無情剣 面の皮 2
力無く、テーブルに突っ伏す御用猫の耳に、ことり、と、何かの置かれる音が入ってきた。
気怠げに、のろのろ、と身体を起こし、気泡の入った白いグラスを持ち上げる。
「あはは……ご苦労さまでした」
なんとも言えぬ表情のマルティエが、愛想笑いを浮かべる。かねがね、彼女が独身であったなら、手をつけるのに、と考えていたほどの御用猫であったが、今回の一件で、その評価は大きく下がったことだろう。
「マルティエよ、あのさ、マルティエよ、もう少し、なんとか、ならなかったのか」
「ええと、その、どうせならね、料理を好きになって欲しくて」
むう、と、御用猫は唸る。好きこそ物の上手なれ、というやつだろうか。確かに、子供が初めてやる気になったのだ、横合いから親が出てきて、あれやこれやと口を出せば、へそを曲げてしまうかも知れないだろう、現に、悪戦苦闘しながらも、何とかひと仕事やりきり、彼の食事を見守るリリィアドーネは、終始ご機嫌であり、幸せそうであった。
そのせいで、あれほど味に煩い御用猫とて、真実の感想を告げる気にはなれなかったのだ。
「でも、先生、無理して全部食べなくても良かったのに」
「……野良猫は、飯を粗末に扱わないんだよ、ばち、が、当たるからな」
仕事に遅れてしまうからと、歌でも唄いそうに、跳ねながら登城するリリィアドーネを見送った後、若干、悩んだものの、びちゃびちゃ、と、水っぽく、なにか生臭い野菜炒めのようなものと、塩水となんら変わらぬスープを、御用猫は、泣きながら完食した。
「まぁ、次があるなら、味は問わないから、ちゃんと食い物の体裁だけは、ととのえてやってくれ」
「はいはい、お優しいことですね、羨ましい」
にやにや、と、笑うマルティエの評価を、もう一つ下げようかと考える御用猫であったが、ふと、玄関で仲よさげに談笑するミザリと、魚売りの少年に目をとめる。
年は十二か三か、ミザリやサクラと、そう変わらぬだろうか、背丈はそこそこ、黒い短髪で、日に焼けた肌に、利発そうな目が印象的な少年だった。
「あいつ、最近、よく見るな」
「あぁ、トウタのこと? あの子、お母さんが病気だからって、代わりに担いでるんですよ、ああして頑張ってるの見ちゃったら、ねぇ、だから最近、ちょっと贔屓にしてるんですよ」
お魚も、良いの選んでくるし、とマルティエは、随分と、棒手振り少年を気に入っている様子で、彼のことを手放しで褒めちぎるのだ。
しかし、確かに、御用猫も、最近は前よりも良い魚が、入っているような気がしていたのだ。あの少年は、若いのに、大した目利きなのかも知れない。
「おーい、そこの坊主よ、ちょっとこっちに来い」
突然に、やくざのような傷面に声をかけられたのだ、少年が二の足を踏んだのも、無理からぬことであろう。笑いながらミザリに背中を叩かれ、おそるおそる、少年が近づいてくる。
「なんだよ、そんなに怖がるな、小遣いをやるだけだよ」
御用猫が、財布から一万金貨を取り出すと、少年は、一度目を見開き、それから、ぐっ、と眉を顰めた。
「……なんだよ、これ、俺は物貰いじゃないぞ」
おや、と、御用猫は感心した。この少年の親は、なかなかに教育が出来ているのだろう。とはいえ、御用猫とて、貧乏な少年に施しを与え、優越感に浸るつもりは無かったのだが。
「ああ、すまんすまん、言い方が悪かった、こいつでな、とびきり良い魚を仕入れてきて欲しいんだよ、そうだな、カツオの戻ったやつがいいな、旨そうだ、お前の目利きを信用して言ってるんだ、頼むぞ、余った金が、お前の手間賃さ、上手くやれば、取り分が増える、どうだ、悪い話じゃ無いだろう」
オランをはじめとした港町で水揚げされた海産物は、呪いで鮮度を保ちつつ、クロスロードの河川港まで届けられる、毎朝早くから、市場では競りが行われ、その後、トウタ達、棒手振りの手によって、市中の食卓にまで届けられるのだ。
ぽかん、と、口を開けて聞いていた少年だが、意味を理解できたのか、にやっ、と腕白そうな笑顔を見せる。
「任せなよ、明日の朝には、最高の奴を持ってくるからさ、ありがとおじさん! ミザリ、またな! 」
ばたばた、と、走り去る少年を見送り、グラスを空にした御用猫は、カツオの頭を、果たして煮るか、それとも焼くか、と迷い始める。
「ほんと、お優しいことで……羨ましい」
どこか陰のある表情で、厨房に戻るマルティエと入れ替わるように、いつの間にか現れたチャムパグンが、彼の横でよだれを垂らしながらテーブルを叩く。
「叩きだけに! あぁー、先生ー、御用猫の先生ぇー、鰹、カツオ、かつおー、たたきとー、塩たたきとー、お刺身とー、ぐぇー」
「……それ、全部同じじゃないの? 」
迂闊にも、その様な暴言を吐いたミザリは、御用猫とチャムパグンの二人がかりに説教をくらい、大人気ない大人の、面倒臭さを、存分に味わう事となったのだ。