第9話:浜松の濃霧、消えた荷物の謎
第9話:浜松の濃霧、消えた荷物の謎
濃い夜霧が浜松ステーションのプラットホームをすっぽりと包み込み、石炭の焦げた匂いと湿った夜気が、開いたドアから客車の中へと容赦なく流れ込んできた。明治の夜気特有の湿った冷たさが、旅人の肌を刺すように冷やす。
「……見事なまでの霧だね。これでは、駅の向こう側がどうなっているのやら全く見えない。遠州のからっ風といい、この土地はなかなかに演劇的な演出をしてくれる」
蒼生はコートの襟をしっかりと立て、落ち着き払った足取りで木製の通路へと出た。
蓮もその後を追うように立ち上がるが、先ほどすれ違った黒衣の男が発していた冷徹な「思考の残響」が、まだこめかみを鈍く、そして鋭く刺激していた。頭のなかで、あの男の冷酷な声がこだましている。
(――神山たちの乗る車両の近くに、仕掛けをしておけ。東京にたどり着く前に、連中の足を永久に引っ張るのだ……)
「神山さん……あの男、私たちをその場で直接襲う気ではなく、何か別の『罠』をこの浜松の駅構内で仕掛けようとしています。人混みに紛れて、私たちの荷物か、あるいはこの列車そのものに……」
蓮が切迫した声で告げると、蒼生はふっと不敵な、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「ほう? 私たちの足をすくうための、悪趣味なプレゼントというわけかい。それはぜひとも、中身を拝見させてもらわなければならないな。探偵として、もらった好意を無視するわけにはいかないからね」
二人がホームへと降り立つと、そこには旅人たちの荷物を乗せた木製の運搬台車がいくつも雑然と並んでいた。霧の中、駅員たちが遠くでランプを掲げながら叫ぶ声がくぐもって聞こえる。
その運搬台車の中の一つ、古びた革のトランクが不自然にガタガタと微かに揺れているのが、蒼生の鋭い目に留まった。
周囲の乗降客や駅員たちが霧の中で慌ただしく動き回っている隙をつくように、先ほどの黒衣の男の背中が、遠くのガス灯の光の向こうへ、まるで幽霊のように消えかけていく。
「待ちなさい!」
蒼生が低く鋭い声を張り上げると同時に、その革のトランクの蓋がプシュッと小さな音を立ててわずかに浮き上がった。
隙間から漏れ出してきたのは、ツンと鼻をつく刺激的な薬品の異臭だった。
「これは……!」蓮は思わず息を呑み、一歩後ろに身を引いた。
「ああ、間違いない。中身を爆発させるための時限式の仕掛け、あるいは証拠隠滅用の発煙・発火装置といったところだね。さすがは東京の組織、用意周到な歓迎ぶりだ」
蒼生は少しの躊躇も見せず、臆することなくその不気味なトランクの留め金に手をかけ、鮮やかな手つきで蓋を力強く跳ね上げた。
中から飛び出してきたのは、やはり不穏に絡み合う配線と薬品の瓶、そして東京へ送られるはずの新たな「秘密の密輸品リスト」の束だった。そこには、軍の極秘物資の動静を示す数字がずらりと並んでいる。
「ふむ。名古屋の設計図に続き、今度は浜松で物資の横流しリストか。この東海道線を舞台にしたパズルは、なかなかピースが埋まりがいがある。東京の首謀者たちはよほど、私たちが首都の土を踏むのを恐れているらしい」
蒼生がそのリストの束をひょいと持ち上げ、満足げに笑ったその時、濃霧の向こうから、出発を告げる野太く力強い汽笛が響き渡った。汽罐車のボイラーがうなりを上げ、重い鉄の車輪が再びゆっくりと動き始める。
東海道線――京都発、東京行の迷宮列車は、さらなる謎と新たな脅威をその腹に飲み込みながら、漆黒の夜の闇と深い霧のなかへと、再び走り出したのだった。
(※本作に登場する組織、事件、機密文書、およびスパイ工作に関する描写はすべてフィクションであり、実際の歴史上の出来事や実在の人物・団体とは一切関係ありません)




