銀盤踝 5
サクラ マイヨハルトは、すこぶる機嫌が悪かった。
あれ程、楽しみにしていた森エルフの里への旅行であったし、気候も良いのだが、彼女の眉間には、縦に皺が寄ったままなのだ。
秋も終わりに近づき、朝方夕方には冷え込む季節であるが、日中は未だに汗をかく事も多い、しかし、森エルフの領域を進む今は、大規模な呪いで調整された、涼しげな空気に包まれている。
「サクラさんや、そろそろ、機嫌を直してはどうだね? 」
「嫌です、ゴヨウさんとは、暫く、口を利きたくもありません! 」
銀色の毛玉を胸に抱え、御者台に座る少女は、荷台からの声にそっぽを向く。
(きいてるじゃねーか)
溜め息を吐いた御用猫は、ごろりと稲藁の盛られた荷台に転がり、そこへ、おもむろに手を突っ込むと、中に眠るエルフの腹を揉みしだく。
サクラのご機嫌取りは、リチャード達に任せるしかないだろうか、ロシナン子の遅い歩みで、四日間旅をしたのだが、エルフの集落までは、今暫くかかる。
(サクラの気持ちも、分からなくはないが、とりあえずは、放置するしかないな、あの、毛玉にも期待しよう)
両手を突っ込み、卑しい抱き枕を掘り出すと、それにしがみついて目を閉じる。
その様子に気付き、また、何事か文句を言い始めたサクラであったが、御用猫は、耳を塞ぎ、藁布団の中へ退避するのだ。
これ程に、彼女がへそを曲げたのには、当然理由があるのだが、その原因は不幸な事故の連続であり、御用猫は、それを、最初から思い出していた。クロスロードに戻ったならば、自分の無実を証明し、彼を囲むであろう悪鬼達から、逃げ果せねば、ならないのだから。
当初、すこぶる上機嫌で、朝早くから起き出したサクラは、手早く身支度を整え、御用猫の布団からみつばちを追い出すと、いつまでも抵抗する、だらしのない兄を引き摺り出し、裸に剥いてお湯で拭いた。
なかなか、素質があります、と、真顔で褒めるみつばちを追い出し、下を脱ごうとした御用猫の背中に手形を付け、田ノ上老に挨拶もそこそこ、意気揚々とロシナン子に乗り込んだのだ。
まだまだ、ご機嫌なサクラは、ラバ車に揺られながら、最近、クロスロードで人気の「花吹団」とかいう、少女集団の流行り歌を口ずさむ。
「ほう、結構、さま、になってるな、歌手芸妓でも、やっていけるぞ」
「当然です、リリアドネ様ほどではありませんが、これでも、歌には自信があります、学園にまで勧誘が来た事もあるのですよ、もっとも、舞台の上で歌って踊る、などと、はしたない真似は、興味もありませんでしたし、そもそも、あんな、破廉恥な衣装、誰の好き好みなのかは知りませんがあわっ」
薄い胸を前に突き出し、自慢げに背を逸らす彼女は、突然、ぐい、と背後から引っ張られ、荷台に引き落とされる。
「なんて事をするんですか! 藁が敷いてあったから良かったものの……あれ、何ですかこれ、すごい、あったかい! 柔らかい! 」
「どうだね、これが、おチャムさんの開発した「荷台天国」の呪いだ」
ずぼり、と稲藁の中から、チャムパグンを取り出す。いつの間について来たものか、この卑しいエルフは、季節感のない、だぼだぼのシャツから両肩を露わにし、涎を垂らして夢の中である。
「……ちょっとだけ、興味があります、詰めてもらって、良いですか? 」
ぐいぐい、と、御用猫とチャムの間に割り込むと、ほわぁ、ほわぁ、と、感嘆の鳴き声をあげ、暫く、はしゃいでいたのだが、それも束の間、今度は、すやすや、と寝息を立て始める。
「全く、困った奴だ、おそらく、昨日も、あまり寝てないんだろうな」
「サクラは、まだまだ子供ですから」
あの騒ぎにも視線を変えず、真面目に手綱を握る、御者台のリチャードである、サクラとは、大して変わらぬ歳であるはずなのだが、どうしてこうも、違いが出るのか。
「悪いな、後で休憩するから、その時に交代するか」
「いえ、お気になさらず、乗馬も好きですが、馬車、いえ、ラバ車でしたか、しかし、これというのも、なかなか、楽しいものです」
何が楽しいのかは分からないが、こういった時に、嘘で気を遣う少年ではない、おそらく、本当に楽しんでいるのだろう。
ならば、ひと眠りさせてもらおうかと、御用猫も横になる、彼とて、昨夜は夜更かししていたのだ、こうなれば、急速に睡魔がやってくる、もう、この藁布団の魔力に抗うのは、難しいであろう。
いつもの様に、卑しくも抱き心地の良い、卑しいエルフを引き寄せ、あちこち揉みしだきながら眠りにつこうとした刹那、御用猫は気付いたのだ。
隣に居るのが誰であったかに。
はっと、目を剥き、意識の晴れた御用猫と、同じく目を開いた彼女の視線が交錯する。
長い沈黙は、好機である、サクラが状況を把握できぬ内に、こちらから切り出すのだ、これは、唯の寝返りであり、やましい気持ちは無かったと、そもそも、彼女から、狭い荷台に潜り込んできたのだ、その辺りを突けば、彼女は負い目を感じるであろう、そうなれば後は、けむに巻いてしまえるだろう、生命の危機からは、逃れられるはずだ。
(ひとまず、落ち着け、告げ口されるのだけは、避けねばならぬ)
そうしたときは、この、卑しいエルフを揉みしだくのだ、御用猫は、最近、この柔らかくも弾力のある触感に、中毒気味なのである。
(そうだ、この、固い胸を触れば、自然と落ち着い……固い、だと? )
「ひっ」
「よし分かった、落ち着けサクラ、これは、そうだ、揉みたかったんだ、他意はない」
混乱した御用猫は、必要最小限に切り取った言葉を放つのだが、切り取る位置が、どうにも悪かったようだ。
「ひぃゃあぁぁぁっ! 」
がたごと、とラバ車に揺られながら、御用猫は荷台に正座する。
かれこれ、二時間はこうしているのだ、そろそろ足も限界に近いのだが、目の前の少女の怒りは収まらない。このぶんでは、今日一日、下手をすれば明日もこの調子であろうか。
思わず溜め息を吐き、それを見咎められて、さらに説教が重ねられる。
もう、これも、何度となく繰り返されていたのだが、御用猫は、まだ知らないのだ。
これが、序曲である事に。




