銀盤踝 8
サクラ マイヨハルトは、すこぶる機嫌が悪かった。
もっと正確に言うならば、自分に対して、腹を立てていたのだ。
奥森へと辿り着いたのち、地面にシートを広げ、休憩中の彼らであったが、依然として、御用猫と少女の冷戦は、継続中であったのだ。
「サクラよ、ほら、チーズをお食べ、マルティエの手ずからに熟成させたチーズだ、なかなか、口にする事の出来ぬものだよ? 」
「ゴヨウさんとは、お話しないと、言ったはずです」
また、である。サクラは、内心、ほぞを噛んだ。
自分でも分かっているだけに、どうにも、歯痒いのである。先ほどの一件は、誰のせいでもあるまい、彼は、自分の身を案じて、真っ先に飛び込んで来てくれたのだ。感謝こそすれ、それを責めるなどと、道理が通らないであろう。
(ですが、それは、それ、これは、これ、です)
乙女の柔肌を、男性の目に晒してしまったのだ。サクラとて年頃の少女に違いない、いや、むしろ、人より多分に、夢見がちなところさえある。
今、彼女の心の内で、もう、許してあげよう、と言う気持ちと、激しくせめぎ合っているのは、しかし、裸を見られた怒りや気恥かしさでは無く。
(なんで、照れたり、こ、興奮、とか? しないのですか! まるで、幼子を水浴びでもさせた、父親の様ではありませんか! 信じられません、あぁ、そういえば、幼子が好みでしたか! 信じられません、信じられません! )
腕を組んで、ぷりぷり、と、頬を膨らませる少女の周りを、銀色の毛玉が走り回る。なっふなっふ、と、何か、しゃんとしない鳴き声は、あの、伝説の魔獣とは、到底思えぬ貫禄の無さでは無いか。
毛玉の正体は、月狼であった。
まだ、産まれて一年も経たぬ子狼であろう、顔から足先まで、丸々とした体つきは、柴犬の色違いと言われても信じてしまうかも知れない。
何かあって、群れからはぐれてしまったのかと、あの後、チャムパグンの呪いで親を捜索させたのだが、近くに仲間の居る様子も無い、おそらくは、既に仲間から、見捨てられてしまったのか、もしくは密猟者に、親を殺されてしまった可能性もあるだろう。
魔力を蓄えられぬ、今の月狼の牙に、それ程の価値は無いのだが、毛皮や牙は、未だに売れるのだ。むしろ、騙して売り付ける分には、捕獲の容易い今の月狼の方が、密猟者達にとっては、有難い存在とも言えるだろう。
どことなく、やり切れぬ想いを、御用猫は、溜め息に変えて短く吐き出す。
少しばかり奥森に入った所、街道の終わりで、現在休憩中の彼らである、ここで待てば、エルフの案内人が現れる段取りなのだ。
少し開けた空き地には、商人達が使うのであろうか、雨避けの小屋と車庫が建てられ、自由に使えるようになっている。ここに、森エルフの世話役を置く話もあったのだが、彼らは、森の暮らしに必要の無い、新しい役割を作る事を嫌って、現在のような取次ぎ方が定められていたのだ。
「ところでな、サクラよ」
「……何ですか、話す事はありませんが」
じっとり、とした視線を御用猫に向け、少女が普段なら考えられぬ程の短い返事を返す。そうは言っても、無視などしないあたりが、やはり彼女らしい、と御用猫は心の内にだけ、笑顔を作る。
「そのな、毛玉だが、どうするつもりだ? まさか、持って帰って、飼う、なんて言うんじゃあるまいな」
「……いけませんか? この子は、親とはぐれてしまったのでしょう、ひとりにするのは、可哀想です」
なっふなっふ、と尾を振り、毛玉はサクラに甘えてくるのだ。一体、何故、と御用猫は考えていたのだが、どうやら、サクラの身に着けていた月狼の牙が原因であったのだろう。
せっかく、エルフの里に行くのだからと、以前に御用猫が贈った首飾りを、矢絣の下に着けていたらしい。
全く、子供のようなはしゃぎっぷりである。リチャードに言われて気付いた事であったが、確かに、そう考えれば、仲間とはぐれた子狼が、サクラを襲ったのも、納得の出来る話ではあろうか。
しかし、御用猫は迷っていた、捨て犬を拾うのとは訳が違うのだ。月狼を持ち帰るならば、森エルフと、クロスロードにも、許可を得ねば、密猟者扱いされてしまうであろう。そもそも、畜生とはいえ、その命を預かろうというのだ、サクラに、どれ程の覚悟があるというのか。
「サクラよ、お前は、捨て猫捨て犬、その全て、これから拾い続けるとでも言うのか? 見た目が可愛いからと、軽々しく、口にしているのでは、ないだろうな? 」
思わぬ御用猫の鋭い視線に、少したじろぎながらも、サクラは毛玉を抱えて答えを返す。
「それは……でも、そんなの、この子を、放ってはおけません、ちゃんと世話もします、私が、責任を持って」
「責任だと? お前がか? そいつは月狼だ、犬ころとは訳が違うぞ、何を食うのか、どうやって生きるのか、お前に分かるのか? それに、今はそんな形りだが、でかくなるぞ、暴れたらどうする? 近所の餓鬼なぞ、ひと噛みであの世行きだ、どうする、責任が取れるのか、お前に? 」
御用猫が一気に畳み掛けると、流石のサクラも、下を向くのだ、言われた事は、確かに正論である、彼女は小さな唇を噛み、何事かに堪えるよう、ぷるぷる、と震え、でも、でも、と繰り返すばかりである。
「若先生、差し出がましいようですが、僕からもお願いします、世話も手伝いますし、月狼の生態ならば、本で読んだ事もあります、森エルフの方に聞けば、詳しく教わる事も出来るでしょう、もちろん、躾もきちんとします、若先生のお話では、以前の月狼とは違うそうですが、それでも知能は高いかと、小さな頃から、きちんと覚えさせれば」
「分かった、分かったよ、もう良い、はぁ、リチャード、その代わり、お前も連帯責任だぞ? ……まぁ、三人ならば、何とかなるだろう」
その言葉に、はっ、と、サクラは顔を上げる。御用猫は、確かに、三人、と言ったのだ。
じわり、と、瞳を潤ませ、次の瞬間には、彼女は飛び付いてきた。
「ありがとう、ゴヨウさん! リチャードも、ありがとう、私、ちゃんと面倒をみますから! 」
「よしよし、約束だぞ? ならば、面倒な話は、つけておいてやるから、サクラは、こいつに名前でも付けてやれ」
少女の馬尾の下を撫でながら、御用猫はリチャードに視線を向ける。彼の方も、実に朗らかな笑顔を浮かべて、言葉に代えるのだ。
ぐりぐり、と、御用猫の胸に頬を押し付けていたサクラであったが、突然に、がば、と身を起こす。
「くるぶし」
「ん? 」
御用猫は、自分の足を眺める、何か、塵でも付いていたかと。
「最初に、この子が舐めてきましたから、そうしましょう、よし! お前は、今日から、くるぶし、ですよ」
毛玉改め、くるぶしを抱え上げたサクラは、ふんこふんこ、と鼻息も荒く、大層自慢気であったのだが。
御用猫とリチャードは、申し合わせたかのように、互いを見つめると、名付けの終わった月狼に視線を送る。
なっふ。
どこか、切なそうな鳴き声は、しかし、飼い主の耳には、届かない様子であるのだった。




