エルフの戦士長に、そう、宣言するのだ。
「それは、聖地を荒らす害意だと、受け取れる、訂正は可能、まだ、可能だ」
三つ編みの戦士長は、細い目を、少し開き、その瞳から、遠慮なく不機嫌さを漏らし始める。
御用猫は、再び言葉を重ねようとした、サクラの襟首を掴んで退がらせると、代わりに前に進みでる。
この、幻想的な聖地を、彼は、いたく気に入ってしまったのだ。この美しさに、血の匂いは、まるで、似つかわしくないであろう。
手近な所を漂う蛍火を、ゆっくりとした動作で、遊ぶように、追い回しながら、声をあげる。
「争うつもりはない、親愛なる、森の友人達よ! 」
野良猫の武器は、何も、牙と爪ばかりでは無いのだ、御用猫は両手を広げ、些か、わざとらしい仕草で視線を集める。
こういった時は、大仰なほど効果があるのだ。
一瞬にして、真面目な表情を作り出した御用猫を横目で眺め、くつくつ、と、愉しげに、そう、愉しげに、ホノクラちゃんは笑うのだった。




