後編
それから数週間後。
とある夜会で、マリエルとオリヴィアはクラリッサと顔を合わせた。
正式な家督継承に向けて忙しい日々を送っているというクラリッサだったが、以前よりどこか晴れやかな表情をしていた。
「……これまで妹のことで、ご迷惑をおかけしました」
挨拶を交わすなり、クラリッサが頭を下げた。
「なぜクラリッサ様が謝るのです?」
「ミレイユのせいで、マリエル様にまで」
「クラリッサ様のせいではありません」
マリエルがそう答えると、クラリッサは小さく微笑んだ。
「そうですね。今なら、そう思えます。以前の私は、姉なのだから妹に譲るのは当然なのだと思い込もうとしていました。でも、違ったのですね」
その言葉に、オリヴィアがクラリッサを見る。
「ええ、そうですわね」
「姉だからといって、自分のものを何もかも妹に譲る必要などなかった。欲しくないものなら譲ってもいい。けれど、大切なものまで我慢して差し出す必要はなかったのだと、ようやく分かりました」
クラリッサは少し寂しそうに目を伏せた。
「それに、私が譲り続けたことは、ミレイユのためにもならなかったのでしょうね」
「……そうかもしれませんわね」
オリヴィアが静かに答える。
「欲しがれば誰かが譲ってくれる。それが当たり前だと思ったまま大人になってしまった。私も、もっと早く拒んでいれば……」
「それは違いますわ」
オリヴィアがきっぱりと言った。
クラリッサは伏せていた目を上げた。
「あなたが妹を正しく育てる責任まで負う必要はありません。あなたは姉であって、母親ではないのですから」
「……そうですね」
クラリッサは一瞬目を見開き、それからふっと笑った。
「本当に、その通りですね」
マリエルも小さく笑う。
「ミレイユ様は……今、どうしているのですか?」
そう尋ねると、クラリッサの表情がわずかに曇った。
「国外追放となり、隣国へ向かったそうです。ただ……最近、隣国の辺境伯が運営している保護施設に身を寄せていると聞きました」
「保護施設?」
「ええ。行き場をなくした女性たちを受け入れている場所なのだとか」
それ以上のことは、クラリッサにも分からないらしい。
「そこで何をするのかは、もうミレイユ自身が決めることでしょう」
その声に、以前のような罪悪感はなかった。
「お姉様だったら、私が何か欲しがったら譲ってくれる?」
マリエルがふと思いついて尋ねると、オリヴィアは眉を上げた。
「物によるわ」
「即答ね」
「私がいらないものならあげる。でも、気に入っているものなら嫌よ」
「そうよね」
マリエルが笑う。
オリヴィアはクラリッサへ視線を戻した。
「姉妹だからといって、何もかも分け合う必要はありません。譲りたいときには譲る。嫌なら断る。それだけのことでしょう」
クラリッサは二人を見つめ、それから穏やかに笑った。
「そんな簡単なことだったのですね」
「家族だからこそ、簡単でいいのではありませんか?」
オリヴィアの言葉に、クラリッサは静かに頷いた。
マリエルはそんな二人を見ながら思った。
同じ、姉と庶子の妹。
けれど、自分とミレイユでは育った環境がまるで違った。
マリエルは、姉だからとオリヴィアに何かを譲らせることのない家で育った。
ミレイユは、姉が譲ってくれることを当然だと教えられて育った。
けれど、育てられ方だけですべてが決まるわけではない。ミレイユも今、自分がしてきたことと初めて向き合おうとしているのかもしれない。
これからどんな人間になるのか。
それを決めるのは、最後には自分自身なのだ。
♢
これで終わった。
王太子を誘惑した「桃色の髪をした男爵家の庶子」は国外追放された。マリエルへの風評被害も、ようやく終わる。
――はずだった。
「お嬢様!」
朝。侍女が新聞を持って駆け込んできた。
「どうしたの?」
「これを!」
第一面には、大きな見出し。
『王太子を惑わせた桃色髪の男爵家庶子、国外追放へ!』
マリエルは無言になった。
家名がない。
名前もない。
しかも余計なことに、髪の色だけは書いてある。
「…………」
マリエルは新聞を手に、家族の集まっている居間へ向かった。
父へ差し出す。
読む。
無言。
ベアトリスが読む。
無言。
オリヴィアが読む。
無言。
やがて父が、新聞をぐしゃりと握り潰した。
「家名を書け!」
「お父様、落ち着いて」
「なぜハートリーと書かない!」
「名前すらありませんね」
オリヴィアが冷静に追い打ちをかける。
「しかも桃色髪と書いてあります」
「私の髪は桜色です!」
「一般人には区別が難しいでしょうね」
「お姉様!」
ベアトリスが低い声で言った。
「この新聞社とは今後取引しません」
「新聞社と取引などしていたか?」
「広告を出しています」
男爵が即座に頷く。
「では止めよう」
その日の午後。領地を視察していたマリエルは、商人たちの会話を耳にした。
「この領地の男爵令嬢も桃色の髪らしいぞ」
「しかも庶子だって」
「まさか、あの王太子を……」
ぷつん。
何かが切れた。
マリエルは振り返った。
「それは!」
商人たちがびくりとする。
「それは、あっちの男爵家です――――!!」
アルヴェーン領の空に、マリエルの絶叫が響き渡った。
♢
「有名になったな」
「嬉しくない」
翌日。
領館の裏手に建つ魔道具工房で、エドガーが笑っていた。
「昨日、町中で叫んだんだってな?」
「忘れて」
「無理」
「忘れてってば」
「無理」
「エドガー」
「何?」
「……楽しんでない?」
「少し」
「帰って」
「嫌だ」
マリエルは作業台に置かれた魔道具へ視線を落とした。
「もう、あの噂に振り回されるのはやめた」
「本当に?」
「うん」
「顔が怖い」
「代わりに、決めたことがある」
小さな魔石を持ち上げる。
「誰かの噂と一緒に覚えられるくらいなら、私自身の名前を覚えさせる」
「どうやって?」
「これで」
今、マリエルが研究しているのは新しい照明魔道具だった。
既存の魔力灯より明るさは半分。見た目も簡素。だが、製造費は五分の一程度。消費する魔力も少なく、魔石の交換頻度も低い。術式を単純化しているため、地方の職人でも修理できる。
「高級品を作るんじゃないの」
「じゃあ何を作るんだ?」
「普通の家庭でも買える魔道具を作る」
「暗くてもいいのか?」
「夜に針仕事ができる程度の明かりがあれば、一般家庭なら十分でしょ」
「なるほど」
「最高性能の魔道具を百個作るより、必要十分な魔道具を一万個作ったほうが、多くの人の役に立つと思う」
エドガーはしばらく黙っていた。
「何?」
「いや」
少し笑う。
「やっぱり、お前らしいなと思って」
「褒めてる?」
「すごく」
マリエルは少しだけ頬が熱くなった。
「……ありがと」
「王都の魔道具コンクール、出るんだろ?」
「そのつもり」
「じゃあ勝て」
「簡単に言うね」
「ずっと見てきたから言ってる」
エドガーは、子供のころからマリエルの魔道具を見てきた。
最初に作った携帯用の小さな暖房魔道具も。
「エドガー、これ持ってみて」
「何だこれ」
「温かくなる」
「本当に?」
「たぶん」
「爆発したりしない?」
「たぶん」
「怖い!」
実際、その魔道具は爆発した。
幸い、二人とも煤で顔が真っ黒になっただけで怪我はなかったが、あとで事情を知ったベアトリスに、マリエルはこっぴどく叱られた。
「試作品を人に持たせる前に、自分で安全を確かめなさい!」
それでもエドガーは、次の試作品も持ってくれた。
その次も。
十年以上、ずっと。
「お前なら勝てる」
その一言は、どんな激励よりも心強かった。
♢
王都魔道具コンクール。
会場には、王国中から魔道具師が集まっていた。
巨大な魔石を使い、昼間のような光を放つ照明。貴族の邸宅に似合う豪華な装飾灯。触れるだけで色が変わる魔力灯。
それらに比べ、マリエルの作品はあまりにも地味だった。
小さい。暗い。飾りもない。
審査員の一人が首を傾げた。
「従来の魔力灯より暗いですね」
「はい」
「意匠も簡素です」
「はい」
「では、何が新しいのですか?」
「価格です」
「価格?」
「従来品の五分の一程度で製造できます」
会場がざわめいた。
「魔石の交換頻度も半分以下。術式が単純なので、専門の魔道具師でなくても、一定の訓練を受けた職人なら修理できます」
「つまり……地方でも?」
「はい」
「平民でも?」
「手が届く価格にできると考えています」
「なぜ、その発想を?」
「魔道具は、魔法を便利にするための道具です」
マリエルは少し息を吸った。
「ならば、一部の人しか使えないものでは意味がないと思いました」
審査員たちは顔を見合わせた。
耐久試験。魔力消費量。修理時間。製造費。
すべてを比較した結果――。
マリエル・アルヴェーン。
王都魔道具コンクール、最優秀賞。
♢
そこからは、目が回るほど忙しかった。
注文が殺到した。アルヴェーン領に新しい工房が建った。職人が集まった。商人が集まった。若者の雇用が増えた。
そして、その中心には二人の姉妹がいた。
「マリエル。製造工程をこれ以上増やさないで」
「でも、この術式を加えれば故障率が」
「三工程増えるわ」
「二工程にする」
「一工程」
「無理よ、お姉様」
「一工程」
「……分かったわ」
マリエルが開発する。オリヴィアが原価を計算する。
マリエルが改良する。オリヴィアが工房を増やす。
マリエルが次の魔道具を考える。オリヴィアが販路を作る。
照明魔道具だけではない。低価格の保温器。小型の給水装置。食品保存箱。
次々と新製品が生まれた。
姉が妹のために自分を削るのではない。妹が姉から何かを奪うのでもない。それぞれが自分の得意なものを持ち寄り、互いに利益を得る。
その結果、アルヴェーン男爵領は急速に豊かになっていった。
そして。
「……四十三通」
父が呟いた。執務机の上には手紙の山。
「昨日は?」
ベアトリスが尋ねる。
「二十七通」
「増えましたわね」
マリエルは嫌な予感がした。
「何の手紙ですか?」
オリヴィアが一通持ち上げる。
「あなたへの縁談」
「…………」
「こちらも」
父がもう一通取る。
「これも」
ベアトリスが三通ほど確認した。
「こちらは以前、マリエルとの縁談を断った家ね」
「こっちもだ」
「こちらもです」
沈黙。
ベアトリスが微笑んだ。
「皆様、ずいぶん記憶力がお悪いようで」
怖い。
父は手紙の山からマリエルへ視線を移した。
「どうする?」
「お断りしてください」
「全部?」
「全部です」
オリヴィアがにやりと笑った。
「いいの? 侯爵家からも来ているわよ」
「興味ありません」
「では、誰なら興味があるの?」
「……」
なぜか一人の顔が浮かんだ。
幼いころから、爆発するかもしれない魔道具を何度も持ってくれた人。
誰も自分へ近づこうとしなかった夜会で、平然と手を差し出してくれた人。
マリエルは慌てて思考を振り払った。
「今は仕事が楽しいので」
「ふうん」
姉の目がわずかに細くなったが、何も言わなかった。
♢
ある夜の舞踏会。
以前は誰も近寄らなかったマリエルの周囲に、人垣ができていた。
「マリエル嬢、ぜひ次の曲をご一緒に」
「今度、我が家の工房をご覧になりませんか?」
「以前からあなたの才能には注目しておりました」
嘘をつけ。
マリエルは心の中で思ったが、口にはしなかった。
「嘘をつけ」
口にした人がいた。
「エドガー!」
一人の令息が振り返る。
「何だと?」
「去年、彼女に話しかけようとした友人を止めてただろう」
「な……」
「『桃色髪の男爵家の庶子なんて面倒だからやめておけ』って」
男の顔が赤くなる。
「そんなこと覚えてたの?」
マリエルが尋ねると、エドガーは肩をすくめた。
「お前のことはよく見てるからな」
「……ありがと」
「帰ろう、マリエル」
「まだ舞踏会の途中だけど」
「じゃあ踊ってから帰ろう」
「勝手ね」
「今さらだろ」
差し出された手を、マリエルは笑って取った。
やがて曲が始まり、二人は音楽に合わせて踊り出す。
「エドガー」
「ん?」
「聞いていい?」
「何だ?」
「なんで私に求婚しないの?」
エドガーの足が止まりかけた。危うくマリエルの足を踏みそうになり、慌てて体勢を立て直す。みるみるうちに頬が赤くなり、ついには耳まで染まった。
「……は?」
「危ない」
「いや、待て」
「何?」
「お前、踊ってる最中に何を言い出すんだ」
「気になったから」
「今?」
「今」
「……勘弁してくれ」
呆れたように言われて、今度はマリエルが視線を逸らした。
なるべく普段どおりに聞いたつもりだったのに、頬が熱い。自分でもずいぶん大胆なことを口にしたと思う。それでも、ここで引き下がる気はなかった。
「ずっと不思議だったの」
「何が」
「私に縁談がなくなっても、エドガーはいつも通りだった」
「うん」
「コンクールで優勝しても、いつも通り」
「うん」
「縁談が殺到しても、いつも通り」
「……うん」
マリエルは小さく息を吸った。
胸の奥が落ち着かない。それでも、今さら話を逸らすつもりはなかった。
「ずっと隣にいてくれたから……私、少しくらい期待してもいいのかと思ってた」
エドガーが目を見開いた。
何かを言おうとして口を開き、けれど言葉が出てこない。やがて観念したように息を吐いた。
「……タイミングを失ったんだよ」
「タイミング?」
「噂されてるときに言ったら、同情だと思われるだろ」
「うん」
「コンクール前に言ったら邪魔だ」
「うん」
「優勝したあとに言ったら、才能目当てだと思われる」
「……」
「縁談が殺到したら、焦ってるみたいで格好悪い」
マリエルはしばらく黙ってエドガーを見つめた。
「馬鹿なの?」
「おい」
「十年以上一緒にいるのに、今さら私がそんな勘違いすると思う?」
「……思わない」
「じゃあ、何を悩んでたの」
「だから、格好悪かったんだよ」
「もう十分格好悪いよ」
「ひどいな」
「でも」
マリエルは少しだけ笑った。それから、まっすぐエドガーを見つめる。
「今なら聞いてあげる」
「……何を?」
「分かってるでしょ」
その間にも曲は進み、やがて最後の旋律がゆるやかに収束していく。
二人は最後のステップを踏み、音が止むのに合わせて静かに足を止めた。マリエルは一歩下がろうとしたが、その手をエドガーは離さなかった。
「マリエル」
「何?」
「ちょっと来て」
「どこへ?」
「いいから」
エドガーはマリエルの手を引き、そのまま大広間を抜けていく。
扉の向こうのテラスへ出ると、夜の冷たい空気が火照った頬に心地よかった。先ほどまで間近にあった音楽も、人々の話し声も、扉一枚隔てただけで遠くなる。
二人きりになった。
そう意識した途端、急に何を話せばいいのか分からなくなった。
十年以上一緒にいる。二人きりで過ごすことだって、これまで何度もあった。
なのに、今夜だけは違う。
エドガーが黙っている。
マリエルも黙っている。
さっきまであれほど大胆なことを言えたのに、今になって心臓がうるさい。
「……エドガー」
「待って」
「え?」
「今、覚悟を決めてる」
マリエルは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「十年以上言えなかったことを言うんだぞ」
「……そうだね」
そう答えた自分の声がわずかに震えて、マリエルはようやく気づいた。緊張しているのは、エドガーだけではない。
エドガーが深く息を吐き、マリエルへ向き直る。いつも見ている顔なのに、真正面から見つめられると、どうしていいのか分からなくなる。
それでもマリエルは目を逸らさなかった。
「マリエル・アルヴェーン」
「……はい」
「ずっと好きだった」
もしかしたら、そうなのかもしれないとは思っていた。
それでも、実際にその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
「……そんな直球で言う?」
「言わせたのはお前だろ」
「……それはそうだけど」
「茶化すな。こっちは死ぬほど緊張してる」
「私だって緊張してるよ」
「そう見えない」
「失礼ね」
二人とも堪えきれずに笑った。
ほんの少しだけ、いつもの二人に戻る。
けれど、エドガーはすぐに真剣な表情になった。そしてマリエルの前で片膝をつき、その手を取る。
さすがに、もう笑ってはいられなかった。
「マリエル」
まっすぐに見上げてくるエドガーの表情は強張っていた。それでも、その目だけは逸らさなかった。
「俺と結婚してほしい」
マリエルは唇を結んだ。嬉しくて、笑いたいのか泣きたいのか、自分でもよく分からない。けれど、答えだけはずっと前から決まっていたような気がした。
「はい」
答えは、驚くほど簡単だった。
そこへ辿り着くまで、十年以上もかかったというのに。
♢
それから数か月後。
マリエルの魔道具は王都だけでなく、地方の町や村へも広がっていった。アルヴェーン男爵領には今日も商人が訪れ、新しく建てられた工房では大勢の職人たちが忙しく働いている。
今では「マリエル・アルヴェーン」と聞けば、多くの者が若き魔道具師の名を思い浮かべるようになった。
王都魔道具コンクール最優秀賞受賞者。
生活魔道具を広く普及させた発明家。
アルヴェーン領を姉とともに発展させた功労者。
そして、ベルフォール伯爵家次男エドガーの婚約者。
もう、誰かと間違える者などほとんどいない。
――ほとんどは。
だが、王国のどこかで、今日もまた。
「そういえば、王太子を誘惑して国外追放されたのって、男爵家の庶子だったよな?」
「ああ。桃色の髪の」
「確か、魔道具を作っている令嬢じゃなかったか?」
――そんな声に応えるかのように。
「それは、あっちの男爵家です――――!!」
遠く離れたアルヴェーン男爵領では、今日もマリエルの怒声が高らかに響いていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
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