第十一章 恋もしないで
家に帰ると、真由が玄関に飛び出してきた。
「お姉ちゃん。ジョンが死んだって」
私は「ジョンが死んだ」という言葉を今日、何回繰り返しただろう、と思った。
「うん」
母もパタパタとスリッパの音をさせて出てくる。、
「遅かったのね。もうお父さん、帰ってるのよ」
そう言って、私の姿を不思議そうに見る。
「あなた。鞄はどうしたの」
「加奈のうちに忘れてきた」
母は、私の言葉を信じていないようだったが、「そう」と、台所に戻った。
居間では、父が新聞を読んでいた。
「遅いじゃないか。何時だと思ってるんだ」
新聞から目を離さずに、低い声で聞く。
「九時三十三分。時計見ればわかるでしょ」
反抗的に答えると、父は新聞を置いて、バンとテーブルを叩いた。
「ふざけるなっ。夜中に出かけてみたり、遅く帰ってきたり。学校に出てない日もあるそうじゃないか。一体、どういう生活をしてるんだっ。お前は」
父の大きな声に心臓がどくどくと音をたてた。私はその動揺を押さえ込むように、
「関係ないじゃない」
と静かに答えた。
「なんだと?」
父の目が瞬間に怒りに変わる。ずかずかと歩みより、私の頬を平手で打った。耳がキーンと鳴って私は頬を押さえる。父の顔が目の前に迫り、私に示す久々の感情が怒りなんだなぁ、と思った。
「なんだ、その反抗的な目は」
父の表情はますます険しくなり、顔色が赤らんだ。
「ね。お父さん。やめて。今日はジョンが死んだの。だから、お姉ちゃんもどうかしちゃってるの。だから、やめて」
真由が泣きそうな声で父の腕にしがみついた。
「ビートルズがなんだ。そんなものに熱をあげているから、不良のような生活になるんだっ」
私の中で何かがふつりと切れた。
「お父さんなんかより、ジョンの方が、ずっとずっとあたしの支えだった。あたしがこの家でどんな気持ちで暮らしてたか。なんにも知らないくせに」
父は大きく目を見開いて、しばらく私を見据えた。やがてソファに体をばさりと預け、眉間のあたりを指で押さえる。大きなため息が漏れた。
流しの前で微動だにしない母の背中が見えていた。
言ってはいけないことだった。
だけど、もうどうでもいい。私はひどく疲れていた。
翌朝、食卓にはどことなく堅い空気が流れていた。母の目は明らかに赤く腫れていたし、真由は口を開かない。父はと言えば、新聞に目を向けたまま私を見ようともしない。私さえいなければ、きっと上手くいくのだ。私はいつだって、どこでだって、はみ出している。
鞄を喫茶店に置いてきたので、いつもより早く家を出る。店はモーニングセットを扱っているので、比較的早く開ける。それでも、まだ「準備中」の札が下がっていた。中には人の気配があったので、店主はもう出てきているようだった。
そっと覗き込むと、ああ、というように鞄を持ってきてくれた。
「これ、ないと困っちゃうからね。学生さんは」
「ありがとう」
「なんとか家に届けてやろうかと思ったんだがね。あんた、訳ありみたいだからさ。やめといたよ」
私は、うん、と頷いた。
「なんかあったら、またおいで。あんたの話し相手にはならんだろうけどね」
そう言って笑顔を見せた。心に暖かいものが流れて、私は黙って頭を下げた。
学校へは向かわずに加奈の部屋へ急いだ。
加奈の母は、涼子の病院を辞めて大学病院に勤め始めていた。難しい病気の患者の担当で、夜勤から明けても帰れない事がしばしばだという。兄の武司は相変わらず忘れたころにふらりと帰ってくるだけだ。そんな訳で部屋には加奈がひとりでいることが多く、涼子は殆ど入り浸りになっている。
涼子の家と言えば、父親は全く行方知れずで、病院をたたむか、どうするかという状況だった。患者はあらかた他の病院に引き受けてもらい、雇っていた医師も看護婦も殆ど解雇された。
「ママにはちゃんと男がいるから。病院も、あたしも必要ないの。むしろ邪魔かもね?」
涼子は笑う。
加奈は、飲む?と、戸棚からウイスキーを取り出した。ここに来るたびに少しずつ覚えてしまった。飲んでいるうちに頭の芯がぼんやりしてくる。それなのに感情はうねりを増して、悲しいんだけど、すべてが馬鹿馬鹿しい。陽気を装っているのか本心なのか。なんだって笑い飛ばせる気がした。
ストレートで口に含むと喉が焼けるように熱い。熱はそのまま身体の奥深くに染み込んで行く。早く遠のいてくれればいいのに。今朝のいたたまれない空気も。生きていく不安も。
「あたしたちって、どうしてこんな、そろいもそろって不幸なんだろね」
「不幸?そうだね。フコウだね。でもさ。シアワセよりいいんじゃない?」
「そうだよ。適当に勉強して、なんとなく大学行って。結婚してさ。冗談じゃない」
「シアワセって、そういうことなの?」
「そういうことじゃないの?」
「わかんない。シアワセになったことないから」
くだらない会話が続く。
三人ともちっとも考えてなんかいない。思考に届かないところで言葉がつらつらと流れ出てくるだけだった。
「お父さんの浮気とか。最大の悩みだったりするんだよ。きっと」
「ウチのお父さん、浮気して失踪した」
あ…。しばらく黙る。
「涼子んちは違うよ。思い切ってるもん」
「ウチは大丈夫。長男、ゾクだし。おまけに長女は登校拒否。立派なフコウっぷり」
加奈が、きゃははと大袈裟に笑う。
「ちょっと待って。ウチもすごいんだから。お母さん自殺…だもん」
言ってしまってからドキンとした。「自殺」という言葉の響きに、たじろいだ。しゅっと笑顔が引っ込んでいく。
二人は、え?というように私をみて黙り込んだ。加奈にも涼子にもまだ打ち明けたことはなかった。
「ジョンが死んじゃったし。あたしも死のうかな」
アルコールが歯止めを外してしまったのか。私がふと口にした言葉。心の奥からすり抜けた言葉。
「いいよ。付き合う」
まるでコンビニへでも行くように涼子は言った。
「あたしも」
遅れてはならないとでも言うように加奈も答える。
口に出したのは私だった。だけど涼子も加奈も多分、心のどこかに持っていた。
死ぬということ。
死んだらどうなるのだろう。考えていることや感じていることが一切消えてしまう?消えてしまったってことさえ認識できないんだ。生と死の境目はどんなだろう。眠りに落ちる時のように、かくん、と無くなってしまうんだろうか。
ジョンは、いつわからなくなったんだろう。撃たれた瞬間?それとも。
私たちはしばらくの間、誰も口を開かなかった。唇を濡らすようにアルコールをすすり続けた。
「どうやって?」
加奈の声は少しかすれていた。
私は「死ぬ」ということと、そういう具体的なことが結びつかなくて、ぼんやりした頭を懸命に働かせた。
「飛び降りる」
涼子が至極当たり前のように答えたので、(そうか、そうだな。飛び降りるのは、とってもノーマルな方法だ)と思った。
「いつ?」
加奈は私と涼子の顔を交互に見ながら問いかけ、唇をきゅっと結んだ。
「今日」
涼子の言葉で、いきなり「死」が現実的になる。酔っていた身体からすっと熱が引いて行く。もう父にも会うことはないんだ。母にも、真由にも。
「今日か…」
私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「じゃないと理由がぼやけるよ。あたしたちが死ぬのはジョンが逝っちゃったから。それだけ。後で余計な詮索されたくない」
涼子はなんのためらいもなく言い切るので、いちいち私はそれを肯定していく。そうだな、家庭不和だとか学校のこととか、汚らしい理由にされたくない。
「死んじゃうのか。あたしたち」
加奈の声が頼りなげだったので、私の心がほんの少し揺らぐ。言い出したのは私なのに。
「思い残すことでも、あるの?」
涼子の口調は、いつもより柔らかい。加奈はゆっくり首を振る。
私は今までの人生を振り返る。たくさんのことがあったようにも思うのに、ひどく平坦な道をとぼとぼ歩いてきただけのような気もする。思い残すことがあるか?と問われると、頭の中にぽっかりひとつの円が浮かび上がる。その円の四分の一を塗り込んだだけの人生。
「わたしは…」
言いかけた私を、涼子はちらりと見る。
「恋もしなかったな」
胸が痛くなるような想いも、想像するだけで実際には経験することはなかった。
二人は黙ったまま何も言わない。
互いにヒロユキのことを考えているんだろう。