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第十三章 微笑 (第一部完)

 涼子、加奈、私の順で、非常階段を上っていく。

 加奈に借りたジーンズは私には少し大きくてベルトをきつく閉めている。制服で飛ぶのは嫌だった。示し合わせたわけではないけれど、涼子も加奈もジーンズをはいている。三人とも飛び降りた後のことを考えているのだろう。みっともない形で自分の遺体を残したくない。

 私は足元だけを見ている。空とか近所の家の屋根だとかを視界に入れると、途端に逃げ出してしまいそうだった。鉄階段の合間から見える景色にぞくぞくしながら駆け上った日々。私は無意識に、この日を予感していたのだろうか。

 涼子のつっかけは踏み出すたびに固い鉄の音をたてた。その規則正しい音に追い詰められていく。この音から逃げてしまいたい。でも逃げられない。

 視界に白のコンバースが、左右たがいちがいに現れる。加奈は階段を上るときも内股気味なんだなぁ、と思った。だけど加奈はどうしてこんな脱ぎにくい靴を履いてきたんだろう。玄関に座って丁寧に紐を結んでいた加奈のつむじの辺りを思い出した。私の靴はといえば、ずいぶん履き古したデッキシューズで、するりと脱げる。簡単に、脱げる。

 この階段はいつまでも続くわけじゃない。上りつめると私たちの人生も終わる。こういう時は今まで生きてきたことを思い出したりするべきなのかな。出会った人とか風景とか蘇ったりするんだろうか。

 母は。母はどうだったんだろう。自ら死を選ぶ直前、まだ歩くことさえ出来なかった私のことを思い出したりしたんだろうか。

 そんなことを考えて、突然、立ち止まりそうになった。だけど止まってしまったら二度と足を踏み出せないことに気付いている。私は湿っぽい感情を必死で抑え込み、涼子の足音に神経を集中させた。

 響く、鉄の音。

 十四階にたどり着くと、そこは冷たい風が吹いていた。隅々に枯葉や朽ちた小さな花などが吹き溜まっている。人の気配はまるでなかった。

 子供の声がマンションのコンクリートに響いていた。

「じゃあねっ」

「じゃあねぇっ」

 何度も繰り返す声は、遠ざかってゆく相手に負けるもんか、と必死に叫ぶ。

「おまえー。もう、じゃあねって言うなよぉ」

 ひとりの声が真下に聞こえて、おそらくこのマンションに住んでいるのだろう。私は遠ざかっていく少年の気持ちを考えた。この暗くなった道を独りで帰る。彼の家は近いんだろうか。

 私たちは、柵に両手をかけて頬杖をついている。

「聞こえなくなるまで、言い続けてやればいいのに」

 涼子が言った。

「涼子らしくないこと言うね」

 私がそういうと、涼子は鼻でふふっと笑った。

「あたしらしくない、か」

「見送る方も淋しいよ。相手が見えないのに声だけが聞こえてくるんだもん。部屋に帰りたくても帰れない」

 加奈はそう言って、涼子の肩に頭をそっと預けた。

「あたしは、いっつも見送る役目だったから。涼子も、沙羅も。帰っていく」

 ふと、幼い日に戻った気持ちになる。夕暮れの道を帰った頃。思い浮かぶのは、父と二人で暮らした小さなアパートだった。父が帰る前に食事の仕度をしなくちゃ。遊んでいて時間を忘れたことをしきりに反省した帰り道。

 まだ私たちは、ビートルズも知らなかった。


「加奈?さっきの質問」

 突然、涼子が言った。

「ん?」

「あたしは、彼のことで死ぬわけじゃないよ」

 加奈は、ぴくりと身体を起こして握った手を唇に押し当てた。そっと横目で加奈を見ると、目を固く閉じて何かに耐えているようにも見えた。

「涼子。あたしは、」 

 言いかけて、黙る。

「いいよ。わかってる」

 涼子は囁くように言って、空を見上げた。

 二人にしか分からない交流がそこにはあった。三人で死に向かおうとしているのに、私だけがまた、はみ出している。

 彼女たちの間に何があるのか、私には分からない。だけど問う気持ちはなかった。知ったところで、どうなるわけでもない。

 私たちは誰からともなく柵を離れ、ある方向に歩いていく。

 外廊下の行き止まりには、涼子の言ったとおり、クーラーの旧い室外機が無造作に並べられている。涼子は慣れた足取りで飛び乗り、外に向かってしゃがみ込んだ。私は靴紐を解いている加奈を待っている。私は少しでも遅らせたいのだろうか。目を閉じて十四階下のアスファルトを思い浮かべた。背筋から何かがすっと抜けていくような恐怖感。震えが走った。

 加奈が鉄棒をする時のように室外機に上半身を乗せた。私は下から彼女の脚を持ち上げてやる。私が同じように上半身を乗せると、加奈が両手で引き上げてくれた。

 私たちは加奈を真ん中にして、横に並んだ。しゃがんだ足先から約二十センチ。その先に死が待っている。下を覗くことは出来ない。唇が小刻みに震えて止まらなかった。靴下が室外機の金属の上で滑る。私は次第に肩で息をするようになっていた。向かいのマンションの灯かりが滲んでいる。目には涙がうっすら溜まっているようだった。

 加奈が私の手を取り、軽く握った。その手がひんやり冷たくて、ますます恐怖が襲ってくる。加奈は私と涼子の手を自分の膝の上に引き寄せた。指先が涼子のそれと重なる。私は涼子の顔も加奈の顔も見ることが出来ない。

「いい?」

 涼子の声が耳の奥に響いた。

 と、その時私は、はじけたように加奈の手をふりほどいていた。私自身さえ予想のつかない突然の行動だった。震えで歯がかたかたと鳴っていた。

「沙羅?」

 二人の表情が、大きく重なって見えた。

 目をはちきれんばかりに見開いた加奈の恐怖の表情。すがりつくように訴える瞳に、私は首を小刻みに振りながら、じりじりと後ずさりしていく。

 その時、涼子がふっと笑みを浮かべたのだ。間違いなく、私に向けて薄く微笑んだ。

 わずか数秒間のことだったと思う。


 次の瞬間、二人の身体が私の視界から、消えた。



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