外編1 おみやげ症候群(シンドローム)
菱谷 保の手に乗せられたのは、直属の部下が休日を取ってまでわざわざ国内へ旅行に行った先の、空港名が印字された包み紙だった。
週末の休みを使って四泊五日。月火と纏めて有給を取って、顔を見るのは実に四日ぶりだ。
円居は久し振りの休みを全力で楽しんだらしく、出勤するなり菱谷のデスク前へと真っ直ぐ立ち寄った。しかも、制服にも着替えずに上着すら脱がないままだ。
いつもの菱谷ならばすぐに叱責するところだろう。
部署に私服で立ち寄るとは、始業ベル前とはいえどうも浮かれ過ぎる。
言いかけた唇は、突き出された包み紙で強引に閉ざされた。
紺色の包装紙。そんな円居の右手には、部署全員への土産なのか。同じ包み紙の箱がまだ入っている。
よくある土産物だとしても、随分と小さく軽過ぎる。
渡した当の本人は、そんな菱谷の反応を細かく分析しようとしているのか。 内心を探ろうとでもするかのようにこちらの反応を待っている。
「おみやげです」
言わなくとも、見ればわかるだろう。どこで買ったのか丸分かりの包み紙だ。
まさか、ここでこれを開けろと言われているのだろうか。
菱谷は一度その包み紙(中身がむしろ小さ過ぎて丸めたゴミのようにも見える)を破らないよう、慎重に土産店の名がプリントされたテープをはがし取ると、丁度みかんを剥く要領で開いた。
それはさながらマトリョーシカだ。
包み紙の下には、エアクッションシート(正式名称は気泡入り緩衝材)でご丁寧巻かれ、その下にはまだ薄紙にも包まれている。
「円居」
「はい?」
これ以上面倒なら終業後に開けたい、と言ってしまうのは憚れた。
明らかに反応を待っている円居の期待に満ちた瞳に、思わず言葉を失い、開きかけた口を閉じる。
こやつにはデスクの上に広がった書類の山が見えないのか。一分一秒がもったいないというのに鈍感な部下を持つと苦労するのだ。
「なんでもない」
菱谷は内心で深く嘆息し、その小さな山が連なったシートを開きにかかった。
そもそも透明なシートに透明なテープを貼ってしまえば、どこから剥がせばいいのか分からなくなるというのに、店員はそこまでは配慮しなかったらしい。いや、もしかしたら元々包まれて保管されていたものかもしれない。
暢気な円居のことだ。土産を買うのを忘れて一気に空港で買い揃えた、というのがオチか。
薄いグリーンの(漉き模様の入っている)和紙から出てきたのは、何とも形容しがたい生き物の硝子細工だった。
旅行に行っていない人間がこんな観光名所がはっきりと刻まれたもの(しかも箱に値段までが印字されていた)を土産に貰っても、実は対処に困るだけだ。元々気が利かない部下だとは知っていたが、まさかここまでとは。
しかし、よくぞここまで造形の微妙なものを選んでこれたものだ。むしろ新手の嫌がらせと取られてもおかしくはない。
「これは」
実際、上手い表現に困った。
菱谷は硝子細工をまじまじと眺め、結局褒めるのを放棄し、
「……いや、ありがとう。飾っておく」
とだけに留めた。
円居は右手に提げた紙袋を持ち上げ、中を覗き込む。
「はい。お菓子にしようかと思ったんですが、探し回っても甘いものしかなくて」
誰が、いつ、甘いものを食べない人間だと言ったのか。
こんな硝子細工を貰う位なら、片手間に食事代わりになる菓子の方がむしろ使い勝手がいい。
無駄なものを可能な限り排除した自宅を脳内で検索しても、こういう飾り物を置けるような場所はベッド横のサイドテーブルか玄関の靴箱上くらいしか思い当らなかった。
それでも引き出しの奥深くに仕舞いこんでおこう、とは思えないのだ。面倒なことだ。
菱谷は帰ってから開き易いよう柔らかくその身元不明な生き物を包み込み、ビジネスバッグへとしまう。
ゴミ箱にでも放り投げるとでも思っていたのだろうか。円居はそれを見ると明らかにほっとした表情をして、相好を崩した。
「本当に飾って下さいね」
「ああ」
返事もそこそこに書類に視線を落とすと、
「絶対にですよ。今度、見に行きますからね」
しつこく念を押してくる。
つい、無意識にボールペンを持っていた指が止まってしまった。
直属の部下にして二年と一カ月。たまに円居は自分の言っている意味をよく理解していないのか、爆弾を投下する癖がある。
馬鹿げている。こんな妄言に心を乱されるのは、仕事に集中していない証拠だろう。
第一、円居が仕事を休んだこの月火は三門のミスに頭を悩まし、米川の要領の悪さに苛立ちを隠せず、菱谷はただひたすらに胃薬とビタミン剤の併用で神経を安定させていた。
円居の不在を感じる暇も無く、あっという間に二日は過ぎた。この二日間、存在の有無は大した問題ではなかったのだ。
「来ても入れないからな」
こんな妄言にクソ真面目に返してしまうのはどうかしている。
「着替えてこい。いつまで仕事場に私服でいるつもりだ」
睨み付けると、すぐに竦み上がる他の人間とは違い、満面の笑顔が返ってきた。
円居がいちいち菱谷の言う事に怯え、その度に竦み上がっていたのは、たった一年弱だ。
最近では叱責される度に聞こえているのか聞こえていないのか、曖昧な返事をしてすぐに背を向け、菱谷のほとぼりが冷めた頃に再度確認してくるまでに図太く成長した。
円居の性格は、猪突猛進、もしくは瞬間湯沸かし器ともいえる。
竹を割ったように喜怒哀楽が元々激しい円居は、自分が間違っていると判断できたものについてはその叱責も甘んじて受けるが、納得できないものについては上司である菱谷にでも容赦なく噛み付いてくる。性格を形づけるものにもし性別があるのであれば、それは明らかに『男性格』と呼ばれるものなのだろう。
円居は、怒りも悔しさもそのマイナス要素に至る感情を次の日に絶対持ち越さない。
しかし、それがきっと円居の美点ともいえる。
「だらしがない。そもそもこんな忙しい時期に二連休を」
「着替えて来ます! 仕事、頑張ります!」
暢気な日焼け顔を見て説教しかけた菱谷に背を向けると、円居は軽やかに敵前遁走した。
その切り替えの早さは鮮やか過ぎて、思わず二の句が告げない。
噴出しかけた怒りの置きどころを失った菱谷のデスクには、月火と続いて終業時間まで決して身から離れることのなかった愛用のボールペンが書類上に虚しく横たわっている。
書類に常に向き合って来た顔を上げ、口は物を言いかけて半開きのままの菱谷と、部署にいた数名の人間との視線がかち合う。
その内、拙いものを見た、と言わんばかりに視線を逸らしたもの、二名。
軽い苦笑で済ませたもの、二名。
出勤しているのか、いないのか。全く分からないものが一名。
場を取り繕う術を持たずに、菱谷は濃紺のスラックスからプレスされたハンカチを出し顔半分を覆うと、
「仕事」
とだけ辛うじて口にした。
らしくない所を見せたと、乱されたペースを取り戻すのに苦労すれば、いつの間に着替えたのか円居が湯気の立ったカップを乗せた盆を持って部署に入ってくる。
どうも癖なのか、首元のリボンはいつも僅かに右に傾げ、短めに揃えられた髪はいつも後ろが跳ねる。
何度も、女なのだから身だしなみに気をつけろ、と遠回しに言っても単刀直入な忠告以外は円居には通じないらしい。
今日も例外なく毛先が跳ね、急いで結んだのかリボンも曲がっていた。
見慣れた灰色の制服に馴染む灰色のカーディガン。
別にここまで地味にしろ、と菱谷は指示した覚えも無く、勤務中であるという体裁を失わない程度のものを、と言っただけなのに、どこで探してくるのか円居はいつも似たような格好だ。
他の女性社員は、制約はあれど色々と女性なりのお洒落を楽しむ(たまに例外もあるが)のだろう。
年頃の女性であれば、もっと女性らしいものをセレクトしてもいい。見かけが悪い訳でもない。少し女性にしては慎みが足りなく、配慮に欠けるだけだ。
それに部下としては、決して使えない人間ではないことを、菱谷はこの二年一カ月で思い知らされている。遠慮がないとも言うが、天真爛漫な円居には助けられたこともあったのだ。
だが、もうそれ以上は考えないようにしている。
人として、分があるのを履き違えてはいけない。慎みは部下を持つ人間こそ、むしろ必要なことだ。
多分。
「インスタントコーヒーの買い置きがなかったんで、お土産のゴーヤーコーヒー淹れてみたんですが、飲みます?」
恐ろしげなものを上司のデスクに置こうとする部下を、反射的に怒鳴り付けた。
「いらん!」
行ったのは九州地方じゃなかったのか。
そもそもゴーヤーのコーヒーってどんな罰ゲームだ。いいからさっさと仕事しろ。
思わず咽喉まで出かかったその先を菱谷は咽喉奥で必死に押し潰し、ボールペンを書類に叩き付ける。
会議に使う筈の書類の束にペン先が貫通したのが分かった。一時間の仕事がこんなことですべて白紙だ。
視線の先に、円居が気づかわしげに立っている。いや違う、こちらの出方を窺っているのだ。本人も認める程に気難しい菱谷の反応を見て、臨機応変に対応すること。円居にはそれが可能だ。こういえば、まるで仕事が出来るように聞こえるかもしれない。
前言撤回。
要するに、円居は極端に必要なことだけ忘れっぽく、ふてぶてしい。
この部下は怒りも悔しさもそのマイナス要素に至るものばかりか、本来ならば訓示として聞き入れなくてはいけないことまでも後日に持ち越そうとはしない。本当にどうにもならない、しっかりとした指導が必要な部下だ。
円居に気遣いは無用だ。むしろこれから部下の在り方をしっかり理解してもらう必要がある。
まずは一仕事。土産のコーヒーを飲んでからだ。
「……分かったから、コーヒーは置いてさっさと仕事しろ。休みの分は働いて取り返すものだろう」
「美味しかったら言って下さいね。まだたくさんあるんで、おかわりも大丈夫ですよ」
まさか、それがよりによって部署への土産か。
まだ硝子細工でもずっとマシだったのかもしれない、と菱谷は聞えよがしに嘆息した。
四日ぶりに仕事場で仕事に絡まない会話をしたのだとそんな簡単なことに菱谷が気付いたのは、帰ってすぐに硝子細工を飾った時のはなし。