無情剣 面の皮 4
野良猫の朝は早い。と、いうほどの事も無いのだが、御用猫は、決して朝に弱い人間ではないのだ。
しかし、彼は学習する男であった。心地よい眠りから、意識を取り戻した瞬間に。
(まだ、降りない方がいい気がする)
野生の危機察知能力は、御用猫の脳内で警鐘を鳴らし続けるのだ。
「おきた、先生、おきる」
ぺしぺし、と、彼の胸板を叩くのは黒雀か、何時もは寝起きの悪いこの暗殺者が、いったい、今日はどういった風の吹き回しだというのか。
「顔洗って、ごはん、と、はみがき」
「ぐっ」
なんたる、お利口さんであろうか、先日までは口煩く言って聞かせた手前、このまま偽りの惰眠を貪る訳にもいかぬであろう。
「えぇい、無駄に愛い奴め、でも、とりあえず、起きたら服を着る習慣も身につけなさい」
黒雀に、頭からワンピースを被せると、御用猫は、そろりそろり、と階段を降りる。
「おはよう、今日も良い朝だな」
満面の笑みを見せるのは、リリィアドーネだった、この苦行は、まだまだ続くのであろう。
「旨そうな、卵焼き? だな」
随分と時間をかけて出した答えであったが、どうやら正解であったようだ。
「うん、まだ、形は悪いけど、味は大丈夫だから」
ちら、と、厨房に目を向けたのだが、今日は逸らされる事はなかった。どうやら、まともな食い物ではあるようだ。黒雀も隣で席に着いた、これは、ひとまず安心しても良いだろう。
焼いたメザシと味噌汁も、まず、素人だとて失敗するような献立ではあるまい、御用猫は手を合わせ、かき混ぜたように、もこもこ、とした卵焼きに箸をつける。
「……ど、どうだ? 」
期待と不安の入り混じった顔を見せるリリィアドーネを、御用猫はじっ、と見つめた後、おもむろに立ち上がって、きつく抱き締めた。
「ぴっ! 」
鶏を絞ったような声をあげる彼女の頭を撫でながら、御用猫は、耳元で、たっぷりと愛を囁くのだ。
(けして、美味くはない、だが、これ程の卵焼き、今までに、食った事が、あっただろうか)
安心して口に出来る料理とは、これほどに、有り難いものだったのか、御用猫は、心中で、世界中、全ての料理人に、感謝の意を表す。
「あぁ、リリィ、これが朝飯で助かったな、もし、晩飯だったなら、そのまま、押し倒してるところだよ」
既に、彼の言葉も耳に入らぬのだろう、固まってしまったリリィアドーネを座らせると、御用猫は、特に美味くもない食事を、笑顔で腹に納めてしまったのだ。
「今日も、来ないね」
食後の歯磨きを終えた御用猫の耳に、ミザリの声が入ってくる、これは、トウタの事であろうか。
あれ程に真面目であった、棒手振り少年であるが、今日も、その笑顔を見せる事は無さそうだ。
「そうね、悪いけど、ミザリ、何か、お魚を仕入れてきて頂戴」
この時間に市場に向かっても、なかなか、良い物は手に入らない、マルティエの腕ならば、どうとでも工夫はするだろうが、刺身と清酒の組み合わせが、至高と考える御用猫にとっては、やはり、寂しくもあるのだ。
とりあえず、今日はいのやへ向かい、あの岩飛び野郎を探させよう、と、御用猫は考え、 立ち上がる。
「リリィも、そろそろ起きろよ、遅刻するぞ」
乱暴に肩を揺するのだが、彼女は、へらり、と頬を緩めるばかりで、まともな反応は返ってこない。
(まぁ、たまには、怒られてみるのも良いだろうか)
マルティエに後を任せ、店を出る、流石にこの時間は、クロスロードとて、人通りは少ない。少し肌寒いと感じた御用猫はジャケットの前を閉める。
黒雀にも聞いてみたのだが、どうやら、彼女は、そういった温度の変化には、耐性があるようだ。どうせ呪いの力ではあろうが、羨ましくはある。
(やはり、一度、ホノクラちゃんに会いに行くべきか)
のんびりと考えながら歩く御用猫の手を、くいくい、と、不意に、黒雀が引いた、何事であろうか。
「ん、どうした、腹でも減ったのか」
彼女は、小さな体の割に、燃費が悪い、あの卵焼き紛いの料理では、満足出来なかったのだろう。
しかし、黒雀は一点を見つめたまま、すんすん、と、小さな鼻をひくつかせる。
「匂い、血の」
裏通りからであろうか、言われてみれば、小さく剣戟の音が聞こえる気もするのだ。
少々面倒ではあるが、野良猫の縄張り内で、暴れる余所者を許す訳にもいかぬだろう、御用猫は、井上真改二の鯉口を切ると、滑るように駆け出したのだった。
いざ、喧騒に近づいてみれば、それ、は終わりを迎えるところであった。
三人の男が、地面を血で濡らしている。どれも屈強な、唯のやくざとは思えぬ連中で、今も戦う最後の一人も、素人ではあるまい、どこかで、ちゃんとした剣術を学んだ動きであった。
それとは対照的に、跳ね回る少年の剣は、天衣無縫とでもいうのか、型もなく、定石もない、自由な剣。
(あの餓鬼は、昨日の)
脇差し一本を握り締め、男の周りを、ぐるぐる、と回りながら、全身を斬り刻んでゆく。
「おい、何してる」
御用猫のかけた声に気付いたのか、男が悲鳴に近い声で、助けを求めてきた。
「た、助けてくれ、こいつ」
最後まで言うことは叶わず、恐怖と苦悶に歪めた表情のまま、背中に脇差しを生やした男が、うつ伏せに倒れる。
「……何のつもりだ? 」
御用猫は、少し腰を落とす。
「見てわかんないのかよ、アンタも賞金稼ぎなんだろ? 御用猫の先生」
そうではない、昨日のやり取りで、この少年が賞金稼ぎだという事は、およそ理解していた、ならば、この四人も、御用猫の知らぬ顔だが、少額の首では、あるのだろう。
だが、そうではないのだ。
「お前、遊んでたな? 殺しで遊ぶ奴は、気にいらないな」
御用猫は、険しい表情をしていたのだろう、しかし、目の前の少年は、臆することもなく、むしろ、屈託の無い笑顔を見せたのだ。
「あぁ、それな、わざ、だよ、賞金稼ぎの技だ、こうすれば、仲間が助けに集まって来る事があるんだよ」
すげーだろ、と、自慢げな少年は、死体で脇差しを拭くと、男達の懐を、まさぐり始めた。
「おい、死体からでも、窃盗は指切りだぞ」
「はぁ? 固いこと言うなよ、どうせ騎士にちょろまかされるんだ、一緒だろ」
まぁ、それも事実ではあろうが、御用猫の好みでは無いのだ。
とはいえ、わざわざ告げ口して、この少年の指を取ろうとも思わない。
少し、陰鬱な気分になった御用猫は、惨状に背を向けると、いつの間にか現れた、黒雀の頭を撫でる。
「先生」
「ん、なんだ? 」
頭を撫でられ、気持ち良さそうに目を窄める黒雀は。
「あれ、殺しても良い? 」
その、可愛らしい唇から、何とも物騒な言葉を漏らした。
「思った事を、直ぐに口にするんじゃありません、サクラや、みつばちみたいになるぞ? 」
御用猫が、人差し指を立てて注意すると。
「……それは、いや」
黒雀は、再び御用猫の手を握ると、ぶんぶん、と振りながら、歩きだす。
なんとも、素直なのか、異常なのか分からぬ娘ではあるのだが、我ながら、少し慣れてきただろうかと、御用猫は、口元を綻ばせたのだった。




