第十二章 針の形
ラジオからは、ひっきりなしにビートルズのナンバーが流れている。リスナーからの哀しみの言葉がDJによって紹介され、私はそのたびに自分の哀しみの方がより深いと信じた。そんなもの比べるものではないことなど分かっている。分かっているのにそうしてしまうのは、「死」へ向かう意味を懸命にたぐりよせようとしているんだろう。
「死ぬことで、意味を持つ人生っていうのもあると思わない?」
涼子が私たちに問いかけるなど滅多にないことで、しかもそれは私が考えていたこととそっくり重なった。
私たちは長いことビートルズを追いかけてきて、三人の繋がりを支えてきたのも彼らの負う所が大きいと思う。ジョンが死んで、それも突然射殺されるという衝撃的な終わり方で。記憶のあちこちが一瞬にして抜け落ちた。
私たちは死のうとしているけれど。衝動的に後を追うというのとは違う。ひどく不安定で、ようやくバランスを保って生きてきたのに、ポンとどこかを押されたような感じ。
「私たちが一緒に逝くことで、ジョンの人生の意味も深まると思うの」
加奈が自分に言い聞かせるようにゆっくり言葉を連ねた。
結局私たちは、怖いのだと思う。涼子でさえ何かを迷っている。おそらく、ひとりでは怖さに押しつぶされてしまうだろう。三人だから死へ向かえるのかもしれない。しかし、それは各々がいるから怖くないというのとは少し違う。
逃れられない流れ、のようなものだ。
私たちは狭い部屋の中で膝を抱えて向かいあっている。いったいどれくらいの時間、ここで過ごしただろう。涼子の、加奈の、幼い頃の顔を思い浮かべようとしても、現在の表情が重なるばかりだ。小学生の時、私たちはもっと無邪気に笑えたんじゃないか。テストの点が悪かったことや、クラス委員になってしまったこと。給食の献立が気に入らないこと。不満も喜びもすぐ手の届くところにあって、実際に起こることと感情にずれがなかった。そのうち、上手くいかないことが自分の力ではどうにもできないと気付いていく。次第に感情を抑える術を身に付け、冷めた目で見ているもうひとりの自分がいる。
「ねぇ。自殺って自分を殺すってことだと思う?それとも自分に殺されるってことだと思う?」
私は二人に答えを要求した訳ではない。ただ思いついたことはすべて言葉にしておきたかった。
「それって能動的行為か受動的行為か、ってことでしょ?あたしは少なくとも能動的に逝く。ふたりはどうか知らないけど」
私はどうなんだろう。涼子のように言い切ることはできない。「死」を口にしたのは私だというのに、流れに飲まれていくんだ。仕方がないんだという感覚がどこかにある。自分の中には死へ向かおうとしている私とそれを眺めている私と二人いる。どちらが本当の私か、などという考えは随分前に捨てた。それは私の中で葛藤するでもなく重なるでもなく、いつも共存してきたからだ。
「遺書、残していくの?」
加奈はそういう具体的なことばかり尋ねて私をはっとさせる。
「私は残さない。読んでもらいたい人なんていないから」
涼子はそのたびに何の迷いもなく答え、ぽつんぽつんと会話が途切れる。
私が死んだ後、父や母、真由はどうなるだろう。家族の中で自分がいつもはみ出しているのを感じてきた。私さえいなければ、この家族は何の問題もないのだと。だけど私が自ら死を選んだとしたら。
父はどう思うだろう。妻だけでなく娘までも自殺という形で亡くすのだ。父が昨日見せた怒りの表情が思い浮かぶ。決心が揺らぎそうで目を閉じた。
父は母を亡くしても、すぐに相手を見つけたじゃないか。私を忘れてしまうことなんて、きっと簡単なはずだ。そう考えると逆にたまらなく寂しくなって、ますます私は死ぬしかないんだなぁ、と思う。
「七時にしよう」
涼子が言った。
反射のごとく、私と加奈が同時に時計を見る。三時四十七分。あと三時間で私たちはいなくなってしまうんだ。
「十四階の廊下は、殆ど人が通らないから」
十四階、最上階か。
「詳しいんだね」
私が問うと、涼子は、ふふっと笑った。
「十四階のフロアは全部、このマンションの家主の部屋。でも住んでる様子はないの。いつもがらんとしてる」
「あたしだって、そんなこと知らなかった」
加奈が言う。
「時々十四階まで上がって、ぼぉっと下を見てた。外廊下に壊れたクーラーの室外機とかが並べてあって、そこに座ると足の下、遠くに白っぽいアスファルトが見えるの。ふっと、引き込まれそうになる」
私は涼子が十四階から見下ろしている様子を思い描く。足をゆらゆら揺らしながら、真下のアスファルトを見つめている。そのシルエットが、ふわりと宙に浮かぶ。同時に自分の姿も重なって、私は心臓を鷲掴みにされたように息を止めた。
「非常階段と逆の方角だから飛び降りても人に迷惑かけないし。植え込みもないから。ストレートに落ちていける」
涼子があらゆることを具体的に片付けていくので、私たちはぐんぐん死へ向かっていく。しかも随分前から計画していたように、何の破綻もなかった。先程見せた小さな迷いは彼女の表情からすっかり消えている。多分、涼子はその場所で何度も死を考えたのだろう。
「あたし、シャワー浴びてくるね」
涼子は立ち上がって長い髪の毛を後ろで束ねた。その見慣れたしぐさも最後なのか思うと、段々に涙が滲んでくる。
不意に加奈が、しがみつくように涼子の細い腰を両手で抱いた。頬をぴったり付けて、じっとしている。涼子は優しい表情で加奈の髪の毛に細い指を絡めた。
「大丈夫よ。死ぬのなんて、ちっとも怖くないから」
私の目の前で、二人の姿が白く浮かび上がった。
それから私たちはそれぞれに時間を過ごした。
私は、ラジオの声を遠くに感じながら、「死」というものを必死で自分の中に引き寄せようとしている。もうすぐ自分の存在が無になるということに、どうしても実感が持てない。死ぬんだ。死ぬんだ。何度も心の中で繰り返す。膝を強く胸に引きつけて抱いた。不安だった。
涼子はシャワーを浴び、髪をとかし、マニキュアを綺麗に塗りなおす。爪に息を吹きかけて乾かす横顔を眺めていると、首筋が透きとおるように白い。細く青い血管が薄く浮き上がり、息を飲むほど美しかった。
加奈は机に向かって何かを書いていた。遺書を残しているのかもしれない。書きかけてはページを破るという繰り返しをして天井を見上げた。ヒロユキに宛てて書いているのか、母や兄に向けているのか。苦しむことはたくさんあったけれども、家族の繋がりが一番温かだったのは加奈だと思う。彼女が死を選ぶ理由なんてあるんだろうか。私が言い出して、涼子が煽り、それに巻き込もうとしているだけじゃないのか。ピンクのセーターの背中がふっくらと柔らかい曲線を描いている。擦り切れた分厚い靴下は、おそらく母の手編みだと思う。
「ね。最後の晩餐って。どうする」
私は苦しさを紛らわそうと、そんなことをたずねた。加奈は、え?というように振り返り、首を傾げて私を見た。涼子は塗り終えたマニキュアを眺めながら、
「食べないよ。なんにも」
と無愛想に答えた。私だって何かを食べたいだとか、死ぬ前に味わっておきたいだとか考えた訳じゃない。ただ話していたかった。重要なところで私たちは心が交わらない。
「jujuのチョコトーストが食べたいな」
加奈は、椅子の上に座り込んでくるりと回った。
中学の時からよく三人で行った。分厚いトーストの上にチョコレートソースと生クリームがかかっている。私や加奈はそれほどお小遣いをもらっている訳ではないので、よく涼子におごってもらったっけ。パンに染み込んだチョコレートと生クリームのしっとりとした甘み。
死へ向かってストイックに進んでいた心が、ふっと別の方向に流れていくような気がした。加奈も同じ思いを抱いたのかもしれない。天井を見上げて大きくため息をついた。
「本当は一日くらい絶食したほうがいいんだけど。その方が綺麗に死ねるんだから」
涼子の淡々とした口調が、やわらいでしまった気持ちを冷たく引き締めた。コンクリートにうつぶせる自分や彼女たちの遺体を思い浮かべて、目をぎゅっと閉じる。
悔しかった。腹立たしかった。
「どうして、そんなこと言うのよ。少しくらい楽しかったことやなんか、思い出したっていいじゃない」
私の言葉は馬鹿げている。わかっているのに。
「沙羅が言い出したんだよ。死のうって」
涼子は無表情のまま続ける。
「楽しかったこと思い出すって言うけど。どれほど楽しいことがあった?ジョンがいなくなったら、あたしにはなぁんにも残んない。からっぽなんだから」
言い返すことは出来なかった。
ほんの少し浮き上がった心が静かになっていく。曖昧な不安ばかり抱えて生きてきた。家でも、学校でも。
帰る場所なんて残されていないんだ、と思った。ようやく「死」へ踏み込んでいけそうな気がした。
「彼、のことは?」
加奈が小さい声でたずねた。
涼子はそれに答えぬまま、不意にベランダへ出て扉を閉めた。
柵に身体を預けて、空を見上げる涼子の背中は消えてしまいそうに細かった。
時計を見ると、六時二十三分。
時計の針、半周とちょっと。心の中でぐるりと進ませてみる。
七時の針の形が、脳裏に焼きついた。




